第2章(後半) 手紙の駅と読み手のいない文字


老婦人は、まるで長いあいだそこにいたように、微動だにせず椅子に座っていた。

窓際の薄明かりが彼女の横顔をやわらかく照らしている。

まわりには、やはり手紙がいくつも、重なるように置かれていた。


「……こんにちは」


彼女がそっと声をかけた。

老婦人はゆっくりとこちらを向き、にこりと笑った。


「いらっしゃい。ここは初めてかしら?」


「……たぶん、そうです」


ユイが答える。


「でも、なんだか懐かしい気もする」


老婦人はうなずいた。


「そう。よくそう言う方がいるのよ。

 ここは、“言えなかったこと”が集まってくる場所だから。

 たぶんあなたも、どこかで何かを言えなかったこと、あるのでしょう?」


ふたりとも、返す言葉がなかった。



老婦人はゆっくりと、足元にあった手紙を拾い上げた。

封筒の表には、なにも書かれていなかった。


「ねえ、この手紙……宛名がないですね」


「そう。名前を書かなかったの。怖くてね」


「怖い?」


「ええ。名前を書くと、届いてしまうでしょう?

 相手に読まれてしまうということは、自分も読まれてしまうこと。

 それが、あのときの私には、まだできなかった」


老婦人の手は少し震えていた。


「でも……それでも、書いたんですね」


「ええ。言葉を残すことで、少しだけ、先に進めた気がしたの。

 届かなくてもいい。読まれなくてもいい。ただ、“ここにあった”ということが、大切なのよ」


彼女は、まるで誰かに許しを請うようにそう言った。



ユイが、そっと隣に座る。


「私も、書いてみようかな」


「うん。書いてごらんなさい。言えなかった言葉は、心に刺さったままになるから。

 紙に書いても、名前がなくても、それはきっと、あなたを自由にする」


ユイは一枚の紙を手に取った。

けれど、ペンを持った指が止まってしまう。


「……なんて書けばいいのか、分からない」


「それでもいい。言葉にならないなら、名前でも」


彼女は少し迷ってから、紙の上にひらがなでひとつだけ書いた。


「おとうさんへ」


そして、それ以上は書かなかった。

紙を折って、そっと床に置いた。誰にも読まれないように、でも誰かに読まれるように。



「あなたは?」


老婦人が僕に尋ねる。


「……僕は」


言おうとして、ふと止まった。

自分が誰なのか、思い出せなかった。

けれど、どこかで誰かに呼ばれていたような気がする。遠い昔に。


「書いた方がいいかもしれませんよ。

 そうしてここを通った人たちは、少しずつ、自分に戻っていくのだから」


僕は頷き、白紙の手紙を手に取った。

けれど、それをポケットにしまった。

たぶんまだ、そのときじゃなかった。



列車に戻るころ、外は少しだけ明るくなっていた。

風が鳴る。まるで誰かが遠くから呼んでいるような音だった。


車内に戻って席についたとき、彼女がつぶやいた。


「……届かないままの言葉って、なんであんなに重たいんだろうね」


「きっと、いつか届くと思ってるから」


「……届くかな。わたしのも」


「きっと」


彼女は、ふと顔を伏せた。


そのとき、声にならないような声で、彼女がぽつりとつぶやいた。


「……ユイ」


僕には、また聞こえなかった。

けれどその言葉は、確かにそこにあった気がした。


「なんて言った?」


「……なんでもないよ」


そして、列車は静かに、次の駅へと動き出した。

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空想旅行 シロツメ @shirotsume

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