行方不明の蟻

別槻やよい

行方不明の蟻


 蟻がいた。

 帰りの電車、優先席付近のツルツルの壁にいた。

 視界の隅で黒く蠢くそれは、気がついてしまえば随分と大きく見えた。何処から来たのか、なんて分からないけれど、この電車が停車する複数の駅のうちのいずれかから乗り込んできたのかもしれない。

 もしかしたら、電車にこっそり巣を作っているのかも。それにしては数が少なすぎるから、やはりこの蟻は旅行者に違いない。


 ツルツルの壁はいかにも滑りやすそうで、普通の蟻より大きく見える旅人には随分と歩きにくそうだ。

 そもそもどういう原理で歩いているんだろうか。それを調べるより早く、蟻は私の目の前に座る乗客の顔へ迫る。

 ……この人が気づく前に、叩き落とした方がいいだろうか。しかし、見ず知らずの人間に急に接近された上、顔近くに手を差し向けられたら不快以外の何物でもないだろうことは想像にかたくない。

 故に見守ることにした。


 のんびりとY軸上を歩く蟻。

 じわじわと迫る乗客の顔。


 スマホを弄っていることから眠ってはいないと思うが、こんなに至近距離に近づかれても大丈夫とは恐れ入る。それとも、ただ気がついていないだけなのだろうか。


 あわや接触事故からのハプニング映像となりそうなその時、当事者である蟻は唐突に進路を変更した。

 乗客の頭に花を添えている帽子の縁をなぞる様に、弧を描きながら回避する蟻。


 黙って脳内スタンディングオベーション。

 思考する脳はなくとも危険を察知する本能は流石である。


 蟻はそのまま乗客を回避し、その背後を取った後に何処かへと去っていった。

 もしかすると、足元に蠢いているかもしれない。そう思って、前に抱えたリュックサック越しに足元を覗いてみる。そこには沢山の乗客が乗った痕跡が電灯に照らされているだけで、蟻の姿を見つけることは出来なかった。

 何処へ行ったのか、なんて、電車を降りてしまえば忘れてしまうことなのだけれど。目的地の駅に着くまでの間、私は電車に揺られながら蟻の行方について思案していた。


 ちなみに蟻がツルツルの壁を難なく...では無いかもしれないが歩くことが出来るのは、足に吸盤状の凹凸があり、それを補助する粘着物質があるかららしい。まさか陸上の蛸だったとは思わなかった。

 昆虫というものはやはり、想像の斜め上を行くが故に面白い。

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行方不明の蟻 別槻やよい @Yayoi_Wakatuki

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