生きるには繊細すぎる
ファントム
さよなら、青い鯨
朝。
世界がまだ青みがかった薄明かりに包まれている時間。
高橋家の古い階段が、軋んだ音を立てた。
きしり、と重く沈むその響きだけで、ベッドの中にいた高橋美桜(たかはし みお)にはわかってしまう。
今日は、父の機嫌が悪い日だ。
姿を見る前から、声を聞く前から、見えない棘が無数に彼女の全身へ突き刺さるような感覚。
まだリビングに降りてもいないのに、胸がひりつき、呼吸が浅くなる。
美桜にとって、この世界は常に情報過多だった。
人の声色、視線の微かな動き、空気のかすかな匂い、階段の軋む角度。
そのすべてが、彼女の許容量を超えて流れ込んでくる。
彼女は、この世界で生きるにはあまりにも、繊細すぎた。
雨が降っていた。
夕方の教室のざわめきを遠くに聞きながら、美桜は自分の部屋の窓から、灰色に煙る街を無表情に眺めていた。
窓ガラスを伝う無数の筋は、この息苦しい世界に張り巡らされた、見えない檻のようだった。
部屋の中は、彼女の心の景色を映すかのように、いつも薄暗い。
遮光カーテンは一日中閉め切られ、外の光を拒絶している。
母の明子(あきこ)が良かれと思って置いた、ラベンダーの芳香剤の甘すぎる匂いだけが、淀んだ空気に満ちて息苦しい。
ベッドに寝転がり、スマホの冷たい光に目を落とす。
画像投稿SNS「InstaLife」のタイムラインには、友人たちの幸福が溢れかえっていた。
加工で完璧に整えられた笑顔。
有名カフェのカラフルなケーキ。
恋人から贈られた、きらきら光るアクセサリー。
『#親友ちゃんと #お泊まり会 #最高かよ』
『#彼氏から #記念日サプライズ #いつもありがとう』
切り取られた幸福の断片が、次々と画面を流れていく。
それらを眺めるたび、自分の現実とのギャップに、心がすり減っていくのがわかった。
いいね、もコメントもする気になれず、美桜はアプリを閉じた。
そして、もう一つのアプリを開く。
匿名のSNS、「Whisper」。
ここだけが、彼女が本当の自分を吐き出せる唯一の場所だった。
『全部リセットしたい』
誰に宛てるでもなく、ただその一言を打ち込む。
するとすぐに、ぽつ、ぽつ、と見知らぬ誰かからの反応が届く。
『わかる』
『リセットボタン、どこにあるんだろうね』
『おつかれさま』
顔も知らない相手からの、手軽な共感。
それが、今の美桜にとっては麻薬のような慰めだった。
深く、暗い海の底にたった一人で沈んでいくような孤独の中で、自分と同じように息苦しさを感じている人間が、この世界のどこかにいる。
その事実だけが、かろうじて彼女を繋ぎとめていた。
美桜はため息をつき、もう一度スマホをベッドの脇に放り投げた。
天井のシミを見つめながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。
早く夜が来ればいい。
早く明日が終わればいい。
早く、何もかも、終わってしまえばいいのに。
放課後の廊下で、グループの中心にいるサキに声をかけられた。
「美桜、あんたの絵、最近全然見てないんだけど。美術部のコンクールとか、もう出さないの?」
サキは、美桜が描く絵の、たぶん唯一のファンだった。
中学の頃、彼女が描いた風景画を見て「あんた、天才じゃん」と屈託なく笑ってくれたのを、今でも覚えている。
「……うん、まあ、最近は描いてないから」
「そっか。なんか、もったいないじゃん」
サキの言葉は、悪意のない純粋な心配からくるものだとわかっている。
それでも、美桜にはそれが重かった。
期待されることも、心配されることも、すべてがプレッシャーだった。
その翌日。三者面談。
狭い進路指導室には、担任教師と母・明子、そして仕事の合間を縫って無理やり時間を空けた父・浩司(こうじ)が座っていた。
「……というわけで、美桜さんはもう少し、主体性を持って学校生活に取り組んでほしいと思います」
教師の言葉に、浩司は苛立ちを隠しもせず、腕を組んでため息をついた。
彼の眉間に刻まれた深い皺は、家庭の外で戦う男の疲労と、「普通」から外れることへの強い不満を表していた。
「すみません、先生。この子は昔から少し、人見知りで……」
明子が慌ててフォローするが、浩司はそれを遮るように口を開いた。
「要するに、協調性がないということでしょう。家でも部屋にこもってばかりで、何を考えているのか……」
その声には、娘への関心ではなく、世間体を損なう存在に対する非難の色が濃かった。
美桜は、ただ俯いていた。
長い前髪が、顔に影を落とす。
主体性。
お父さんみたいに、自分の正しさを疑わず、大きな声で話せばいいの?
サキみたいに、いつも明るく、周りの中心にいればいいの?
(どうせ誰も、本当の私のことなんて見ようともしないくせに)
心の中で、冷めた声が呟く。
先生もお母さんも、そしてお父さんも、みんな「普通」で「問題のない」高橋美桜を求めているだけだ。
面談が終わり、学校を出ると、浩司は「お前のせいで会社に遅れる。しっかりしろよ」とだけ言い残し、足早に駅へ向かっていった。
その背中からは、「男は弱音を吐かず、家庭を支えるものだ」という、彼自身を縛り付ける窮屈な価値観が透けて見えた。
残された明子は、娘にどう声をかけていいかわからず、ただ「帰りましょうか」と力なく笑うだけだった。
その日も、美桜はベッドという名の海の底に沈んでいた。
Whisperに「消えたい」とだけ打ち込み、ぼんやりとタイムラインを眺めていると、奇妙なハッシュタグが目に留まった。
『#青い鯨』
『#空になりたい』
添えられた画像は、深海を雄大に泳ぐ鯨のシルエットだった。
引き込まれるようにタップすると、そこには同じような苦しみを吐露する、たくさんの呟きがあった。
『ここじゃないどこかへ行きたい』
『誰も私を知らない場所で、静かに終わりたい』
そのコミュニティには、どこか神秘的で、閉鎖的な魅力があった。
『本当の自分になれる場所』
そんな一文が、美桜の心を強く揺さぶった。
本当の自分。
そんなもの、どこにあるんだろう。
私が私でいることを、許してくれる場所なんて。
躊躇いが、指を止める。
怪しい。わかっている。
でも、画面の向こう側から、まるで Siren(セイレーン)の歌声のように、甘い響きが聞こえる気がした。
その時だった。
ピコン、と通知が鳴る。
DMの受信を知らせるサイン。
送り主のアカウント名は、『Administrator』。
管理者を名乗る、その人物からのメッセージは、短く、そして的確に美桜の心の中心を射抜いていた。
『君の絵を見た。君の心の中には、美しい深海が広がっているね』
心臓が、大きく跳ねた。
誰にも見せたことのない、スケッチブックの中の絵。
自分の内面の、いちばん柔らかくて、脆い部分。
そこを、初めて誰かに肯定された気がした。
疑いや警戒心よりも、抗いがたい引力が勝る。
美桜は、震える指で返信を打ち始めた。
それが、終わりの始まりになるとも知らずに。
管理者とのやり取りは、夜ごと続いた。
管理者は、美桜が小学校時代に仲間外れにされたことまで知っていた。
『君の過去の投稿を少し読んだだけだよ。君の痛みは、私には手に取るようにわかる』
その言葉に、美桜は完全に心を許した。
この人だけが、私のすべてを理解してくれる。
そして、最初の課題が与えられた。
『深夜2時42分。この時間に、指定したホラー映画を一本観ること。誰にも見られてはいけない』
指定された時間は、悪魔の数字「4」が二つも並ぶ、不吉な時間だった。
美桜は自室に鍵をかけ、イヤホンをして、スマホの画面に映る惨劇を見つめた。
心臓は激しく波打ち、恐怖で体がこわばる。
けれど、映画が終わった時、彼女を満たしていたのは恐怖よりも、秘密の儀式をやり遂げたという、倒錯した高揚感だった。
『よくやった。君は恐怖を乗り越える強さを持っている』
管理者からの賞賛のメッセージが、麻薬のように脳を痺れさせる。
美桜は、自分が特別な存在になったような錯覚に陥っていた。
その頃、母の明子は、娘の異変に気づき始めていた。
目の下に濃くなる隈。
食事を残すことが増えた。
部屋にこもりがちで、会話もめっきり減った。
「美桜、夜更かしはダメよ。顔色が悪いわ」
リビングで顔を合わせるたびに注意するが、美桜は「別に」と短く答えるだけ。
思春期。きっとそうなんだ。
明子は自分に言い聞かせた。
けれど、胸の奥で、小さな疑念の種が静かに芽吹いていた。
ゲームは、静かに、だが着実に美桜の日常を侵食していった。
『一日中、鬱々とした音楽を聴き続けなさい』
美桜は学校でもイヤホンを外し、友人たちの会話を遮断した。
サキが「ねえ、聞いてる?」と不機嫌な顔をしても、ぼんやりと頷くだけだった。
『母親の財布から一万円を盗みなさい』
パートに出かける明子を見送り、罪悪感に震えながら、美桜は財布に手を入れた。
その金で、管理者に指示された高価な画材を買った。
一度も使われることのない、美しい絵の具。
『大切にしていたものを、一つ壊しなさい』
美桜は、幼い頃から抱いて眠っていた、くたびれたクマのぬいぐるみをハサミで切り刻んだ。
涙が溢れたが、写真を撮って管理者に送ると、『過去の自分との決別だ。素晴らしい』と返信が来た。
そして、ある雨の夜。
『君が描いた最高の絵を、一枚燃やしなさい』
その指令に、美桜は絶句した。
絵は、彼女の魂そのものだった。
スケッチブックに描いた、誰もいない静かな海の絵。
彼女が唯一、安らげる場所。
けれど、拒絶すれば、この唯一の理解者を失ってしまう。
ベランダで、ライターの火を絵にかざす。
炎はあっという間に紙を舐め、大切な世界を灰に変えていった。
鼻をつく煙の匂いと、胸を抉るような喪失感。
それでも彼女は、その光景をスマホで撮影し、管理者に送った。
課題をクリアするたび、賞賛の言葉が送られてくる。
それは美桜にとって、唯一の存在価値になっていた。
友人から孤立し、家族に嘘をつき、自分自身を切り売りしていく。
そうして得られる束の間の全能感に、彼女は溺れていった。
現実の自分がどうなってもいい。
このゲームを続けていられるなら。
管理者に認められるなら、それで。
五十日間のチャレンジも、折り返し地点を過ぎた頃。
管理者から、新たな指令が届いた。
『君の腕に、始まりのクジラを刻みなさい。君が生まれ変わるための、聖なる印だ』
血の気が引いた。
自傷行為。
それは、これまでとは一線を画す課題だった。
震える手で『できない』と打ち込む。
だが、管理者からの返信は冷酷だった。
『できない、ではない。やるんだ。これは儀式だ。君が凡庸な世界から抜け出し、本当の自分になるための』
美桜はバスルームにこもり、鏡の前に立った。
自分の顔が、ひどく青ざめて見える。
引き出しから、カッターナイフを取り出す。
冷たい刃が、肌に触れる。
(痛いのは、いやだ)
でも、ここでやめたら?
管理者は、きっと私を見捨てるだろう。
そしたら、私はまた一人になる。
この息苦しい世界で、たった一人に。
それは、身体の痛みよりも、ずっと恐ろしいことだった。
美桜は、目をぎゅっとつむり、左腕に刃を滑らせた。
ぷつり、と皮膚が切れ、赤い線が浮かび上がる。
熱い痛みが走り、涙がこぼれた。
それでも彼女は、震える手で、拙いクジラの形を刻み続けた。
血に濡れた腕の写真を撮り、管理者に送る。
すぐに返信が来た。
『美しい。これで君は、我々の仲間だ』
痛みと涙の中で、歪んだ達成感がじわりと広がった。
私は選ばれたんだ。
この痛みは、その証なんだ。
同じ日の夕方。
明子は、洗濯物を取り込んでいた。
山になった洗濯物の中から、美桜のパーカーを手に取る。
袖口に、不審な茶色いシミが付着しているのに気づいた。
(ケチャップかしら……?)
指でこすってみる。
鉄のような、生臭い匂いが、微かに鼻をついた。
血の匂いだった。
明子の心臓が、氷水に浸されたように冷たくなる。
胸の奥で、無視し続けてきた不安が、一気に膨れ上がった。
美桜は、日に日に衰弱していった。
夜は眠れず、課題をこなすために無理やり起きているせいで、昼間は授業に集中できない。
ぼんやりとした頭の中に、管理者の声が幻聴のように響くことがあった。
『君は弱くない』
『君は特別だ』
その声に励まされ、また夜が来るのを待つ。
ある日、学校の友人サキに呼び止められた。
「美桜、あんた最近どうしたの? LINEも返さないし、部活も来ないし。みんな心配してるんだけど」
その言葉に、美桜は怯えた。
『友人との関係を断ちなさい』
管理者の指令が、頭をよぎる。
「……別に。ほっといて」
冷たく言い放つと、サキは傷ついたような、呆れたような顔で立ち尽くしていた。
家に帰ると、管理者は美桜の行動をすべて把握しているかのようにメッセージを送ってきた。
『今日のサキという女子、君を我々の世界から引き戻そうとしている。危険な存在だ。だが心配ない。君の家族の情報は、すべてこちらで把握している。父親の会社も、君が隠している弟の存在も。裏切れば、君が一番大切にしている日常が、音を立てて壊れるだけだ』
弟。
美桜には弟などいない。
だが、そのハッタリは、恐怖となって美桜の心を完全に支配した。
この人からは、逃げられない。
一方、明子の焦りは限界に達していた。
パーカーの血のシミ。あれ以来、娘から目が離せない。
夫に相談しても、「お前の気のせいだ。甘やかしすぎなんだ」と一蹴されるだけ。
誰にも頼れない。
孤独な戦いだった。
ある夜、明子は決心して、眠っている娘の部屋に忍び込んだ。
手掛かりが欲しかった。
美桜のPCを立ち上げ、検索履歴を開く。
『痛くない死に方』
『首吊り 失敗』
『青い鯨 やり方』
『ブルーホエール・チャレンジ 真相』
画面に並んだ絶望的な単語の羅列に、明子は息を呑んだ。
全身から血の気が引き、立っていられなくなる。
これは、ただの思春期の不安定さなどではない。
震える手でスマホを取り出し、検索窓に「青い鯨」と打ち込む。
そこには、おぞましいゲームの実態が記されていた。
SNSで参加者を募り、50日間かけて課題を与え、最終的に自殺へと誘導する悪質なゲーム。
世界中で、若者たちの命が奪われているという。
明子は、警察の少年課、NPO法人の相談窓口、精神科のリストを、憑かれたように作成し始めた。
娘は、得体のしれない怪物に狙われている。
私が、守らなければ。
『素晴らしい。君はすべての試練を乗り越えてきた。残すは、最後の儀式だけだ』
管理者からのメッセージに、美桜はもはや何の感情も抱かなかった。
ただ、その時が来たのだと、ぼんやりと思った。
『五日後、満月の夜。時計の針が真夜中を指す時。君は自宅の窓から飛び降り、青い鯨になりなさい。そうすれば、すべての苦しみから解放され、永遠の自由を手に入れることができる』
最後の課題。
それは、死の宣告だった。
抵抗する力は、もう美桜には残っていなかった。
ただ、静かにその運命を受け入れるしかなかった。
その夜、明子は、娘の机の引き出しの奥から、走り書きの遺書と燃えかけのスケッチブックを見つけてしまう。
ノートの震える文字を追う。
『おかあさんへ。ごめんなさい。
わたしは、もう、いなくなります。
さがさないでください』
スケッチブックの燃え残ったページには、かつて娘が愛した世界のかけらが、黒い煤にまみれて泣いているようだった。
明子は、その場に崩れ落ちた。
ああ、間に合わなかった。
いや、まだだ。まだ、五日ある。
夫に電話をかける。しかし、返ってきたのは「またその話か。こっちも仕事で疲れてるんだ」という冷たい声だけだった。
絶望が、冷たい怒りへと変わる。
暗く、長い夜の底で、一つのひらめきが、彼女を新たな行動へと駆り立てていた。
明子は、作成した相談窓口のリストを破り捨てた。
警察に言っても、NPOに相談しても、間に合わないかもしれない。
得体のしれない「管理者」という怪物は、きっとこちらの動きを読んで、さらに娘を追い詰めるだろう。
信じられるのは、自分の直感だけ。
そして、娘を思う、母親の愛だけ。
明子は物置から、古い工具箱を引っ張り出してきた。
中から、一本のドライバーを手に取る。
向かう先は、固く閉ざされた美桜の部屋のドア。
一瞬、恐怖が胸をよぎる。
もし、これで娘に完全に拒絶されたら?
もし、私のやっていることが、娘をさらに追い詰めることになったら?
いいや、と明子は首を振った。
迷っている時間はない。
恐怖を振り払い、ドアノブにドライバーを突き立てる。
満月の光が、窓から差し込んでいる。
真夜中まで、あと数分。
美桜は、静かに窓枠に足をかけていた。
眼下には、眠りについた街の灯りが広がっている。
ここから飛び降りれば、すべてが終わる。
その時だった。
ガシャン!と、背後で凄まじい破壊音が響いた。
驚いて振り返ると、ドアが外側からこじ開けられ、息を切らした母・明子が立っていた。
その手には、ドライバーが握られている。
「来ないで!」
美桜は金切り声を上げた。
「邪魔しないで! 私の最後の儀式なの!」
管理者の声が、頭の中で木霊する。
『邪魔する者は、敵だ。排除しろ』
だが、明子は叫び返さなかった。
娘を無理に引き剥がそうともしない。
ただ、静かに、だが力強く、震える娘の体を背後から抱きしめた。
「自由になんて、ならなくていいのよ」
耳元で、涙に濡れた声が聞こえる。
「不自由で、面倒で、泣き虫なあなたのままでいいから。お願いだから、ここにいて」
明子は、堰を切ったように語り始めた。
美桜が生まれた日のこと。
初めて歩いた日のこと。
小学校の入学式で、ぶかぶかの制服を着てはにかんでいたこと。
一緒にケーキを作って、顔をクリームだらけにして笑い合ったこと。
幸せだった過去の思い出が、呪いを解く魔法の言葉のように、部屋に響き渡る。
「ごめんね、美桜。気づいてあげられなくて。ずっと一人で、苦しかったでしょう……」
母親の体温と、嗚咽まじりの声。
それは、バーチャルな承認の言葉とは比べ物にならない、確かな重さと温かみを持っていた。
美桜の体から、すっと力が抜けていく。
張り詰めていた糸が切れ、彼女は母親の腕の中で、子どものように泣き崩れた。
明子は、床で不気味に通知を光らせ続けていた美桜のスマホを拾い上げた。
その画面には、『時間だ。さあ、飛べ』という管理者からのメッセージが表示されている。
明子は、そのスマホの電源ボタンを、怪物を殺すように、強く、長く押し続けた。
画面が、ぷつりと暗転する。
怪物との繋がりが、物理的に断ち切られた瞬間だった。
数週間後の朝。
高橋家のリビングには、穏やかな光が差し込んでいた。
テーブルには、三人分の朝食が並んでいる。
美桜は、まだ本調子ではなかったが、静かにスープを口に運んでいた。
傍らでは、明子が弁護士と電話で話している。
その表情は、もうただの心配性の母親ではない。
娘の未来を守り抜くと決めた、「戦士」の顔だった。
向かいの席では、父の浩司が所在なげにトーストをかじっている。
彼の傍らには、明子が見つけた、娘の燃えかけのスケッチブックのかけらが置かれていた。
彼はただ、それを握りしめることしかできない。
母と娘の間には、まだ少し、ぎこちない距離がある。
けれど、プロローグの日に降っていた冷たい雨は、もう止んでいた。
窓の外には、確かな希望の光が見える。
美桜のスマホが、静かに震えた。
友人サキからの、短いメッセージ。
『おかえり』
美桜は、まだそれに返事をすることはできない。
ただ、じっとその二文字を見つめていた。
そして、傍らに置かれた、新しいスケッチブックの真っ白なページに、ペンを走らせる。
描いたのは、暗い深海の絵ではなかった。
夜明けの空に昇る、小さな、けれど力強い、一つの光だった。
生きるには繊細すぎる ファントム @phantom2025
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