第16話 感情が蝶になって飛んでいく
カフェの空気が、ぴりぴりと震えていた。
「ユアン!」
コトハの叫び声が響く。王子の身体は、もうほとんど透けて見えない。輪郭だけがぼんやりと光っているような、今にも消えてしまいそうな存在感だった。
残り時間は、あと六時間。
「どうしよう、シェルさん! もう時間が——」
「落ち着きなさい、コトハ」
黒猫の声は冷静だったが、その瞳には焦りの色が浮かんでいた。紺と紫の瞳に浮かぶ星模様が、不安定に明滅している。
「最後の感情が、まだ王子の中に残っているはずです。それを引き出せれば——」
「最後の感情?」
王子は力なく首を振った。その動きさえも、まるで水の中でゆらめく影のようだ。
「もう、何も感じない。本当に、何も……」
その時だった。
ふわり、と。
王子の胸のあたりから、小さな光が浮かび上がった。それは薄い青色をしていて、まるで——
「蝶?」
コトハが息を呑む。
光は確かに、一匹の蝶の形をしていた。透き通った羽を震わせながら、ゆっくりと王子の身体から離れていく。
「あれは……」シェルが目を見開いた。「王子の最後の感情だ」
「待って!」
コトハが手を伸ばすが、蝶はするりとその指をすり抜けた。そして、カフェの天井に向かって舞い上がっていく。
「逃がしちゃダメ!」
コトハは必死で蝶を追いかけた。テーブルの上に飛び乗り、椅子を踏み台にして、手を伸ばす。でも、蝶はどんどん高く舞い上がっていく。
「コトハ、危ない!」
バランスを崩したコトハを、誰かが支えた。振り返ると、そこには——
「ミリィちゃん!」
記憶喪失の精霊の少女が、コトハの腰を抱えていた。いつもの淡いパステルカラーのドレスが、ふわりと広がる。
「あの蝶を、捕まえなきゃいけないんでしょ?」
ミリィの背中から、小さな羽が生えた。シュガーフェアリーのような、きらきらと光る羽。
「一緒に行こう」
二人は宙に浮かび上がった。蝶を追って、カフェの高い天井近くまで飛んでいく。
下では、王子がぼんやりと見上げていた。その表情は相変わらず無表情だったけれど、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
「あと少し……!」
コトハの指先が、ようやく蝶に触れそうになった瞬間——
パリン。
カフェの天窓が、音もなく砕けた。
蝶は、星空へと飛び出していく。
「だめ!」
コトハとミリィも、砕けた天窓から外へ飛び出した。
外は、異世界の夜空だった。見たこともないような大きな月が浮かび、無数の星がまたたいている。そして——
「きれい……」
無数の蝶が、夜空を舞っていた。
青、赤、黄色、緑、紫。さまざまな色の蝶たちが、まるで生きた星のように飛び交っている。
「これ、全部……」
「きっと、今まで失われた感情たちよ」ミリィが静かに言った。「カフェで救えなかった人たちの、最後の感情」
コトハの胸が、きゅっと痛んだ。
こんなにたくさんの感情が、誰にも届かずに夜空を漂っているなんて。
「ユアンの蝶は……どこ?」
必死で探すが、薄い青色の蝶は、もう他の蝶たちの中に紛れてしまっていた。
「コトハ!」
下から、シェルの声が聞こえた。
「もう時間がない! 王子が——」
振り返ると、カフェの中で王子の姿がさらに薄くなっているのが見えた。もう、本当に消えかけている。
「どうしよう……」
涙がこぼれそうになった時、ミリィがそっとコトハの手を握った。
「大丈夫。きっと見つかる」
「でも、どうやって? こんなにたくさんの中から……」
「呼んでみて」
「え?」
「心を込めて、呼んでみて。ユアンさんの感情なら、きっとコトハの声に応えてくれる」
コトハは息を整えた。そして、夜空に向かって叫んだ。
「ユアン! 聞こえる? あなたの感情を、返して!」
風が吹いた。
蝶たちが、ざわざわと動き始める。
「お願い! ユアンのところに、帰ってきて!」
すると——
一匹の薄青い蝶が、群れから離れた。
ゆらゆらと、不確かな動きで、コトハたちの方へ近づいてくる。
「来た!」
コトハは両手をそっと差し出した。蝶は、まるで疲れ果てたように、その手のひらに舞い降りる。
触れた瞬間、コトハの心に何かが流れ込んできた。
——寂しい。
——誰か、そばにいて。
——ひとりは、いやだ。
「これが、ユアンの最後の感情……」
『寂しさ』だった。
すべての感情を失っても、最後まで残っていたのは、たったひとりぼっちでいることへの恐怖だった。
「急いで!」
ミリィと一緒に、カフェへ戻る。
王子は床に崩れ落ちていた。シェルが必死に呼びかけているが、もう返事もない。
「ユアン!」
コトハは王子のそばに駆け寄り、手の中の蝶をそっと王子の胸に押し当てた。
「お願い、戻って……!」
蝶が、ゆっくりと王子の身体に吸い込まれていく。
一瞬、静寂が訪れた。
そして——
「……コトハ?」
王子の瞳が、ゆっくりと開いた。
まだ身体は透けているけれど、その瞳には確かに『感情』の光が宿っていた。
「よかった……」
安堵のあまり、コトハはその場にへたり込んだ。
でも、これで終わりじゃない。王子の身体はまだ透けたままだ。そして残り時間は——
「あと五時間です」シェルが告げた。「最後の勝負です。王子の心の扉を、完全に開かなければ」
コトハは立ち上がった。
エプロンについた小麦粉を払い、髪を結び直す。
「わかりました。最高のスイーツを作ります」
王子を見つめる。
さっきまでの無表情とは違い、今の王子の顔には、かすかに『寂しさ』の影が浮かんでいる。それは辛い感情かもしれないけれど、何も感じないよりはずっといい。
「ユアン、待ってて。必ず——」
「うん」
王子が、小さくうなずいた。
その瞬間、カフェの魔法オーブンが、優しい光を放ち始めた。
最後の挑戦が、今始まる。
コトハの手には、小瓶に入った黄金色のハチミツと、新鮮なバターが握られていた。最後の感情——寂しさを包み込み、優しさで固定するための、特別なスイーツを作るのだ。
ハニーバタークッキー。
単純なようで、実は一番難しい魔法菓子。なぜなら、作り手の『優しさ』がそのまま味に反映されるから。
「コトハ、準備はいい?」
シェルの問いかけに、コトハは力強くうなずいた。
夜空では、まだ無数の感情の蝶たちが舞っている。
でも今は、目の前の王子だけを見つめて——。
『次回、禁断の魔法が発動する。コトハの記憶が、王子の心に——?』
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