第4話 顔のない日々

それから、いくつの朝を迎えただろう。


電車に乗れば、見渡すかぎり“俺”の顔。

職場でも、ニュースでも、SNSでも、歩く影のひとつひとつに、自分の顔が貼りついている。


最初は、頭がおかしくなるかと思った。

だが不思議なことに、人々は次第に――いや、“俺たち”は、次第にそれを当たり前として受け入れ始めた。


整形外科も、美容サロンも、顔写真付きIDも、不要になった。

「皆同じだから間違いは起きない」と言われるようになり、街は静かになった。


無駄な比較がなくなった。

劣等感も、優越感も。

見た目で人を差別する声も、やがて消えていった。


争いは、本当に減ったのだ。


“個”が死に、“群”が生まれた。


皮肉なことに、宇宙人の言っていた通りだった。

世界は、穏やかになった。


……ただひとつだけ、取り返しのつかないものを除いて。


鏡に映る自分が、分からない。


それどころか、“どれが本物だったか”さえ、もう思い出せない。

昔の写真を見ても、「この顔が俺だ」と指を差せる確信が、もうない。


ある日、街の掲示板に、誰かが落書きをしていた。


「誰が誰だか、ほんとにどうでもよくなったね」


通報されることもなく、消されることもなく、それはしばらく掲示されたままだった。


夜、ベッドの中で目を閉じると、子どもの頃の夢を見る。

砂場で笑う俺。母親が呼んでいる声。

けれど、母の顔も、自分の顔も、もう思い出せない。


夢の中にまで、“俺の顔”が溢れている。


かつての“俺”は、今どこにいるのだろうか。

もしかしたら最初からそんな人間など、存在しなかったのかもしれない。


宇宙人はもう姿を見せない。

あれ以来、一度も。


だが、街のどこかでふと、誰かが言った。


「……お前って、ほんと“俺っぽい”よな」


その“俺っぽさ”の定義も、意味も、もう誰も知らない。


そして、誰も気にしない。


誰もが“同じ顔”で、“同じ声”で、“同じ歩幅”で暮らしている。


それが、平和。

それが、静けさ。

それが、“答え”。


たったひとつの、歪な、でも確かに完成された“形”。


俺は今日も、誰かとして、俺として、

顔のないまま、群の中に溶けていく。


——もう、“俺”を探す必要はない。


世界が、俺だから。

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『似顔の地球』 イェスコマ @saisasasa

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