第二話 『火の見櫓の声』

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 火事と喧嘩は江戸の華──

 なんてぇが、火の粉がどこに飛ぶかまでは、誰も知らねぇ。


 人の目が騒ぎに向く時、裏じゃ何かが“仕舞われる”。

 火を怖がらねぇ奴もいる。むしろ、煙の向こうを好む奴さ。


 顔も覚えられねぇ、名も覚えられねぇ。

 情けもなく、恨みも抱かず、ただ“渡すべきもの”を渡して去っていく──


 そういう奴を、あっしらは『かすみ』と呼んでやす。

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火の見櫓が鳴ったのは、昼下がり。

浅草の北、町の裏手から真っ黒な煙が立ちのぼる。


「火事だ火事だァッ!」「桶、持ってけェ!」


人が叫び、桶を担いで走り、通りの向こうでは天秤棒がひっくり返る。

長屋の子供は泣き、女衆が振り返りながら荷を抱える。

火の手は遠い──だが、江戸っ子は火を恐れ、火に集まる。


そんな喧騒の向こうを、ひとりの若者が歩いていた。


年のころは二十を過ぎたかどうか。

浅黒い顔に、丁稚のような身なり。

だが、その歩みはどこか浮いている。町に紛れても、気配が希薄なのだ。


足を止めたのは、火の見櫓の陰。

誰も気づかない場所で、彼はふと袖をさぐり、封じた文をひとつ取り出す。


その視線の先──火の煙の向こうに、何かを“仕舞われる”べき者がいる。



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 火事場にゃ野次馬も盗人も集まるが──

 本当に怖ぇのは、“煙に紛れて動く奴”ってもんでさぁ。

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火の見櫓の陰には、もう一人、姿があった。


女──歳は三十ばかり。

派手さはないが、町の者にしては着付けがしっかりしている。

どこか気の張った物腰に、目元の青痣。


「……あの……あなたが、“渡してくれる”方で……?」


霞は答えず、ただ頷いた。


女が差し出したのは、手紙と香袋。

香の匂いは、僧侶の墓前で焚かれるものに似ていた。


「これが、帳面です。あの人の──証拠が、全部……。

奉行所には……渡せませんでした」


霞は封を切らず、それを懐に収める。

何も問わず、何も告げず。

ただ、火の勢いが一段高まった瞬間──踵を返し、煙の中へと歩き出した。


その背に、女はひとことだけ、絞り出す。


「……あれが燃えて、私もようやく“喪”に入れる気がするのです」



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 喪に入るには、死がいる。

 けど、人の世じゃ“死んでない奴”が平気で笑ってやがる。

 だから時に、帳尻を“燃やす”ってのも、悪くはねぇ。

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その夜。火は、ひとつの蔵を呑んで鎮まった。


蔵の中には帳面が山ほどあったという。

その帳面が“なにを”記していたのか──誰も知らない。

ただ、翌日からある町年寄が姿を見せなくなり、まもなく病死したと噂された。


病か、火の煙か。

それとも“渡すべきもの”が、きっちり渡されたのか──



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 火の見櫓が鳴った時、人は空を仰ぐ。

 だがあっしらは、煙の底で“仕舞い”を始める。


 今夜もまた、見えねぇところで、ひとつ帳尻が合った──

 ……それだけの、話でさぁ。

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裏仕舞屋噺 望蒼(もうそう) @Moso_Moso

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