第3幕:澪、ひだまりの席に




春の陽射しが、ゆっくりと教室を満たしていた。


窓際の席、カーテンの影が机の上で揺れる。教室はざわざわと、春休み明けの雑談に包まれていた。制服を着慣れない新一年生、伸びた前髪を切りそびれた誰か、消しゴムを貸し借りする声。蓮はそんな音たちをぼんやりと耳の奥で聞きながら、ノートの隅に落書きをしていた。


「──転校生を紹介します」


その瞬間、空気が少しだけ変わった。ほんの少しだけ。


扉が開き、誰かが入ってくる気配。だれもが一斉に前を向き、しゃべっていた声が不自然に静まる。


「芹沢澪さん。前の学校は──」


担任の声は遠くで波のように響いているのに、蓮にはほとんど耳に入ってこなかった。代わりに、ふと視線が吸い寄せられた。


彼女は、まっすぐ立っていた。細くて、でも芯の通った立ち姿だった。

セーラー服のリボンが少し斜めで、髪がすこし乱れていた。でも、それが妙に印象的で──絵画の中から抜け出してきたみたいだった。


「……芹沢澪です。よろしくお願いします」


その声はごく短く、でもよく通った。


蓮は、心臓が一回だけ小さく跳ねるのを感じた。

なぜだか理由はわからない。ただ、

「この人を見たことがある気がする」

そう思った。でも現実にそんなはずはない。思い違い──のはずだった。


席は蓮のすぐ後ろだった。教室の一番奥、窓際の席。蓮の斜めうしろ。


彼女が自分の名前を呼ばれ、ゆっくりと歩くその足音を聞きながら、蓮はなぜか息をひそめた。なにか、見てはいけないものが近づいてくるような、不思議な緊張があった。


──コン。


椅子を引く音がして、彼女が座る。

それだけのことなのに、蓮は心のどこかで「何かが始まってしまった」と思った。


昼休み。澪は一人で席にいた。誰とも話さず、窓の外を見ている。

弁当も開けていない。教科書を開いているが、ページは進んでいなかった。


蓮は、自分でも驚くくらい自然に、後ろを振り返った。


「ねえ……芹沢さん」


「……うん?」


その瞬間、澪がこちらを向いた。目が合った。

蓮は言葉を失った。光の反射で、澪の瞳がすこし濡れて見えたから。


「ごめん、なんでもない。教科書、落ちてたよ」


「……ありがとう」


それだけの会話。

でも、澪の声はどこか遠くの音のようだった。

今ここにいるはずなのに、どこか別の季節の音に聞こえた。


蓮は視線を教室の外に移した。

校庭では吹奏楽部が練習していた。トランペットの音が跳ね、春の空気に混ざって漂っている。


この教室だけが、どこか別の時間の中にあるような気がした。




放課後。図書室。



蓮は偶然、澪と出くわした。

同じ棚を見て、同じタイミングで手を伸ばして──本に触れた指先が一瞬、重なった。


「……ごめん」


「ううん、どうぞ」


差し出されたのは、薄い文庫本。

タイトルは、見たことがある気がした。手紙──いや、遥の書いたものの中に、確か似た一文があったような──。


「これ、好きなの?」


「うん……」

澪は答えた後、少しだけためらってからこう言った。


「──昔、誰かが教えてくれた気がするの」


「……誰か?」


「覚えてない。けど、春の光の中で、その人がこの本を読んでた気がして……」


蓮は言葉を飲み込んだ。

まるで夢の中の誰かのことを語っているようだった。いや、そうじゃない。

夢が、現実の記憶をかすめていったのかもしれない。


「変な話だよね」

そう言って、澪はかすかに笑った。

蓮は何も言えなかった。ただ、その横顔がどこか、遥に似ているように見えて──心が、じわっと疼いた。



放課後の図書室。

差し込む光。埃の匂い。紙のめくれる音。


どこかで、世界がひっそりと、何かを知らせている。

まだ言葉にはならないけれど、蓮は確かにそれを感じていた。


彼女の名前は澪。

春の終わりに現れた、陽だまりのような影。

そして、名前のない記憶の底に繋がっているかもしれない、その気配。


──それが、“再会”なのか、“始まり”なのか。

今はまだ、誰にもわからなかった。

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花影 Naml @kita_

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