次元の宿

マドノユキ

次元の宿

私は年に一度、決まった時期に旅に出る。仕事柄いつも家に籠もっていると、無性に逃避したくなる。かといって、旅先で何かしたいわけじゃない。単に一人で宿に泊まるのが好きだというだけ。行き先も宿泊する宿も同じ。お気に入りの宿、というほどの宿でもないが、馴染みの宿というのは、何かと気を遣わずに済む。独り身だった頃の自由を思い出し、人生をリセットする旅。


目的地の宿は廃業していた。既に取り壊しが始まって、重機が入っていた。呆気に取られて見ていると、知った顔の宿の従業員が見つけて話しかけてくれた。老いた女将が亡くなり、維持することができなくなりこの有り様だと申し訳なさそうに彼は言う。「あんなに元気そうだったのに」そんな定型的な思い出話など、お悔やみ代わりに2、3言葉を交わす。途方に暮れていたように見えたのか、別の宿を教えてくれた。


かび臭い木賃宿、17になる美しい宿守のいる。

綺麗な大きな旅館、60になる上品な女将のいる。


おかしいな、どっちに泊まったのだったっけ。奇妙なことに両方の記憶がある。どちらも、快適な滞在ができた気がする。来年はどうしよう。自分に問いかけた。


どちらの宿に、また泊まりたくなる?


翌年。


かび臭い木賃宿。

去年までは確かにそうだったが、今年は手入れが行き届き、かび臭さはもうない。18になる宿守は、宿泊台帳に記入している私に明るく話しかける。

「お客さん、去年もいらしてくれましたよね」

顔を上げると、嬉しそうにはにかんだ顔があった。

壁は薄く頼りないが、他の宿泊客もいないから静かで落ち着ける。案技悪くない。


綺麗な大きな旅館。

60になる上品な女将が万事適切な切り盛りをしている。夕方になると、部屋から見る湖畔の風景が美しい。日常を忘れさせてくれる。部屋は広く快適ですべてが整っている。北界があるというもの。


どちらの宿に、また泊まりたくなる?


翌年。


手入れの行き届いた木賃宿。

19になった宿守はより美しくなり、宿経営を楽しんでいる。少ない部屋のおかげ家彼女が部屋に運んでくれる。少し手の込んだ家庭の手料理といった趣。料理の才能もあるらしい。受け継いだ宿に愛着を持っているようで、古いながらも綺麗に磨き上げ、設備も充実し民宿といえるくらいになっている。来年はどうなっているか楽しみになっている。


豪華で綺麗な大きな旅館。

60になる上品な女将が采配している。すべてが落ち着いていて、料理も美味しい。今年も変わらぬ夕方の眺めに時間を吸い取られていると一年が終わったという安堵感を感じる。こうして気持ちも整えていると、来年のいい年になるという気がしてくる。


どちらの宿に、また泊まりたくなる?


翌年。


手入れの行き届いた、古民宿。

宿守は20になり、順調に売り上げを上げ、設備もより快適にしていた。狭い共有浴場も、スケジュールを調整し、順番になると呼びにきてくれる。料理の腕も一段と上がっていた。料理が利益の柱になっているらしい、宿代より高くとも全く気にならない。Tシャツ姿で、冗談っぽく裾を引いてお酌をしてくれる。快適に過ごせるよう甲斐甲斐しく駆け回ってくれる姿も微笑ましい。


綺麗な大きな旅館。

先代女将は急逝され、最近25になる娘に代替わりした。よく仕込まれていて、堂々とした威厳。それでいて笑うと、あどけない表情を見せてくれる。笑顔の瞬間、緊張がほぐれているのがわかる。料理を運んできてくれて、着物の袖を引くお酌をする姿も優雅である。変わらぬ老舗の安心感に、新たな活力が加わった。


どちらの宿に、また泊まりたくなる?


翌年。


料理の美味しい古民宿。

宿守は21になり、結婚していた。料理の腕は更に上がり、バリエーションも増え。選ぶ楽しみも増えた。聞けば、旦那とは、ここで知り合ったお客だったという。出会ったのは2年前…。


綺麗な大きな旅館。

26の若女将は立派に男衆にも指図し、先代以上に業績を上げていた。経営者として振る舞うのは無理もあるらしく、毎年来てくれる馴染みの客と話す時が一番楽しいのだそうだ。それが本心なのは、従業員の前では見せないリラックスした笑顔でわかる。


どちらの宿に、また泊まりたくなる?


翌年。


料理が充実した古民宿。

建築法的に少し問題があるらしく、取り壊しが決まったと、扉を抜けるといきなり聞かされた。22になる幸せなはずの宿守は、少し寂しそうだった。料理はもう申し分なく、地元でも評判にもなっている。もっと料理の価格に相応しい宿屋に改築した方が良い、という出資者あるそうだ。しかし彼女にその気はない。幼いころ祖母が経営していたこの宿をよく遊び場にしていた。お客さんに可愛がられて育ったという。

「あと一年だけ経営は続けるから、来年も来てね」

帰り際に背中に掛けられたフランクな言葉遣い。振り返ると、初めて会ったのはにかむ笑顔が底にあった。


綺麗な大きな旅館。

27になる若女将は、品格と美貌そして知性を兼ねそろえ、雑誌取材の応対も様になっていた。洗練された振る舞いとその仕事ぶりは、職種は違えど学びになっている。ただ、残念なことにオーナーの意向で、旅館は大手のホテルに売り渡されることが決まったらしい。

若女将に懸想したオーナーが、振られた腹いせに、売り飛ばしたのだそうだ。

そんなことは若女将は一言も言わない。しかし地元でそう噂されているのを耳にする。

既に売り渡された後だったが、従業員の進退もあることだから、あと一年だけ経営は続けることになった。


どちらの宿に、また泊まりたくなる?


翌年。


廃業が決まった古民宿。

23になった宿守の顔は、意外にも明るかった。私が今年も来訪したことを心から喜んでくれている。隣にいた旦那さんも恭しく頭を下げてくれた。初めて見たが、誠実そうな青年に思えた。

彼が部屋にやって来た。近代的な民宿として、部屋数も増やして建て替えることを考えているという。ぜひまた贔屓にして欲しいと、ここでも頭を下げられた。彼が妻にも隠しているのは、金策などまだいろいろ解決しないことがあるのだろう。


売り渡しが決まった旅館。

28の若女将は従業員と一体となり、笑顔で迎えてくれた。その顔には以前、常連客と話をする時が一番楽しいと言ってくれた時の表情を思い出す。

部屋に通されたあと、「失礼します」と番頭が部屋にやってきた。こんなことは初めてだ。番頭は話し始めた。

「最後だから言わなければいけません。失礼を承知の上で聞くだけ聞いてください」

彼が言うには、若女将は先代の見習いの頃から、私に好意を持ち、毎年この日を楽しみにしていたのだという。若女将は、別の旅館の女将として雇われることが決まっているが、従業員は歳も歳だしついてゆくことはできない。あなたが我々に代わって若女将を支えてやってくれないか。そんな話だった。

思いがけない打ち明け話に困惑したが、正直に答えた。

「一人旅をするのが好きでいつもこの日だけは来ることにしていたが、私は妻帯者です。誤解をさせてしまい申し訳なかったです。」

番頭は一瞬驚いた顔を見せ、すぐに早とちりをしたことを謝罪した。若女将はこの一年は耐え時だから、今の話は言わないでやって欲しい。そう言って部屋を出て行った。


どちらの宿に、また泊まりたくなる?


今年も宿の予約を入れる時期。

民宿の新築計画は順調ですか?と旦那さんに連絡をしてみると、

「立派に完成していますよ。是非とも、また来てあげてください」

少し他人事のように聞こえた。暫く探りを入れたところ、言いにくそうにしていたが、どうやら彼の背信行為があって別れたらしい。

「そうですか」

電話を切った。

訳あって、私も彼と同じく妻とは別れていた。ただ私の場合、裏切られた側なので彼には同情しない。


翌年。


新築の民宿。

出来たばかりの民宿は、木賃宿時代の木造素材を残すように配慮されていた。思い出のある、手すりを撫でてみた。祖母の時代と言っていたな。一年前が遠い昔の時代だったように思える。24になった宿守の顔は、笑顔に少し陰があり苦労が出ていた。私が来たことが意外だったのか、驚いていた。民宿になって部屋数も増え、料理人が作ることになっていた。しかし昔からの馴染みには、特別にと彼女が作ってくれた。作務衣姿で部屋に運んできてくれ、昔のように、お酌をしてくれた。彼女にもお酒を進めた。お猪口を煽ると、彼女の頬に桜が舞ったように赤みが差した。


別の旅館。

29になった雇われ女将は、疲れた顔をして最初別人かと思った。引退したはずの前女将が彼女に指図していた。一人で男衆を切り回していた時の凛々しさは失われ、彼女の肩が小さく見えた。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

定型的な硬い言葉。前もそうだったかな?いや、目も合わせてくれない。名前も呼んでくれなかった。新しい環境では勝手が違い、馴染めていないらしい。前女将は客人の前なのに、あからさまに厳しい言葉を彼女に投げかける。ビジネスの良き教師とまで内心思っていた彼女へのこの扱いは、とても見るに堪えられなかった。料金だけ支払って帰ることにした。しかし彼女が私の荷物を硬く掴んで話さない。無言で案内を始めた。その有無を言わさぬ背中には往年の彼女の姿を感じた。去年と同じ私の部屋に着くと思い出す。打ち明け話をしてくれた番頭。彼女は今も気持ちは変わっていない様子だった。


どちらの宿に、また泊まりたくなる?


―完―

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