青い街
青山海里
青い街
母が死んだ日、庭の紫陽花が初めて咲いた。
朝露をのせて輝く薄い花びらを、母は一度も見ることのないまま死んだ。
物心ついたときから僕は母と2人で生きてきた。
母以外の肉親の顔は見たことがないし、母は身体が弱く臥せがちだったから近所との付き合いも薄かった。
訃報の知らせを出す先もなければ、弔問に来る客もいなかった。
家のことはずっと僕がしていたから、母が死んだところでとりわけ生活に苦労することはなかった。
それどころか、僕が毎日やらなければならないことから一つ、母の世話がなくなった。
母がいなくても僕は、自分が困らないことを知った。
母の葬式から丁度2週間経った昨日、僕が配達の仕事を終えて家に帰ると郵便受けに小包が入っていた。
差出人の名前はなく、宛名は母になっていた。
母が死んだ今、僕がその小包を開けることは当然の行為に思えた。
小包の中身は簪だった。
まだ母が元気だったころ、お気に入りの浴衣と一緒によく身に着けていた紫陽花の簪。
手に取った瞬間、脳裏にあの日の情景が鮮烈に浮かんだ。
その日が来ると、僕はすぐにわかった。
母は頭にあの簪を挿していて、いつもは一文字に固く結ばれた母の口元が優しく微笑んでいるから。
今日もまたあの夢を見るのかと嫌気がさす僕をよそに、上機嫌で支度を終えた母は、玄関で僕に靴を履かせ僕の頭に帽子を被せた。
母が僕の手を引いて歩くのはその日が来たときだけだから、僕はあの夢は嫌いだったけどその日は嫌いになれなかった。
僕は、自分の右手が母の左手の中にあることが嬉しくてたまらなかった。
その日が来ると僕たちはいつも同じ道を通って、同じ駅に行って、同じ電車に乗った。
電車に乗ってしばらくすると、母は決まって僕の口に小さなラムネを放り込んだ。
そして僕にこう言った。
「噛んだらダメよ。噛むのは悪い子。」
母にとっての悪い子になりたくなくて、僕はラムネが小さくなるまでずっと、右側のほっぺたの内側にくっつけていた。
うっかり飲み込んでしまっていないか心配で、何度も舌先でラムネがなくなっていないかを確かめる。
ラムネが小さくなるにつれて、僕の意識は少しずつ遠のいていく。
まどろんでいく心地よい時間を経て、僕はいつも、同じ夢を見ていた。
夢の中で僕は、青い街にいる。
電柱も、道路も、建っている家も、郵便ポストも全てが青い街。
街には僕と母しかおらず、僕は母に右手を引かれながら歩いている。
僕が行き先を尋ねても、母の耳には届かない。
母はぼおっとしたように遠くを見ながら、ひたすら歩き続ける。
気がつくと僕たちは、いつも同じ屋敷の前に立っている。
母は僕の右手を離し、門の奥へと駆け出して行く。
僕に向けては一度も見せたことがない嬉々とした表情で、両手をいっぱいに広げて。
僕は母を追いかけようとする。
すると、門の奥から青い塊が津波のように押し寄せてきて、あっという間に母を飲み込んでいった。
母は青い塊の中に、自ら飛び込んでいったようにも見えた。
なす術もなくその場に立ち尽くしていた僕も間もなく、青い塊に飲み込まれてしまう。
青い塊は僕の耳や鼻、口から僕の身体の中に入り込んで行き、僕は息が苦しくなって目を覚ます。
目が覚めたとき、いつも僕はぐっしょりと汗をかいていて、心臓が胸を内側から激しく叩いている。
いつの間に帰ってきたのか、僕は布団に寝かされていて、僕の頭を母が優しく撫でている。
母の手の温もりを感じながらも、それでも僕はあの夢が大嫌いだった。
大人になった今、あの夢の半分は夢ではなかったことも、母が僕の口に放り込んでいたものの正体も僕にはわかる。
それでも僕は、母を憎む気にはなれなかった。
今朝、僕はあの簪を、庭の紫陽花のすぐ下に埋めた。
母が亡くなってから初めて、僕は声を上げて泣いた。
〈終〉
青い街 青山海里 @Kairi_18
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