第十三話:身を燃える炎


炎の手は屋敷の外側から上がった。
侵入者しんにゅうしゃがどこから、どのように入り込んだのか。誰にも分からない。
「そのもの」は、風のように、夜の闇のように、どこからでも現れるかのようだった。

ノックはなかった。客ではないことだけは確かだった。

――アスイェは家にいない。
侍女たちは彼にすぐ知らせる暇もなく、ただ手分けして守りに回った。

屋敷は広い。
セラフィナは屋敷の奥の部屋にいたが、濃い煙にむせて目を覚ます。
泣きはしなかった。ただ咳き込み続けた。
やがてその瞳は赤く染まっていく。

――煙のせいなのか、吸血鬼の本能なのか。

セラフィナは床に座り続けた。
アスイェが出かけるとき言い残した。

「良い子にして待て」という言葉は、彼女にとって唯一の指令だった。

一人の侍女が幼子を抱き上げる。
悪意はなく、幼子も抗わなかった。
その侍女はセラフィナを抱え、長い廊下を駆け抜け、燃え盛る庭園を駆け抜け、壊れた天窓てんまどを越えた先で、侍女の喉は矢に貫かれた。

だが、そこで矢が喉を貫いた。
侍女は倒れ、血が飛び散り、幼子の身を静かに汚した。

幼子は転がり落ち、炎を見つめたまま、煉瓦と灰の中に崩れ落ちて動かない。
炎の光が夜を白昼はくちゅうのように照らし出していた。

そして、セラフィナは泣いた。
いつものように静かに涙をこぼすのではない。
体を震わせ、声を上げて泣いていた。


セラフィナの瞳に赤が宿った。
それが涙によるものなのか、吸血鬼としての本能なのか――分からなかった。

幼い彼女は赤い目を開き、きばをのぞかせ、長い爪までもが伸びていた。
恐れを知らぬはずの幼子が、その名を叫んでいた。

「……Sia――!」

返事はない。
呼びかけに応える声は、どこにもなかった。

危機も、まだ去っていない。
足音が、近づいてくる。

泣いていたセラフィナは、顔を上げた。
視界の向こう、見知らぬ人影が現れる。
彼らは小声で何かを言い交わし、一人が手を伸ばした。
幼子を連れ去ろうとした、

その瞬間――幼子の瞳が鮮やかに赤く光った。
吸血鬼の本能だった。

低い声が漏れ、獣が獲物を見つけたように、幼子の体が跳びかかった。

それは、幼い身に宿るはずのない衝動だった。

あの人は怯え、手を震わせながら武器を抜こうとしていたが、もう遅かった。
外から、風が来たのだ。

それはただの風ではなかった。
風よりも重く、深く、どこまでも底の見えないもの。
形も輪郭も持たず、夜空の高みから降りてきて、
まるで漆黒の翼のように、火も、光も、すべてを覆い尽くした。

その瞬間、あの人の姿は炎の中に呑まれ、
垂れ落ちるはずの血さえ見えなかった。
悲鳴を上げる間もなく、空気がひとつ震えただけだった。

セラフィナは、立ち尽くしていた。
燃え上がる庭の光が、彼女の頬を照らし、
その赤い反射の中で、彼女は振り向いた。

――そこにいたのは、アスイェだった。

風に黒髪が揺れ、マントの端が焦土をかすめていた。
片方の肩には血がついているのに、
その顔には痛みも怒りもなく、夜よりも深い冷たさだけがあった。

セラフィナは、まばたきも忘れてアスイェを見つめた。
膝から力が抜け、涙が頬を伝い、止まることを知らなかった。

やがてアスイェはゆっくりと幼子の前にしゃがみ、
焦げた空気の中、何も言わず、その小さな体を抱き上げた。
その動作は、まるで風が灰を拾い上げるように静かだった。

「……ただいま戻った」

その声が届いたとき、
幼子はまだ泣き続け、息が途切れ、
その瞳に宿っていた赤は、いつの間にか消えていた。


あの人は怯えて、武器を抜こうとしていたが、もう遅かった

――風がきたから。

来たのは普通の風ではない、風より重い、そこの知れぬものだった

形も輪郭もなく、夜空の高みから降りてきて、まるで漆黒の翼のように火も光もすべてを覆い尽くした。

その人は、跡形もなく消えた。
垂れ落ちるはずの血さえ見えない。
敵は悲鳴をあげる暇もなく、空気だけがひとつ震えただけだった。

セラフィナはひとり、立ち尽くした。

無表情のまま振り向くと、炎の光の向こうにひとつの影が立っていた。

――そこにいるのは、アスイェだった。

アスイェの黒髪は風に揺れ、マントのはしが焦げた土をかすめ、片方の肩には血がついていた。

彼の表情は、冬の夜よりも寒い。

セラフィナは瞬きもせずにアスイェを見つめた。

セラフィナの腰は力を抜いて、涙が流れ続けた。

アスイェは幼子の前にしゃがみ、幼子を抱き上げた。

「……ただいま戻った」

幼子は泣き続け、息が途切れた。

目の赤色はもう退いた。

セラフィナは頭をアスイェの胸に押し当てて、やっと涙を止めた。

空気はいまだ熱く、炎は燃え続けている。

血の匂いは消えない。それでもセラフィナは、はじめて安堵した。

「……Sia」

「目を閉じろう」

アスイェはセラフィナを慰めていない、ただしっかりとその子の体を支え、そう言った。

風が止まった。

止まったよりも、風が凍った。

いや、止んだのではない。風が凍りついたのだ。

さっきまで轟々と燃え上がっていた炎は、喉を押さえられた獣のように、あとは時間の問題とばかりに、静かに息を絶えた。

炎はまだ燃えてるが、幼いセラフィナはもう怯えことはない。

足は止まったが、敵はまだ二人の前にいる。

彼はアスイェが危険だと知ったが、

入った敵はいた。

アスイェはただその場に立ち、敵たちを見るより先にセラフィナを見た。

ただ一瞥だけ、特別な意味はない。

セラフィナも、アスイェを見つめた。

そして幼子は見た。

アスイェが「動いた」瞬間――

武器も、詠唱もない。

ただ一滴の血が、彼の指から垂れた。

悲鳴はなく、血が庭を汚すこともなかった。

人形師が糸を手放すように、炎の影に隠れていた者たちは、影に呑まれた。

敵はほんとに多い、庭園に入っていない人もいる。

アスイェはその人間たちに目をあった。

静めた風がまだ吹き始めた。

それは、自然の風ではなかった。

彼の肩甲の奥から、生まれた風だった。

形が見えない翼を広めたように、

その翼は飛べないく、ただ幼子を包むために広めた。

セラフィナはアスイェの左腕に座っていて、彼は右手の人差し指を唇を当てた。

「しー静かに……」

敵は逃げ始めたが、ここはその者たちが訪れたその時から、生きて帰る選択はなかった。

屋敷の外壁が閃いた。

それはアスイェが前に作った魔法だ。人間がここに襲う勇気はないから、彼にとってあまり意味がないものだった。

炎が消え、風も止まり、庭に静寂が戻る。すべての息づかいさえも、この静けさに呑み込まれた。

まるで、何も起こらなかったかのように。

帷がやっと降りた。

アスイェはしばらく庭に立ちつくした。

幼子はやっと安心して彼の胸に目を閉じ、幼子は彼の胸に顔を埋め、安らかな声で彼の名を呼んだ。

「……Sia……」

アスイェはセラフィナを一瞥した。

ただ、幼子を連れて、夜の中に帰った。

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次の更新予定

2025年12月12日 20:00
2025年12月19日 20:00

アスイェ•Asyeh 新城凪 @sinjounagi

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