終幕 夢よ、何度でも(2)

 日本ダービー ──当日



「いや……雨ヤバッ!!!!」


 ドーン! すんごい音を立てて午前中に雷が落ち、発走時刻が遅れたのは記憶に新しい。

 しかし雨は止むことなく降り続き、結果馬場状態は芝・ダート共に最悪の不良発表となった。


 エイダは既に新馬戦、サフラン賞の二戦で重馬場、稍重馬場は経験している。

 だがあの時は馬場が悪かっただけで、雨が土砂降りというコンディションではなかった。パドックに出てきた馬たちは、雨に体を濡らしながら周回を始める。


 フルゲート十八頭、十七頭が牡馬でエイダは紅一点だ。しかも大外枠の十七番。

 東京競馬場のコースはどうしても内枠有利で外枠不利と言われている。枠順を聞かされた時、私は心底「運無え~~~~」と思った。

 過去のデータを参照しても、大外から勝ったのは四頭のみで、しかもそのうちの一頭に関しては三冠馬となっている。無論他の三頭も実力は世界級だ。


 大外の八枠──十七番から追い込んで差し切れるかどうかは、正直言って全く分からない。これだけ馬場状態が悪化しているダービーも珍しい。

 ドロドロの馬場はまるで田んぼだ。


 私は十七頭の牡馬の後ろを歩いていく栗毛の彼女を見遣った。白いシャドーロールは雨に濡れてぺしょりと潰れてしまっている。

 可愛い黄色の花飾りで鬣はきっちりと纏められており、馬具は落ち着いた焦げ茶色で統一されている。レインコートを着て一人で手綱を引く渚ちゃんは、髪の毛にエイダとお揃いの花飾りを付けていた。


 雨音が激しく傘や地面を叩く。水に濡れた金色の尾は水分を多く含んでいるので、軽く振るうたびに水滴が飛ぶ。「止まれ」の号令も雨音でかき消され、僅かにしか聞こえない。だが耳のいい馬たちはその号令を聞いている。エイダはピタリと歩く足を止めてぷるぷると体を震わせた。


 私は透明なレインコートを着て、ダートシールドをヘルメットに引っかける。控えから外へ出れば、丁度雨足が少しだけましになった。私は観客に一礼して一歩踏み出す。しかし、真下にはちょっとした水たまりがあったことに私は気づいていなかった。



「うぉぁっっ!!?!」


 お手本のような滑り方ですっ転んだ私は思いっきり膝をぶつける。痛い痛いと唸る私を見ながら、爆笑している瀬川が助け起こしに入った。瀬川に差し出された手を握って立ち上がろうとしたが再び滑って転ぶ。下に引っ張られた瀬川もドミノのように転ぶ。


「ちょっと白綾!!」

「いやこっちの台詞やアホ!! はよ手ぇ離さんかい」

「白綾が握ってきたんだろ!? 何で俺のせいなんだよ」

「お前らいつまでも遊んでんな! 早く行くぞ!」

「起こしてくれ……フッフフフ……」

「佐々田ぁ起こして!! ひ、膝が痛いねん。絶対膝割れたわフハハハハ」

「自分で立てバカ共。爆笑してる場合か。ダービーのパドックでひっくり返ってる騎手がどこにいやがる」

「「は~~い……」」


 よいせ、と立ち上がった私は「何やってんのよ……」という顔のエイダの元へ向かう。精神的な落ち着きがあるのは父譲りだ。馬房の中に少し大きめのくたびれたテディベアが置いてあるのも、彼女の落ち着きの要因かもしれない。

 私はエイダの背に跨る。柔らかく可動域の広い肩と後脚は母譲りだ。鞍上で手綱の長さを調節し、ゴーグルを装着してから私はいつものようにエイダの首筋を撫でた。



「十一度目の正直、になるとええなぁ……」

(なるわよ)

「ん? エイダ?」

(だから、成るわよ、って言ってんの)

「ふふ……落ち着いてるなぁ、流石や」

(パパが獲り逃がした杯だもの。……絶対に獲るわ)


 くるくる忙しなく動いていた耳がすっと前へ向く。エイダの背から伝わる気配が変わったのが空気を通じて伝わる。どこかの新聞社がエイダを〝黄金の怪物〟と呼んでいたのを思い出す。確かに、時折エイダは怪物の名に相応しい──ぞっとするような気配を讃えていることがある。言い得て妙というべきなのかは分からない。

 私はエイダの首筋を撫でながら地下馬道の出口を見る。歓声と光が洪水のように押し寄せて、熱気が冷たい雨を蒸発させる。怖いくらいに集中して見せているエイダは、歓声を蹴散らして返し馬をこなす。不良馬場もまるで良馬場を走るように軽い脚で走ってみせた。


 父の背中を超えられるかというのは、誰もがワーナビーエイダーに向けるものだ。ロジェールマーニュ以上の戦績を望む。圧倒的な速度と強さを望む。私はロジェールマーニュの背中を知っている。だからこそ誰よりも分かる。──分かるつもりでいる。

 ワーナビーエイダーは怪物だ。間違いない。父を容易く超える怪物だ。

 シャルルの血脈が、ハイドノーブルという黒い高貴が生み出した最高傑作──それこそがワーナビーエイダーという牝馬だ。



「……エイダ」



 ゲート裏で、前を見据える。視界には降り続く雨と、金色の背中。花飾りと焦げ茶色の馬具。父とは似つかない見た目の娘の背に私はいる。シャルルの遺した子供たち。最優の血脈から生まれた、シャルル一族の最高傑作。黄金色の怪物──ワーナビーエイダー。

 彼女は地面に杭を打ったように動かず、私が落ち着くのを待っていた。



「白綾騎手」

「すんません、お待たせしました。お願いします」

「お気を付けて」

「ええ」



 私もまだまだやなぁ、と息を吐きだす。係員に引っ張られ最後にワーナビーエイダーがゲートへ収まる。

 数秒──前を塞ぐゲートが一斉に開き、雨と泥の混ざった馬場へ十八頭が躍り出た。







 了

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春雷 アスナショウコ @AsunaShoko

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