第3話

 老いたイゴルは寝台の上に仰向あおむけに横たわり、己の寿命が尽きかけているのを感じていた。髪もひげもすっかり白くなり、肉の減った身体も随分ずいぶんと小さくなったようだ。

 悪魔である主人の暮らすこの屋敷は、従者であるイゴルにとっても長く世話になった愛着のある場所だ。ここ最近は自分の手で手入れすることも出来ず、いくらか気がかりのある箇所かしょがそのままになりそうで名残惜しい。

 だがイゴルには、それ以上に案じていることがあった。

「なあ……御主人」

 しわがれた一声を出すだけでも、老いて衰弱すいじゃくした身体にとっては気力がいる。

「何だ?」

 ベッドの横の椅子に腰掛けていた悪魔が返事をする。イゴルの主人である悪魔は、出会った時と変わらない少年のような姿のままだ。だがその表情は憂いを帯び、人の魂を食べ続けてきた悪魔とは思えないほどの情感に満ちていた。

「おれの魂は、美味そうになったか?」

 イゴルの言葉に一瞬、悪魔の目が鈍く光る。

「……いいや」

 だが悪魔は首を横に振った。

「もし私に魂を寄越よこす気なら無駄だ。何度も言ったように、お前のように美味くない魂など食っても」

「嘘だな」

 何十年おれが御主人といたと思ってるんだ、とイゴルは笑う。

「今のは、獲物えものの魂が美味そうだったときの目だ」

 悪魔は笑わなかった。イゴルは続ける。

「昔ある国で、御主人が悪魔だと言われて追われる暮らしをしていたことがあったろう?」

「……あった。あの時はろくに魂も食えず、お前も髭すらあたれず、お互い酷いものだったな。そういやお前、あの頃から髭をのばすようになったんじゃないのか。最初は似合わないと言っていたが──」

「あの時、御主人を特にしつこく疑って命を狙っていた貴族が急死したな」

「そうだったか?」

 イゴルに昔語りを遮られた悪魔は、それでも話を続けようとする。

「興味のないことはあまり覚えていないな。それよりあの国の名物の」

「──あの貴族を殺したのは、俺なんだよ」

 悪魔は微かに口を開き、言葉の代わりに小さく息を吐いた。

「そうか」

 それだけを言い、寝台の上に置かれたイゴルの痩せた指先に触れる。

「その様子だと、御主人も気付いてたな? まあ当然か。おれの魂がどうなってるかなんて、あんたにはお見通しだろう」

 イゴルのあっさりした態度に、悪魔はつくりもののような顔を大袈裟おおげさに歪めた。

「てっきりお前は、死ぬまで黙っているものだと思っていたよ。だから、私も黙っていたというのに」

 ふてくされた主人の様子を笑おうとしたイゴルは、その拍子ひょうしに数度き込む。

「ははあ……本当は黙っててもよかったんだが。黙ってちゃ、あんたはおれの魂を食ってくれないようだからな」

「イゴル、私はお前の魂の味など知りたくはないよ」

「そう冷たいことを言わないでくれ、おれも結構苦労したんだ。なにしろそこからはほかにも大勢、あんたの邪魔をする者を」

「イゴル」

「なあ御主人、おれの魂は美味そうになっただろう?」

「すまないイゴル、私は」

 名を繰り返した悪魔の冷たい指が、イゴルのせてかさついた指先を握る。

「食べない。……お前の魂を、これまで食べたものと同じだとは思いたくない」

 イゴルは悪魔の指を弱い力で握り返す。

「同じだよ。もし他の人間とおれが違うとしたら、それは魂のせいじゃない……」

 弱々しく掠れていく声に、悪魔はその口元に耳を寄せる。

 ──あんたが、おれと目が合ったせいだ。

 その小さな声がやけに楽しそうで、悪魔はイゴルの顔を見る。肉の落ちた皺深い老人の顔は、目を細めたにんまりとした笑みに満ちていた。

「……私の舌が、容易よういに満足すると思うのか。図々しい」

「そうだな、御主人は美食家だから……」

 イゴルがゆっくりと目を閉じる。

「なあ、悪魔がどれほど長く生きるのか分からないが……あんたはどうせあと百年以上は生きるんだろう?」

「……その気になればな」

「そうか。なら食われたらあんたの腹の中にずっと残るし、食われなかったら地獄で気長に待つさ。……あんたが忘れてなきゃいいんだが」

「悪魔より気の長い男だな、お前は!」

 死にかけた男に悪魔はそう言い放つと、悔しげに手を強く握った。


 イゴルはその翌月の寒い夜に、人間並みの天寿てんじゅを全うした。その魂がどこへ行ったのか、どこにも行かなかったのか、悪魔にとっては分かり得ないことだった。

 それから悪魔は二度と人間の魂を口にせず、百年を待たずにゆっくりと朽ちて果てた。

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魂が美味しくない男×魂を食べたい悪魔 八億児 @hco94

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