名前
両親と親友。
二つの記憶を手に入れることができたその人。
二つは両方とも鮮明に思い出されたのだが、その中でもたった一つ、唯一にして致命的なものを思い出せないことに悩んでいた。
「名前…………」
そう、いかにも名前だ。
それはずばり、存在を決定づける重要な要素。
形あるもの、ないものにさえ、その存在を世界から認めてもらえば与えられる、唯一無二な要素。
だが、その人は知ることができていなかった。
自分の名前はもちろん、両親や親友の名前もまた、思い出せずにいた。
彼らと一緒に過ごしてきた時間は、一緒に生きてきた記憶は、はっきりと覚えているというのに。
それが何よりも悲しく、心残りとなってその人の胸を突き続けていた。
「どうして、名前だけ知ることができないのだろうか」
その人の切実な問いが、自然と口から零れる。
「名前、か…………」
すると、男がさぞ不思議そうに言葉を復唱した。
「あなた、そういえば名前は?」
ふと、今までの会話を振り返ったときに、男が一切自分の名前を言っていないことに気が付いたその人は尋ねてみることにした。
咄嗟に自分の名前を聞かれた男は、重箱の隅をつつかれたような反応を示していた。
「いやあ、そうだね……名前かぁ……」
どうやら、答えることができないらしい。
それが「答えない」のか「答えられないのか」は彼の口から語られることはなかったが、ただ一言、
「要らなかったんだ。今日までここで生きてきて、一度も」
言い訳のように放たれた言葉を聞いて、その人はひとまず納得することにした。
「――でも、不便、ですよね」
少しして、その人が会話を再開させる。
それは男に向けての言葉であるのと同時に、自身に向けて発せられた言葉でもあった。
確かに、「名前」はあった方がいい。
人間が名前で呼び合うのは、誰が誰だか識別しやすくなるためであり、それが個性の一部として確立するからだ。
それに、愛着も湧く――かもしれない。
ただ、果たして、この場所でそれが必要なのだろうか。
言ってからすぐ、その人の頭に疑問が浮かんだ。
ここには自分と彼、たった二人しか人がいない。
それ以外にあるといったら、木製の長机と「しゅき」、それから美しい外の世界だけで、とりわけ有機的な生物は存在しない。
わざわざ、名前を改めてつける必要があっただろうか。
「いや、やっぱり、そんなにいらないかも――」
思考したのち、その人は前言撤回をした。
「そうかい?」
それでいいのか? と確認するように男は言った。
そして続けて、
「名前があると相手のことをより想うことができる、と僕は思うな」
とも言った。
「え?」
予想外から投げられた考え方に、その人からは戸惑いの声が漏れた。
名前があることの理由に、わざわざ「相手を想うこと」を挙げるのは考えてもみなかったので、それがその人にとってひどく印象的だったのだ。
「相手のことを?」
「そうだ。名前もない人のことを考えたって仕方がないだろ?」
「それは……そうです」
無理のある論法のようにも見えたが、その人の手元には反論できるほどの材料はなかったので、肯定するしかなかった。
とりわけ、否定する気がなかったのも事実だ。
男はそれを聞いて、少し「ははっ」と乾いた笑いが出た。
「君なら何か言い返すと思ったんだがね」
「…………」
その人は、男の期待を裏切ったような気がして思わず黙りこくってしまう。
まさか期待されていたとは思っておらず、何だか複雑な気分にさせられてしまった。
その人が何を言い返そうかと考えていたそのとき、男が突然口を開いた。
「僕の名前さ」
そして次に言ったことは、その人にとって重大な責任となって背負うこととなる。
「君が決めてくれよ」
「え?」
彼の名前を、自分が? と、聞き返したくなってしまうほど、男の要望は大きく、重いものであった。
瞬間、その人の脳内は困惑で溢れかえり、まともな思考はできなくなっていた。
――どうして? 自分が? わざわざ彼が自分に?
自身で決めれば良いのでは? 決めさせる理由は?
たくさん、男に問いただしたいことができた。
どういうわけかばつが悪そうにしている男を見て、殊更に問いただしくなった。
だが、きっと自分が言葉にするべきなのはそうではない。
そうではないのだと確信していた。
まず、どうして男が名前を欲しがったかを考えてみる。
それは男が今まで、「名前が必要がなかった」と言っていたから始まる。
名前が必要なかったのは――あくまで推測だが――独りぼっちだったり、他に誰もいないことが多く、名前が要るほど個体がいなかったからだろう。
では、今はどうだろうか?
彼と自分、二人いる。
常に「君」と「あなた」と呼び合うのは、いい加減飽きたということだろうか。
はたまた、彼の言っていた「誰かを想いたい」という感情――
それを、男が感じたというのなら。
実は、その人は既に、男に名前があるならこうだろう、というのを一つ考えていた。
古びた三十前半の小粋な男性の姿を見て「この名前しかない」というのが、ただ一つ。
胸の底で堆積していたのを、ここに来て釣り上げることになるとは、その人自身考えても見なかった。
だが、もしこの名前をふと口に出してしまえば――彼はそう決定づけられてしまう。
曖昧な存在から一転、きっと確実なものへとなってしまうだろう。
存在が定義されてしまうことに、その人は僅かながらに恐怖を感じていた。
本当に良いのだろうかと懐疑的でさえあった。
「あなたの…………」
喉元を過ぎてしまったはずの言葉も逆流して、また体の中に戻ってしまった。
同時に、その人が彼に感じていた常なる安堵感が、彼自身が曖昧な形をしていたことによるものだったのだと認識することとなる。
寸でのところで止めてしまったのを、男が不思議そうに見つめる。
少しの不安がよぎった。もしここで言わなければ、これから先ずっと彼の名前を言えなくなってしまうのでは、という不安が。
だけれども、いや、だからこそ…………
「あなたの名前…………」
その人は今この状況で言わなければならなかったのだ。
なりふりなど構わず、伝えなければならない。
だから、言うのだ。
「あなたの名前は……!」
一度、深呼吸を挟み、
「――――!」
半ば叫ぶような形で、その人は男の名を呼んだ。
「っ…………」
叫んだことに驚きながら、自身に与えられた名前にも唖然とする男。
一瞬、後悔の二文字が脳裏をよぎり、表情が曇る。
だが、
「――良いじゃないか!」
男は満面の笑みを溢し始めた。
「何だろうね、これ。すごい嬉しいんだ、僕。何かから解放されたのかな。ははっ、何だこれ」
「あぁ……!」
歓喜を分かち合う二人。
広がる幸福、陽気が蔓延し、朗らかな雰囲気が辺りを包む。
変な笑いが止まらない彼に、その人は幸せを表現するようににかっと笑いかけた。
「ありがとう! 君のおかげで、自分が独りじゃないんだって、心の底から感じることができた。感謝するよ」
いつになく元気な様子の彼を見て、その人はようやく自分が名前をつけて良かったのだと実感した。
後悔などなかった。むしろ、達成感だけが自分を支配し、嬉しさをたくさん持つことができていた。
「はい……!」
その人もまた、自分事のように嬉しくなった。
「改めて、じゃあよろしくね」
「こちらこそ!」
二人の心は自然と、「再開」を志していた。
ここから心機一転、彼の新しい名前と共に、これから頑張っていこうという気概が満ち満ちていた。
そして、その人は再び彼の名前を呼び、手を取って握りしめた。
「これからよろしくお願いします、
――意志を、導く者。右も左もわからない私を、支え導く者。
不安と戦っていたその人に、心に、指針を示した彼にとってぴったりの名前だ。
これからは志導と名前を付けられた人物と共に、自身の記憶を辿る旅に出るのだということにその人は心を躍らせた。名無しの彼とではなく、名のある者としての彼と行くことが、今のその人には嬉しいことだ。
さあ、また「しゅき」を読もう。
―――――――――――――――――――――――――
これにて第一編は終了です。
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しゅき ーオノレを知る為の道標ー 上部 留津(うわベ ルヅ) @beluz0611y
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