第18話 呪いをかけたのは誰?
「ユアン王子はどこだ!」
カフェの扉が勢いよく開き、銀色の鎧を着た騎士が飛び込んできた。
その後ろから、深紅のマントを羽織った青年が姿を現す。栗色の髪に、鋭い緑の瞳。王子と同じような気品を漂わせている。
「レオ様……」
ミーアが小さくつぶやいた。
王宮からの使者——ユアン王子の従兄弟、レオだった。
「ユアン!」
レオは透けかけた王子の姿を見て、顔色を変えた。すぐに駆け寄ろうとするが、シェルが前に立ちはだかる。
「待ちなさい。今は大事な時です」
「黒猫が口をきいた? いや、それより——」レオは王子を見つめた。「ユアン、すぐに王宮に戻るんだ。このままでは——」
「戻れない」
王子の声は、かすかに震えていた。でも、その瞳には確かな意志の光があった。
「僕は、まだ呪いを解いていない」
「呪いだと?」レオは眉をひそめた。「何を言っている。お前が感情を失ったのは、病気のせいだと——」
「違う」
王子は首を振った。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「僕は、自分で感情を封印したんだ」
カフェに、重い沈黙が流れた。
レオの顔に、動揺が走る。
「なぜ……なぜそんなことを」
「母上が亡くなった時」王子の声は静かだった。「僕は泣いた。泣いて、泣いて、泣き止まなかった。そしたら、周りの大人たちが言ったんだ」
王子は窓の外を見つめる。
「『王子様がそんなに泣いていては、国民が不安になる』『もっとしっかりしないと』『感情に振り回されるな』って」
コトハの胸が痛んだ。
まだ幼かった王子に、そんな言葉を投げかけるなんて。
「それで僕は思った。感情なんて、いらないって。邪魔なだけだって」
王子は自嘲的に笑った。
「愚かでしょう? でも、あの時の僕には、それしか方法が思いつかなかった」
「ユアン……」
レオが歩み寄る。その顔には、今までの厳しさはなく、心配と後悔の色があった。
「すまなかった。あの時、俺はまだ子供で、お前を助けることができなかった」
「レオ兄様のせいじゃない」
「いや、俺にも責任がある」レオは苦しそうに言った。「お前が感情を失った後、宮廷の連中は喜んでいた。『これで理想的な王になる』『感情に左右されない、完璧な統治者だ』と」
吐き捨てるような口調だった。
「俺は、それがおかしいと思いながら、何も言えなかった。お前を守れなかった」
レオは懐から、小さな包みを取り出した。
「これを、返しに来たんだ」
包みを開くと、中には小さな銀のペンダントが入っていた。青い石がはめ込まれた、シンプルなデザイン。
「母上の……」
王子の瞳が揺れた。
「王妃様の形見だ」レオが説明した。「お前が感情を失った時、一緒に王宮の宝物庫に封印されていた。でも、これはお前のものだ」
王子は震える手で、ペンダントを受け取った。
触れた瞬間、新たな記憶が蘇る。
——母親が、このペンダントを身につけている姿。
——『ユアン、これはね、お守りなの。辛い時、このペンダントを握りしめて』
——『でも、一番大切なのは、自分の心を信じることよ』
「母上……」
王子の瞳から、涙がこぼれた。
透明な涙が、頬を伝って落ちる。
「泣いてる……」コトハが息を呑んだ。「ユアンが、泣いてる」
それは、王子が何年も封印してきた感情だった。
悲しみ。寂しさ。そして——
「ごめんなさい、母上」
王子は膝をついた。ペンダントを胸に抱きしめ、子供のように泣きじゃくる。
「僕、間違ってた。感情を消しても、母上は戻らない。それどころか、母上との思い出まで、色あせてしまった」
レオが、そっと王子の肩に手を置いた。
「ユアン、もういい。もう、十分だ」
「でも、僕は——」
「感情を取り戻せばいい」レオは優しく言った。「時間はかかるかもしれない。でも、お前にはそれができる」
その時、シェルが口を開いた。
「実は、その通りです」
全員が黒猫を見る。
「王子の呪いは、もうほとんど解けています。後は——」
シェルはコトハを見た。
「最後の一押しです」
コトハは頷いて、エプロンのポケットから何かを取り出した。
アールグレイクッキー。
さっき、王子が泣いている間に、急いで作ったものだ。真実を落ち着いて受け止めるための、特別なクッキー。
「ユアン、これを食べて」
王子は涙に濡れた顔を上げた。そして、差し出されたクッキーを見つめる。
「これは……」
「あなたが自分を許すための、お菓子」
コトハは優しく微笑んだ。
「自分で自分にかけた呪いなら、自分で解くしかない。でも、一人じゃないよ。みんながそばにいる」
王子は震える手で、クッキーを受け取った。
一口、かじる。
アールグレイの優しい香りが、口の中に広がった。そして——
「あったかい」
王子がつぶやいた。
「心が、あったかい」
その瞬間だった。
王子の身体が、ゆっくりと色を取り戻し始めた。
透けていた輪郭が、はっきりとしてくる。薄かった肌に、血の気が戻ってくる。
「すごい……」ミリィが歓声を上げた。
「呪いが、解けていく!」
でも、完全ではなかった。
王子の身体は、まだ少し透けている。特に、心臓のあたりが。
「もう少しです」シェルが言った。「王子が、本当に自分を許した時——」
「許すって、どうすれば」
王子が困惑したように聞いた。
その時、ミーアが前に出た。
「ユアン」
「ミーア……」
「ごめんなさい」
ミーアは深く頭を下げた。
「あの時、私があんなことを言わなければ。『感情なんて邪魔』なんて、言わなければ」
「違う」王子は首を振った。「君のせいじゃない。決めたのは僕だ」
「でも——」
「ミーア、君も苦しかったんでしょう?」
王子の言葉に、ミーアの肩が震えた。
「王妃様は、君のお母さんでもあったようなものだった。君も、泣きたかったはずだ」
ミーアの瞳から、涙がこぼれた。
「私、私も感情を……消しちゃった」
告白だった。
「ユアンが感情を失った後、私も同じことをした。だって、あなたを苦しめた罪悪感に、耐えられなかったから」
だから、無感情の少女になった。
だから、他人の感情を奪うようになった。
自分が感じられないものを、せめて集めようとして。
「ミーア……」
王子は立ち上がり、ミーアに歩み寄った。
そして、そっと手を差し伸べる。
「一緒に、やり直そう」
「え?」
「僕たち、まだ子供だ。失敗してもいい。やり直せる」
王子は微笑んだ。三年ぶりの、本当の笑顔だった。
「一緒に、感情を取り戻していこう」
ミーアは泣きながら、その手を取った。
二人が手を繋いだ瞬間——
光が弾けた。
王子の身体が、完全に元に戻った。
もう透けていない。しっかりとした、生身の身体。
「やった!」コトハが飛び上がった。「やったよ、シェルさん!」
黒猫も満足そうに髭を動かした。
「見事です、コトハ。あなたの頑張りが、王子を救いました」
レオが歩み寄り、王子の肩を抱いた。
「よかった。本当に、よかった」
「レオ兄様……」
「さあ、王宮に戻ろう。みんな心配している」
でも、王子は首を振った。
「まだ、やることがあるんです」
王子はコトハを見つめた。
「コトハ、君には感謝してもしきれない。君がいなければ、僕は消えていた」
「そんな、私は——」
「お礼がしたい」王子は真剣な表情で言った。「何か、君の願いを叶えさせてほしい」
コトハは考えた。
願い、か。
本当は、一つだけあった。
でも、それは——
「私の願いは」
コトハは顔を上げた。
「ユアンが、時々このカフェに遊びに来てくれること」
王子は目を丸くした。
「それだけ?」
「うん。だって、まだまだ作りたいスイーツがたくさんあるもの。今度は呪いを解くためじゃなくて、純粋に美味しいものを食べてもらいたい」
王子の顔に、再び笑顔が広がった。
「もちろんだ。必ず来る」
「約束?」
「約束する」
小指を差し出すコトハに、王子も小指を絡めた。
ゆびきりげんまん。
子供っぽい約束の仕方に、レオが苦笑した。
「まったく、王子らしくない」
「いいじゃない」王子は笑った。「僕はまだ、子供なんだから」
その言葉に、みんなが笑った。
感情を取り戻した王子は、年相応の12歳の少年だった。
「でも、一つ問題が」レオが真顔になった。「王宮では、お前が行方不明になって大騒ぎだ。どう説明する?」
「正直に話します」王子はきっぱりと言った。「僕が感情を失っていたこと。それを取り戻すために、ここに来たこと」
「受け入れられるかな」
「分からない。でも、隠し事はもうしたくない」
王子の決意は固かった。
「それに」王子はカフェを見回した。「このカフェの存在も、みんなに知ってもらいたい。心に傷を負った人の、救いの場所があることを」
「ユアン……」
コトハは胸が熱くなった。
王子は、ただ自分が救われただけじゃない。他の人のことも考えている。
「賛成」ミーアが手を挙げた。「私も手伝う。きっと、私たちみたいに苦しんでいる人は、他にもいるはず」
レオはため息をついたが、その顔は優しかった。
「分かった。俺も協力しよう。王子の決めたことなら」
「ありがとう、兄様」
残り時間は、あと一時間。
でも、もう心配はなかった。
王子の呪いは、完全に解けたのだから。
「さて」シェルが言った。「王子も無事に回復したことだし、祝杯をあげましょうか」
「お酒?」コトハが首を傾げた。
「違います。特製ホットチョコレートです」
みんなが笑い合う中、コトハは思った。
これが、本当の魔法なんだ。
誰かの心を救い、笑顔を取り戻すこと。
それが、魔法カフェの一番大切な仕事。
窓の外では、感情の蝶たちがまだ舞っている。
でも、今夜一匹、その群れから離れて、地上に帰ってきた。
ユアン王子の、大切な心が。
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