第17話 コトハ、スイーツを超える魔法を使う
「だめだ……!」
三度目の失敗。オーブンから取り出したハニーバタークッキーは、またしても灰色に変色していた。
残り時間は、あと四時間。
コトハの手が震えている。何度作っても、優しさの感情がうまく定着しない。王子の「寂しさ」があまりにも深くて、普通のスイーツでは太刀打ちできないのだ。
「どうして……どうしてうまくいかないの?」
涙がこぼれそうになる。でも、泣いている場合じゃない。
王子は、カフェの隅でぼんやりと座っている。さっき戻ってきた「寂しさ」の感情が、彼を苦しめているのが分かる。透けた身体が、時折ぴくりと震えていた。
「コトハ」
ミリィが、そっと肩に手を置いた。
「もしかしたら、普通のスイーツじゃ無理なのかも」
「え?」
「だって、ユアンさんの呪いは特別でしょう? 自分で感情を封印したんだもの。それを解くには……」
ミリィの首から下がっている鍵のペンダントが、かすかに光った。
「特別な方法が必要なのかもしれない」
その時、シェルが突然立ち上がった。黒い毛が逆立ち、瞳の星模様が激しく明滅している。
「まさか……いや、でも……」
「シェルさん?」
「コトハ、君には見えているはずだ。感情の色が」
「はい」
「なら、自分の感情を、直接王子に分けることはできないか?」
「えっ?」
「スイーツを介さずに、君の記憶と感情を、王子と共有する。それができれば……」
シェルは言いかけて、首を振った。
「いや、忘れてくれ。それは禁術だ。危険すぎる」
「禁術?」
「メモリアル・フィーユという、古い魔法です」シェルの声が重い。「使用者の記憶を、相手の心に直接流し込む。でも、失敗すれば——」
「使う側も、記憶を失うかもしれない」
新しい声に、全員が振り返った。
カフェの入り口に、誰かが立っている。
フードを深くかぶった、小柄な人影。でも、その声には聞き覚えがあった。
「ミーア!」
無感情の少女が、ゆっくりとフードを脱いだ。
金色の髪が、カフェの明かりを受けてきらめく。でも、その表情は相変わらず人形のように無機質だった。
「何しに来たの!」コトハが身構える。
「邪魔をしに……と言いたいところだけど」
ミーアは肩をすくめた。
「今回は、違う」
懐から、古い本を取り出す。表紙には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
「これ、王家の紋章……」
「ユアンのお母様の、レシピ帳よ」
全員が息を呑んだ。
王子が初めて、顔を上げた。透けた瞳に、かすかな光が宿る。
「母上の……?」
「最後のページに、メモリアル・フィーユの作り方が書いてある」ミーアが本を差し出した。「彼女も使ったことがあるみたい。大切な人を救うために」
コトハは震える手で本を受け取った。
最後のページを開くと、そこには美しい文字で魔法の手順が記されていた。そして、欄外に小さく——
『愛する我が子へ。いつか貴方が本当の幸せを見つけられますように』
王子の母親のメッセージだった。
「お母様……」
王子の頬を、一筋の涙が流れた。感情が戻りつつある証拠だ。
「でも、どうして?」コトハはミーアを見つめた。「どうしてこれを……」
「私のせいよ」
ミーアの声が、初めて震えた。
「ユアンが感情を失ったのは、私のせい。あの日、王妃様が亡くなった時、私は……」
言葉が詰まる。
「私は、ユアンに言ったの。『泣いても、お母様は戻らない。感情なんて、邪魔なだけ』って」
空気が凍りついた。
「まだ幼かったから。自分も辛くて、どうしていいか分からなくて。でも、ユアンはその言葉を真に受けて……」
「自分で、感情を封印した」シェルが続けた。「なるほど、そういうことでしたか」
ミーアはうなずいた。
「だから、これは私の贖罪。せめて、ユアンを救う手伝いをさせて」
コトハは本を胸に抱きしめた。
そして、王子を見る。
「ユアン、私、やってみる」
「コトハ……」
「あなたの寂しさを、ひとりで抱え込まないで。私の記憶を分けてあげる。楽しいことも、悲しいことも、全部」
王子は戸惑ったように首を振った。
「でも、危険なんでしょう? 君の記憶が——」
「大丈夫」
コトハは微笑んだ。
「だって、私たちもう友達でしょ? 友達なら、思い出を分け合ってもいいよね」
深呼吸をして、レシピ帳を開く。
材料は、シンプルだった。
卵、小麦粉、砂糖、バター。そして——
「作り手の、一番大切な記憶」
コトハは目を閉じた。
一番大切な記憶。それは——
『おかえり、コトハちゃん』
おばあちゃんの、優しい声。
学校でいじめられて、泣きながら帰った日。おばあちゃんは何も聞かずに、ただ温かいココアを入れてくれた。
『つらいことがあっても、ここはあなたの居場所よ』
その記憶を、胸の奥から引き出す。
温かくて、少し切なくて、でも確かな愛情に満ちた記憶。
「始めます」
材料を混ぜ始める。でも、今回は違う。
混ぜるたびに、コトハの記憶が生地に溶け込んでいく。
——公園で、ひとりぼっちだった日。
——図書室で、本に夢中になった午後。
——初めて友達ができた時の喜び。
——裏切られた時の悲しみ。
——それでも、誰かを信じたいと思った勇気。
すべての記憶が、きらきらと光りながら生地に混ざっていく。
「コトハ、大丈夫?」ミリィが心配そうに見守る。
正直、くらくらする。記憶が引き出されるたびに、頭の中が少しずつ白くなっていくような感覚。
でも、止まらない。
だって、王子を救いたいから。
「次は、これを型に入れて……」
でも、レシピ帳にはこう書かれていた。
『型は、相手の心の形に合わせること』
相手の心の形?
コトハは王子を見つめた。
そして、分かった。
王子の心は、小さく縮こまっている。自分を守るために、感情を拒絶してきた心。
だから——
「星の形にしよう」
夜空の星のように。
希望の光のように。
生地を、小さな星型に整えていく。一つ一つ、丁寧に。
そして、最後の仕上げ。
「ノスタルジア・ブリュレ」
懐かしさを焼き付ける、魔法の炎。
オーブンに入れる前に、コトハは呪文を唱えた。母親のレシピ帳に記されていた、古い言葉。
「過去と現在を結び、心と心を繋げ。私の記憶よ、橋となれ」
魔法オーブンが、今までにない強い光を放った。
金色でも、銀色でもない。
虹色の、優しい光。
「すごい……」
ミーアさえも、息を呑んでいる。
オーブンの中で、星型のお菓子たちが、ゆっくりと焼き上がっていく。
そして——
チン。
完成の音が、静かに響いた。
扉を開けると、そこには——
「きれい……」
星型のフィナンシェが、淡い光を放っていた。表面には、砂糖ではなく、記憶の結晶がきらめいている。
コトハはそっと一つを手に取った。
触れた瞬間、自分の記憶が鮮明に蘇る。でも、不思議と悲しくない。むしろ、懐かしくて温かい。
「ユアン」
王子の前に、膝をついた。
「はい、どうぞ」
王子は震える手で、星型のお菓子を受け取った。
「コトハ、本当に……」
「大丈夫。私を信じて」
王子が、ゆっくりと口に運ぶ。
一口、噛んだ瞬間——
王子の瞳が、大きく見開かれた。
そして、コトハの記憶が、王子の心に流れ込んでいく。
二人の間に、不思議な繋がりが生まれた。
王子には、コトハの記憶が見える。
コトハには、王子の心が見える。
そこには——
『お母様、行かないで』
幼い王子が、ベッドで眠る母親にすがりついている記憶。
『ユアン、強くなりなさい。感情に振り回されないように』
それが、母親の最後の言葉だった。
でも、本当は違った。
コトハには見えた。母親の本当の思いが。
『強くなれというのは、感情を殺すことじゃない。感情と向き合い、それでも前を向く勇気を持つこと』
その真実が、王子の心に届いた瞬間——
パリン。
何かが砕ける音がした。
王子の心を縛っていた、呪いの鎖が。
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