風呂場の黒いやつ

@stoneedgeishizaki

第1話

6月18日(月)


風呂場に変なものがあった。

排水溝の脇。黒くて、濡れてて、ゴミかカビか何かだと思うが……どうにも気持ちが悪い。

じっと見ていると、形が定まらない。

誰かの吐瀉物を固めたような、不安定な存在感。まあどうでもいい。

こういうのを気にしだすと、心が疲れる。

そのままシャワーを浴びて寝た。掃除道具はそのうち買えばいい。



6月21日(木)


塊は消えていなかった。

いや、むしろほんのわずかに大きくなっていた。

気のせいだろうと思いたいが、どうにも胸の奥がざらつく。

今日、洗剤とブラシを買ってきた。ゴム手袋も。

だが、いざ磨こうとして触れたとき、やめた。

何かがざわついた。

触ってはいけない、というより──触る価値もない。

そんなふうに思えて、ばかばかしくなった。



6月22日(金)


A子とデート。

こっちは酒も店もプランも全部用意したのに、肝心の女の方が“雰囲気じゃない”と来たもんだ。

そのくせ笑顔は抜かりない。会話もこっちのペースに合わせてくる。

結局、ただの“無難な夜”に成り下がった。

まあいい。損得勘定で動いてる女なんて珍しくもない。

帰って風呂場へ。

湯も沸かさず、立ったまま用を足した。

塊のそばに。わざと、だった。

反応はなかったが、なんとなく気分は良かった。



6月23日(土)


案の定、育っていた。

黒い塊は、以前の倍の大きさ。

もはや“汚れ”というより、“存在”と呼ぶべきか。

まるで、俺の何かを吸って膨らんでいるような……そんな勘違いをしたくなる。

気味は悪いが、妙に納得もしている。

言ってしまえば、これは俺の“ゴミ箱”みたいなもんだ。

社会で溜まった不要物を流す場所。

感情の排水溝。



7月3日(火)


山崎がやらかした。

どうせろくにバックアップも取っていなかったのだろう。

その尻拭いを俺がやる羽目になる。いつも通りの構図だ。

それでも上司に「君にも責任はある」と言われたときは、さすがにカチンときた。

この社会は、責任を押しつけた者が勝つ仕組みだ。

帰宅して、飲んで、風呂場に立ち小便。

塊はその瞬間、小さく震えた。

いい子だ。

何も言わず、文句も言わず、ただ俺を飲み込む。

そういう存在だけが、生き残る。



7月5日(木)


明日はA子と再会。

前回うまくいかなかったが、今回は酒の量を増やす。

理屈じゃない。感情のグラデーションなんて曖昧なものに期待するより、物理で落とす方が確実だ。

どうせ彼女も、何か満たされない穴を抱えてる。

それを塞いでやればいい。それだけの話だ。

今日は塊には構わない。

“愛想を振りまく”相手は、今は別にいる。



7月6日(金)


A子は、やはり“理屈”を持ち出した。

「言葉でちゃんと伝えて」?

何様だよ。

何をどう伝えれば納得する? 本音を語ったら、それはそれで“重い”と言われる。

軽く流せば“誠意がない”。

要するに、お前の中に正解があるだけだろう。

なのに俺だけが悪者扱いだ。滑稽だ。


酒を浴びるように飲んで、また風呂場へ。

小便が止まらない。

塊は、ゆっくりと、ぬるりと揺れた。

呼吸するように、音もなく。

俺は思った。

──ああ、こいつは裏切らない。

何をしても、黙って飲み込んでくれる。


今、唯一信じられるのは、こいつだけかもしれない。



7月7日(土)


朝、風呂場に立つ。

塊は、いつも通りそこにいた。

何も言わず、ただ存在していた。

俺が踏みにじっても、汚しても、裏切っても、

何一つ要求せず、評価せず、背を向けない。


それは愛ではない。

従属でもない。

ただの静かな、存在の共有だ。


この先、誰かと深く関わることがあっても、

俺はもうこいつを捨てられないだろう。

名前もつけない、飼いもしない。

ただ、共に朽ちていく。


そんな選択も、悪くない。

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