罪悪感のゴミ捨て場

耳裏ギョーザ

第1話

俺は今日から仕事を休む。




復帰のめどはたっていない。




これから1年で一番忙しい時期だというのに、チームの皆に迷惑をかけることになってしまった。申し訳なさ過ぎて今後どのツラ下げて会社に行けばいいのかわからない。


疲れがたまって体調不良が出始め、それから精神にも異常をきたし始めた。


上司の勧めで病院にかかった結果、ドクターストップが出てしまったのだ。




社会人になってからというもの、俺の朝はルーティン化された。




朝7時ごろ、昨日の晩に予約しておいた米が炊ける音とともに目を覚まし、風呂を沸かす。


長ネギを輪切りにきざんで、茶碗に盛った白米にぶっかける。


そこに卵と納豆(卵醤油のタレがついた、おいしいやつだ)をのせ、無心で混ぜる。この時の俺はまるで、胡麻をすりつぶしてとんかつと合わせて食べるかのように、それは猛烈に混ぜる。


混ぜ終わると、そこに濃い口の醤油を一回しかけて、もう一度混ぜる。今度は縦にも横にも斜めにも、醤油が全体に行き渡るように注意しながらやさしく混ぜる。


それを口いっぱいに掻っ込む。咀嚼はほとんどしない。


俺の朝飯は食事という高尚なものとは程遠く、ただただ食物を胃に運搬する行為に成り下がっている。


「もうすぐ、お風呂が沸きます」


給湯器の音声がそう告げるころには、俺の腹が満ち満ちて、大量の胃酸が分泌されている。




続いて、コーヒーだ。これは豆から挽く。自分でハンドドリップする。


これだけはそう決めている。


15グラムになるように豆をはかり、カリタの電動ミルに投入し、スイッチオン。


それと並行して、アルプス天然水をやかん(注ぎ口が細長くなっている専用のモノ)に気持ちたっぷり目にいれ、火にかける。


豆を挽く騒音は気にならない。迷惑をかけてしまう心配もない。


準備ができたらコーヒーカップを湯で温め、温め終わった後に水を切る。


はかりの上にカップとドリッパー、引いた豆をペーパーに入れてセットする。


そして、お湯を優しく注ぐ。最初は20グラム。蒸らすための湯は少し多めにしている。


30秒ほど待ったら、次は60グラム、ちょっと待ってから70グラム、またちょっと待って80グラム。


俺が好む銘柄はこの湯量がちょうどいい。




食物を胃に運び、コーヒーを淹れ終わると、大体時刻は7時半。


コーヒーを淹れている最中に風呂も沸くのだが、給湯器のアナウンスに気づいたためしがない。夜は必ずわかるのだが。




俺はコーヒーカップに蓋をして風呂に向かう。右手にコーヒー、左手にスマホを携えて。


脱衣所に着くとまず、両手を空けて風呂場に入り、湯船の蓋を半開きにする。


そこにコーヒーカップとスマホをセット。


そして全裸になり、体に湯をかけて湯船にイン。


昨夜も風呂に入って身を清めている。かけ湯もしているので、ここは見逃してほしい。


こうして湯船につかった俺はコーヒーをぐびりといきながら、今期のアニメを消化する。


コーヒーの摂取と半身浴により内側と外側から体を温めることで、発汗と代謝を促進。


かつ趣味に興じることで精神的にもリフレッシュする。


最後に頭と体をしっかりと洗い、シャワーで体を流す(さすがに湯船の湯で流すのは俺の衛生観念的にもNGなのである)ことで寝汗や寝癖をリセット。


これが、俺が社畜生活のなかで編み出した、一粒で三度おいしい朝入浴である。




時刻は8時。


風呂から出た俺は髪をドライし、エアリズムを身にまとう。


そのままシャカシャカと歯磨きし、髪型を整える。


使うのは主にジェル状の整髪料とスタイリング用のヘアスプレー。


性格上、風圧で髪が乱れるのが嫌なので、かなりガチガチに固めるのが俺流である。


そうこうしているうちに体の発熱が落ち着いてくる。


そのタイミングでYシャツ取りに行き袖を通す。早すぎると脇汗がシャツのシミになる気がして落ち着かないのだ。


スーツのズボンをはいてベルトを通したら、ネクタイをもって再度鏡の前に立つ。


なぜかわからないが、4年の時が経ってもいまだにネクタイをうまく結べない時がある。原因はネクタイの種類によって長さが異なるためであると睨んでいるが、対処法が確立できていないのが現状だ。


なので、余裕をもってネクタイを締めるために、出発時間よりもだいぶ早くに起床することにしている。


どうにかネクタイを締め終わると、時刻は大体8時半。


出発前に荷物の確認をし、週末に磨いておいた革靴を履いて家を出る。




これが、ざっくばらんな朝のルーティンだ。




あの日の朝、音もなく崩れ去るまでは。






「いつもお世話になっております。私〇〇社の俺と申します。はい、はい、承知いたしました。それでは●月×日までにはご提案できるように準備してまいりますので、お待ちいただけますでしょうか。お忙しいところ大変申し訳ございませんが、引き続きよろしくお願いいたします」




俺の社用携帯にクライアントからの連絡が入った。


このクライアントの担当者とは頻繁に連絡を取り合っている。というのも、この人も俺と同じように上司と部下との板挟みで多くの案件を抱え首が回らなくなっている同士であり、お互い効率よく業務を片づけられるように情報を出し合っているのだ。


この人からの要件は優先順位が極めて高く、まず最初に片づける必要がある。






「俺くん、ちょっといいかな?」




「はい」


一つ上の上司からお呼びがかかった。もし仮に、陸にサメがいたらこの人っぽい気がするので、ここではシャークさんと呼称することにする。


「申し訳ないんだけど、この案件とこの案件、お願いできる?他の皆、手がいっぱいみたいで」


「承知しました。期限はいつ頃をめどにすればよいですか?」


「今週末までには上に説明したいかな」


今週末。クライアントの担当者への提案期日とかぶるな。


「承知しました。水曜日までに一度シャークさんに持っていけるように準備します」


「ありがとう。よろしくね」


シャークさんは複数あるチームの現場統括者で、管理者層に最も近い現場の人間、という立ち位置である。


仕事熱心で自分のキャリアプランを持ち、それを実現するために努力を惜しまない人だ。


そんなシャークさんに対し、俺はある種崇拝に近い感情を抱いている。




さて、仕事が二つ回ってきた。気合を入れなければ。Outlookに備忘で入れておこう。






「俺さん俺さん、今大丈夫ですか?」




「ほーい。どうしたん?」


「あの、この案件なんですけど、どうさばけばいいか詰まってしまっていて……」


「あーこれね。これはウチのマニュアルの159ページに例題と情報が載ってたはずだから、それ見ながらもうちょっと頑張ってみて。30分ぐらい考えて難しそうだったらもっかいおいで」


「なるほど、ありがとうございます!やってみます!」


この子はぽんちゃん。


新人の頃から俺の元で働いている新卒2年目の後輩で、明るくて真面目なかわいい後輩である。猪突猛進して正解から大きく外れてしまうことがあるのが玉に瑕だが、そんなところもぽんちゃんの個性。


先輩としてうまく導いてあげつつ、成長を見守っていきたいところだ。




えーと、30分後に進捗を聞きにいかないとな。Outlookの予定に入れとこう。






「俺っち、ちょっと来てくんない?」




「ん、どしたー?」


「ここ、見てよ。これ間違ってるくない?」


「あー。マジだ。どうしよっかな。部分的に直すのでもいいけど、一から作り直した方が早いかもしんないな」


「ねー、誰がやったんだろ」


コイツは俺と同期のハチ。


新人の頃、それはもう衝突を繰り返した仲だが、今はそんなこともなくなった。


ハチの怒りのツボを掌握することに成功したのである。


あの頃を笑い話に昇華できて本当に良かった。


ちなみにコイツがこうやって聞いてくるときは、ミスを見つけちゃったけど自分はやりたくないというサインだ。




俺がやっとかないとな。これは優先度低いし来週のOutlookに入れとけばいいか。






「俺先輩、今話かけても大丈夫ですか?」




「ん、だいじょぶだよー」


「あのう、この前お願いされた案件なんですけど、クライアントから連絡が来ていて早く打ち返さないといけなくなってしまって」


「あれ、進捗遅れちゃってるの?」


「はい、ちょっと別件の対応をしていて……」


「おっけー、俺のほうでやっとくよ」


「すみません、ありがとうございます。ホント、下がいないと大変ですね……」


「そうだねー、俺の時もきつかったな。人手が足りないのはしょうがないし、ここはどうにか踏ん張るしかないね」


「はい」


この子はぽんちゃんと同期のナナちゃん。


真面目で丁寧に仕事をする子である。


去年まで俺がやっていた業務の一部を今年からナナちゃんが引き継いでくれている。


独り立ちできるまで俺が支えなければならない。適切なフォローが必要だ。




こっちの仕事はクライアントからせっつかれてるし、早く片付けないと。Outlookに書いとかないと忘れそうだ。






「俺さん、少しよろしいですか?」




「はーい、どした?」


「この前ご相談したこの案件についてなんですが、自分のほうで検討過程と結果をまとめたので、ご確認いただきたいと思いまして」


「おっけー、どれどれ……。うん、よくできてると思う。こことここの表現をもう少し詳しくして引用元も書いておくともっと良くなると思うから、次から意識してみて」


「ありがとうございます。承知しました」


この子は新人のりゅうちゃん。新人といっても転職組なので、社会人経験は俺と大差ない。


とても仕事の呑み込みが早く、感心させられることも多い。


期待の成長株であり、今後もメキメキ伸びてもらえるよう、先輩としてアドバイスを欠かさないようにしている。




もっと俺も頑張らないとな。






「俺くん、ごめんちょっといい?」




「はい、何でしょうか」


「この日のMTG、子供を寝かしつけないといけなくて出れないんだ。申し訳ないけどリスケしてもらっていいかな?」


「行き届いておらずすみません。承知しました。別の候補日でインビテーションをお送りいたします」


「忙しいところホントごめん、ありがとう」


この人は上司のクロさん。子煩悩の優しいパパさんである。


シャークさんよりもさらに職位が高く、チームの管理者の一人である。


重要な案件はクロさんの承認を取らなければ先に進めることができないので、この人の予定を押さえることの優先度は高い。




うーん、なかなか予定が合わないぞ。クライアントの都合もあるし。Outlookの確認っと。






「俺君。ちょっと来てくれ」


「はい」


「この前上げてくれた案件なんだけど、やっぱりここがリスク高いと思うんだよな。ここをしっかり説明できないとまずいね」


「承知いたしました。次のMTGで議論できるように再検討いたします。検討が終わり次第、アジェンダも更新いたします」


「よろしく頼むね」


この方はヤニさん。


うちのチームのトップでクロさんよりも上で最終決定権を持っている。


俺の親父と同い年にもかかわらず、業界に対する理解力、記憶力、洞察力、リスク回避能力がとんでもなく高い。


肺がんや肺炎のリスクだけは回避する気がなさそうだが。




もう一回練り直しか。次のMTGは水曜日、だったけどクロさんリスケしないとだからMTGそのものをリスケしないとだな。参加者全員のOutlookを再確認だ。






これは、ある日の午前中におけるチームメンバーとの会話である。


このチームは全員で30人弱であり、この日はたまたまこの程度で済んだ。


午後のことは覚えていないが、午前中よりも午後のほうが勤務時間が長いので、おそらく3倍はこのチーム内で俺宛の連絡が来ていたはずである。


このチーム内で、だ。


俺は他に4つのチームに所属している。


あるところでは現場統括者として、あるところではその下として。


もちろん、全てのチーム規模が同じというわけではないが、日が進むにつれて俺のOutlook予定表はタスクで埋め尽くされ、余白は消えていった。






そんな日々が続いたある日、見えざる手で内臓を握りつぶされるような痛みで俺は飛び起きた。




いや、寝床でうずくまった、というほうが正確である。


息は浅く早くなり、額からは脂汗が滴り落ちる。


俺は目を大きく強く見開くことで、どうにか正気を保とうと試みた。


そうすることで鼻の穴が平時より広がり、鼻呼吸がしやすくなると思ったのだ。


それが功を奏したのか、肺に酸素がいきわたり呼吸が少しずつ楽になってくると、ようやく痛みから解放された。


痛みが消えると、少しだけ冷静になることができた。


どうやらこの痛みの発生元は下腹部のようだった。


今まで腹痛に見舞われたことは何度かあったが、ここまで強烈な痛みは感じたことがなかった俺は、強い不安を覚えた。




こんな時は笑い話にでもしてしまうのが良いと、職場でおどけて今朝のことをしゃべってみた。


もしかしたら俺と同じ経験を持つ人が他にもいるかもしれない、という期待もあった。


すると、シャークさんが言った。


「俺くん、一度病院でちゃんと診てもらった方がいいよ」


俺はますます怖くなった。


その日は定時で帰宅させてもらうことになり、その足で病院へと向かった。




検査の結果はストレス性の急性胃腸炎。


死すらよぎるほどの痛みの原因は、ただのストレスだったのである。


薬をもらって家路につく俺の胸に去来した問い。






何で俺だけこんな目に合わなきゃいけないんだ?






頭ではわかっている。


皆精いっぱいなのだ。必死なのだ。


やれることを頑張っているのだ。




じゃあ何で俺だけこんなに体が痛むんだ?


頭ではわかっている。


みんな言わないだけでどこかしら痛めているかもしれないのだ。




何で俺だけこんなに苦しいんだ?


頭ではわかっている。


苦しいのは俺だけじゃない。みんな同じだ。




じゃあ、誰が悪いんだ?


皆は体を痛めていない。痛めていたとしても弱音を吐いている人は一人もいない。


弱音を吐いているのは誰だ。




……俺だけじゃないか。




問いの答えは至極簡単。


全部、己の弱さが原因だったのだ。






自分が欠陥品であることを疑い始めた俺は、さらに激しく仕事に取り組むようになった。


そうすることで自分が正常に動作する部品であるということを表現したかったのかもしれない。




「俺くん、悪いけどこの仕事頼めるかな?」


……またか。仕事取ってくるのはいいけどさ、結局やるのは全部俺じゃん。そもそもその仕事、マストでやらなきゃいけないものなのかよ。


「承知しました。今日中に上げますね」




「俺さん俺さん、すみません。考えてみたんですけど、こんな感じでどうでしょうか?」


……何でこんな基本的なところがわからないんだ?マニュアルちゃんと読んだのか?前も同じようなこと聞いてきたけど、ここは学校じゃねえんだよ。俺が巻き取るしかねえじゃねえか。


「んー。ちょっと待ってね。俺のほうで見とくから、別の作業先にやっておいてもらっていい?」




「俺っち、ちょっとここ見てよ!」


……同期のご機嫌取りまで何で俺がやらなきゃいけねえんだ?これくらいテメェでやれよ。


「りょーかい、ピクチャかなんかで送っといてもらえる?」




「俺先輩、例の件またクライアントから連絡が来てまして……。下の子もいなくて手が回らないです」


……何でコイツ、俺が任せた仕事を誰かに流そうとしてんだ?その神経が理解できない。俺はお前に任せたんだ。だからお前がやれよ。


「おっけー、俺がやっときますー」




「俺さん、この前ご相談した件なんですけど、ここに改善の余地がある気がしていて」


……言いたいことはわかるけど、そこは過去に何回もクライアントと交渉してその度に頓挫してるとこなんだよ。ミニマムで行くしかねえんだよ。これしかねえんだよ。頼むから俺に時間を使わせないでくれ。


「これね、昔からクライアントのOKが出なくて、結局いまが最善なんだよね。言ってることはもっともなんだけどさ」




「俺くんごめん、この日もちょっと子供を寝かしつけなくちゃいけなくて」


……アンタは本当にそればっかりだよな。アンタの都合なんか知らねえよ。子供がいたらなんだって許されるのかよ。管理者だろうが。アンタが出てこねえと仕事が進まねえんだよ。その分俺が残業することになるんだからアンタの年俸いくらかくれよ。


「承知しました。リスケします」




「俺君、やっぱりここが説明できないとまずいな」


……限られた情報でここが目いっぱいなんだよ。これ以上はウソの情報混ぜないとどうしようもねえんだよ。この情報で説明しきるのがアンタの仕事だろうが。しっかりしてくれよ。


「申し訳ございません。もう一度練り直します」






欠損箇所からどす黒い内容物が溢れてくる。やっぱり俺はどこかに瑕疵があるのだ。


ここまで醜悪な物体が自分から出てくることに目を疑った。




ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめんなさい。




俺が間違っていて、みんなが正しいことはわかっている。


でも、それ以外は何もわからなくなってしまった。


だから、今の俺にできることは謝罪の他にありはしないのだ。




毎日毎日、俺は自分から溢れでる何かを眺めることしかできなかった。


止める方法も止めるための道具もなく、空いた穴は広がっていくばかり。


結局、俺の内容物は全て外に溢れ出てしまった。




暗然とした吐瀉物のような中身が消え失せ、文字通り俺は抜け殻になった。






そうしてあの日の朝、コーヒーを淹れ終えた俺の体は動かなくなった。






しばらくしてなんとか体調不良の連絡を入れた俺に、シャークさんは言った。


「まず病院に行っておいで。これからは俺くんの負担を減らすために、俺くんには俺くんにしかできない仕事だけお願いするようにするから」


「……ありがとうございます。ご迷惑おかけしてしまい申し訳ありません」


「気にしないで。何よりも健康が一番大事だからさ」


幸い、俺の仕事は社用PCと社用携帯があればどこでもできる。


当面の間は在宅勤務をしろとのお達しが出た。


家から出て職場に行くのが怖くて仕方がなかった俺には、本当に助かった。


この頃の俺は、上司にも部下にも見境なく暴力をふるってしまうのではないかという恐怖に苛まれていたからだ。




病院。病院か。


今の俺は何科を受診すればいいのだろう。


自分がおかしくなってしまったという自覚はある。


それが肉体なのか、精神なのか、それとも両方なのか。


そもそも俺という人間自体が元から不良品だったという線もある。




……わかっている。俺が行くべきは精神科だ。


でもそこに行ってしまえば、自分が不良品であることが社会にバレてしまう。


そんな気がした。




地を這うナメクジのような足取りで、どうにか俺は病院までたどり着いた。


そこにはたくさんの患者がいた。今日から俺もそのうちの一人になる。


俺の番が来て個室に案内されると、狭苦しい部屋の中で医者が待ち構えていた。


部屋の扉が締められ医者と二人きりになり、診察が始まった。




「今日はどういった理由で当医院に来られましたか?」




俺は訥々とここに来た経緯を説明した。


ある日体に強烈な痛みが走って目が覚めたこと。


その日以降、自分がおかしくなってしまったこと。


そして今日、会社に行けなくなってしまったこと。




「あなたには休息が必要です。まずは原因から距離をとって、ゆっくり過ごす。仕事への復帰は心が落ち着いてから考えても遅くはありません」




でも、これから忙しくなる時期で、休んでしまったらみんなに迷惑が掛かってしまいます。




「仕事というのはお互いに支えあい、時には迷惑をかけあうものです。あなただけがそうなのではありませんよ」




それに一度休んでしまったら、もう二度と社会復帰できないように思ってしまいます。




「これは誰しもなりうる病です。あなたが弱いわけでもありません。交通事故にあってしまったようなものなのです。だから思い悩む必要はないのですよ」




先生、休むのはやっぱり不安です。在宅勤務でどうにか続けていくのは難しいのでしょうか。




「あなたが言っていることは、骨折したままリハビリをするようなものです。骨折箇所は治らないまま、いつかさらに重大な怪我を引き起こすでしょう。医者として見過ごすことはできません」




……わかりました。ありがとうございました。






病院から帰宅した俺に声がかけられた。


「ねえ、きみは何しに病院に行ったの?」


わかってるだろ。精神科を受診しに行ったんだよ。


「何のために?」


うるせえな。黙ってろよ。






翌日、俺は職場の上司に受診結果を報告した。




「僕はお医者様の言うとおり、休職した方がいいと思う」


でも、これから忙しい時期になるのに、仕事に穴をあけるわけには。。。


「確かに俺くんが抜けちゃうのはきついけど、仕事はどうにかするよ。何よりも健康が第一だから、こっちのことは気にせず安静に過ごしてほしい」


……承知しました。シャークさん、ご迷惑おかけしてしまい申し訳ありません。




「俺くん。今まで何度も相談してくれてたのに結局こういうことになっちゃって本当にごめん。おれのせいだよね」


……いえ、そんなことは。クロさんのせいではありません。勝手にいっぱいいっぱいになった自分の責任です。


「こっちのことは何とかするから気にしないで。ゆっくり休んでね」


承知しました。ご迷惑おかけしてしまい申し訳ありません。






俺が会社に提出した休職届は即日受理された。


俺の休職の知らせを聞いてか、スマホには何通か連絡が届いていた。


【俺さん。体調大丈夫ですか??何でもお話聞くのでご飯でも行きましょう!】


【俺っち、今度話せる?】


【俺先輩、お疲れ様です。ゆっくりお休みください。元気になったらまた職場でお会いしましょう】


確かこのような内容のメッセージだった気がする。


返信をする気も起きず放置したままなので、おぼろげだが。






「あはは。本当に笑える。ねえ、きみもそう思わないかい?」




どこがだよ。


これから忙しくなるって時に休むことになって、それでもみんな俺のこと心配してくれてるんだぞ。


本当に申し訳ねえよ。




「本当にそう思っているの?」




……どういう意味だよ。




「まあいいや。だったら、きみは何で仕事を休むんだい?そのまま働き続ければよかったじゃないか」




しょうがねえだろ。


医者からは休めって言われてるし、先輩からもそうしろって言われちまったんだから。




「そうだったね。……ふふっ」




なんだよ。気色悪いな。




「いやあ、思い出し笑いさ。あのとき言われたろう?『俺くんにしかできない仕事だけをお願いする』って。きみが抜けた今、いったいどうなっているんだろうね」




……。




「きみにしかできない仕事なんて、この世にありはしないんだよ。むしろそんなものがあったら一大事さ。休めなんて言われるはずがない。きみの代わりはいくらでもいるんだ」




そうかもな。でも俺がいなきゃあの時も、あの時だって、乗り切れたかわからなかった。




「よく覚えているよ。あのときのきみは頑張っていたね。どうしてそんなに頑張るの?」




そんなのチームのために決まってるだろ。


俺が頑張らなけりゃチームはうまく回らないんだ。




「……違うね。きみはウソをついている」




噓じゃねえよ。




「本気で言っているの?なら、頑張った結果、きみが壊れて抜けてしまったらチームはまわらなくなるよね。そんなこともわからなかったのかい?」




……。




「もう、本音と建前の区別もつかなくなってしまったんだね。しょうがないなあ。ボクが教えてあげるよ」






「きみはきみ自身のエゴのために頑張ったんだよ」






「きみが頑張るのはね、自分に自信がないからだよ。ありのままの自分がこの世界に存在していていいのか、きみはずっと自信がないんだ」




……。




「きみは常に怯えている。怖れている。慄いている。この世界に不要だと言われてしまうことを。この世界から捨てられてしまうことを」




……。




「だからきみは頑張った。そうすることで誰かが褒めてくれる、頼ってくれる、評価してくれると期待して。それ以外に自分の価値を証明できなかった。この世界に存在していいんだという自信を持てなかったからね」




……。




「最初は嬉しかったよね。やった分だけ評価されて、みんなから慕われるようになったもの。自分が必要とされているんだ。そう思えた。みんなに優しくもした。大事にした。みんなから大事にされたかったから」




……。




「与え続けなければならない。自分の価値を証明し続けなければならない。それができなくなったときが、きみが廃棄されるときだ。だから、本当に頑張ったんだよね」




……。




「でも、いつしか、みんなにとってはそれが当たり前になってしまった」




……。




「頑張っても褒めてもらえなくなって、評価してもらえなくなって、頼りにされることが少しずつ辛くなって、でも頼られないことも不満で。……いや、少し違うかな?」




……。




「きみは物足りなくなったんだ」




……。




「『俺はこんなに頑張っているのに、何でもっと褒めてくれないんだ?』って」




……。




「だからきみは今まで以上に頑張ったんだよね。100%だったものを150%にしたんだよね。その結果はどうだった?」




……。




「何も変わらなかったよね?」




……。




「本当はもう気づいているんだろう。みんなにとって、きみの存在なんてどうだっていいんだよ。何の価値もないんだ。せいぜい、都合のいい道具程度のものさ」




……。




「みんなには家庭があって、家族がいて、子供がいて。恋人がいて、自分がある。みんな自分の世界がある。仕事なんて二の次さ。自分の世界にとって自分がかけがえのないものであることを、みんな知っているんだ。……わかっていないのはきみだけだ」




……。




「そもそも、きみが何を与えられるっていうんだい?きみも見ただろう。きみの中に詰まっていたものを。あんなものを与えたところで価値なんてあるはずがないじゃないか」




……。




「そうして満たされなくなったきみの隙間には、悲しみ、怒り、憎しみ、恨み、嫉み、いろいろなものがたまって澱を作った。表面を罪悪感でコーティングして。そうやって包み隠せば許されるとでも思っていたのかい?」




……。




「隠す必要なんてないよ。みんなきみに興味ないもの。壊れて捨てられて、おしまい」




……。




「もともと壊れていたけどね。世界の境界線もわからない正規品が、この世にあっていいはずがない」




……。




「国境を踏み越えてまで自分の欠損を埋めてもらおうとするなんて、滑稽にもほどがある。まるで物乞いだ」




……。




「きみは、きみ自身の世界があることを知らなかった。だから自分を満たすために他者に依存した」




……。




「……もしかして、本当は知っていたのかい?知ったうえで、自分の快楽のために他者を使ったわけではないんだよね?」




……。




「ねえ、聞いてる?」




……。




「あちゃー、完全に動かなくなっちゃった。でもしょうがないか。もうずっと抜け殻だったものね」






「おつかれさま。醜く哀れでいじらしい、ボクの抜け殻さん」






ボクは今日も仕事を休む。




復帰のめどはたっていない。




中間管理職的な立場でいたことによる板挟みでストレスがたまったとか、分かち合ってくれる仲間がいなかったとか、仕事がプライベートの時間にまで侵食してきてやるせない気持ちになったとか。


理由はまあ、そんなところかな。




ボクの体にしつこくまとわりついていた真っ黒いヘドロは、入念にふき取って自分の抜け殻にしまい込み、ひと月前に不燃ごみに出した。




今までよりクリアになったボクの視界には今期の覇権アニメが映る。


物語はこれからクライマックスに差し掛かるところだ。




不意にブブブッとスマホが振動し、画面の上端に通知が届いた。




【俺っち、げんきにしてる?こっちはどうにか落ち着いたよー。今度打ち上げやるから体調良ければ来てよ!あ、そうそう。俺っちの仕事、りゅうちゃんが代わりに頑張ってくれて。本当に頑張ってくれて。だから今度会った時になんかおごってあげてね!】




「ぷっ。あはははは!……知らねえよバーカ消え失せろ!!」




水を差された不愉快を、ボクはお気に入りのコーヒーで無理やり胃に流し込んだ。

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