第19話 最後のひとくち



翌朝、カフェには柔らかな光が差し込んでいた。


「今日で、お別れなんだね」


コトハは、キッチンで最後のスイーツを作りながらつぶやいた。


王子は今日、王宮に帰る。レオ兄様が迎えの馬車を手配すると言って、昨夜は宿に戻っていった。


「寂しい?」


王子が、カウンターの向こうから顔を出した。


昨日とは別人のような、生き生きとした表情。頬には赤みが差し、瞳は好奇心できらきらと輝いている。これが本来の、12歳の少年の顔なんだ。


「うん、寂しい」


コトハは正直に答えた。


「でも、また会えるよね?」


「もちろん」王子は大きくうなずいた。「約束したじゃないか」


コトハは微笑んで、生地をこねる手を動かし続けた。


今日作っているのは、苺ジャムのホットパイ。


心の扉を開く鍵となる、特別なスイーツ。でも今回は、呪いを解くためじゃない。


「これから」のための、お菓子だ。


「手伝うよ」


王子がエプロンを手に取った。カフェの制服についているやつだ。薄い水色で、胸元に星の刺繍がある。


「いいの? 王子様なのに」


「王子様だって、料理くらいするさ」


強がりだと分かっていたけど、コトハは笑って隣に立ってもらった。


「じゃあ、苺を切って。この大きさで」


「分かった」


二人並んで、料理をする。


王子は不器用だった。苺の大きさはバラバラだし、ジャムを煮詰める時は焦がしそうになった。


でも、楽しそうだった。


「料理って、面白いね」


「でしょ?」


「王宮では、いつも出来上がったものが運ばれてくるから。自分で作ると、もっと美味しく感じる」


「それ、分かる!」


おしゃべりしながら、パイ生地に苺ジャムを包んでいく。


「ねえ、コトハ」


「なあに?」


「君は、どうしてこのカフェに?」


手が止まった。


そういえば、まだ話していなかった。自分がなぜ、異世界に転移してきたのか。


「私ね」


コトハは窓の外を見た。


「現実世界で、ちょっと疲れちゃってたの」


「疲れて?」


「友達に、裏切られたことがあって。それから人を信じるのが怖くなって、学校にも行けなくなった」


王子は黙って聞いていた。


「でもね、ここに来て、ユアンに会って、みんなに会って。また誰かを信じてもいいかなって思えた」


「コトハ……」


「だから、ありがとう」


コトハは王子を見つめた。


「ユアンを助けられて、本当によかった」


王子の頬が、少し赤くなった。


「僕の方こそ、ありがとう」


二人は顔を見合わせて、くすっと笑った。


その時、オーブンが完成を告げる音を鳴らした。


「できた!」


扉を開けると、こんがりと焼けたパイから、甘い香りが立ち上る。


「美味しそう」


「熱いから、気をつけて」


コトハは慎重にパイを取り出し、お皿に乗せた。


粉砂糖を軽く振りかけて、完成。


「はい、どうぞ」


でも、王子は受け取らなかった。


代わりに、フォークを二本出してきた。


「一緒に食べよう」


「え?」


「だって、これは二人で作ったんだから」


王子の提案に、コトハは嬉しくなった。


「うん!」


二人でパイを切り分ける。


サクッとした生地から、とろりと苺ジャムがあふれ出た。


「いただきます」


同時に、口に運ぶ。


「……美味しい」


二人同時に言って、また笑った。


甘酸っぱい苺の味が、口いっぱいに広がる。でもそれ以上に、心が温かくなる味だった。


「ねえ、ユアン」


「ん?」


「帰りたい? 王宮に」


王子は少し考えてから、答えた。


「正直、怖い」


「怖い?」


「だって、三年間も感情を失っていたんだ。急に元に戻って、みんなが受け入れてくれるか」


「大丈夫だよ」


「どうして、そう言えるの?」


「だって」コトハは微笑んだ。「ユアンは、こんなに優しいもの。きっとみんな、本当のユアンを好きになる」


王子は照れたように俯いた。


「コトハは、僕を買いかぶりすぎだ」


「そんなことない」


「でも、ありがとう。勇気が出た」


王子は顔を上げた。その瞳には、決意の光があった。


「帰ったら、ちゃんと話すよ。自分の気持ちを、隠さずに」


「うん」


その時、カフェの扉が開いた。


「迎えに来たぞ」


レオが入ってきた。後ろには、立派な馬車が見える。


「もう時間か」王子が立ち上がった。


「待って」


コトハは慌てて、包みを取り出した。


「これ、お土産」


「お土産?」


包みを開けると、中には小さなクッキーが入っていた。星型の、シンプルなクッキー。


「魔法はかかってないよ。ただの、普通のクッキー」


「でも」


「お守り代わり。辛くなったら、食べて。そしたら、ここのことを思い出せるでしょ?」


王子は大切そうに、クッキーを受け取った。


「ありがとう。大切にする」


「食べ物だから、あんまり大切にしすぎないで」


また、二人で笑った。


「コトハ」


急に、王子が真剣な顔になった。


「なに?」


「これ、受け取って」


王子が差し出したのは、一冊のノートだった。


あの、交換ノート。


「でも、これは二人の——」


「君が持っていて。そして、時々、手紙を書いてくれないか」


「手紙?」


「うん。君の近況とか、カフェのこととか。何でもいいから」


王子は少し恥ずかしそうに続けた。


「離れていても、繋がっていたいんだ」


コトハの胸が、きゅんと鳴った。


「もちろん! たくさん書く!」


「楽しみにしてる」


レオが咳払いをした。


「そろそろ、行かないと」


「分かった」


王子はマントを羽織り、外に向かう。


でも、扉の前で振り返った。


「コトハ」


「なあに?」


「君も、帰るの? 元の世界に」


コトハは、少し考えた。


正直、まだ分からない。でも——


「いつかは、帰ると思う。でも、今じゃない」


「どうして?」


「だって、まだやりたいことがあるから。もっとたくさんの人に、美味しいスイーツを作りたい」


王子は微笑んだ。


「君らしいね」


「ユアンも、頑張って」


「うん」


王子は、もう一度深く頷いた。


そして——


「またね、コトハ」


「またね、ユアン」


王子は馬車に乗り込んだ。


レオが御者台に座り、手綱を取る。


「達者でな」レオもコトハに声をかけた。「ユアンを救ってくれて、感謝する」


「いえ、私は——」


「謙遜するな。君は英雄だ」


レオの言葉に、コトハは赤くなった。


馬車が動き出す。


王子が窓から手を振っている。コトハも、精一杯手を振り返した。


馬車が見えなくなるまで、ずっと。


「行っちゃった……」


急に、カフェが静かになった。


寂しさが、じわりと広がる。


「大丈夫?」


シェルが、足元に寄り添ってきた。


「うん、大丈夫」


コトハは涙を拭いて、笑顔を作った。


「だって、また会えるもの」


「その通りです」


シェルも優しく言った。


「それに、コトハにはまだ、ここでやることがある」


「そうだね」


コトハはエプロンの紐を結び直した。


テーブルの上には、食べかけのパイが残っている。


最後の一口を、口に運んだ。


やっぱり、美味しい。


二人で作った、特別な味。


この味を、忘れない。


そして、もっとたくさんの人に、この幸せを届けたい。


カフェの扉に、新しいお客様の気配がした。


きっとまた、心に傷を負った誰かだ。


「いらっしゃいませ」


コトハは、明るく声をかけた。


「魔法カフェへ、ようこそ」


新しい物語が、また始まる。


でも、王子との思い出は、ずっと心の中で輝き続ける。


最後の一口まで、美味しかった。


その味が、これからの勇気になる。

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