エピローグ:静寂の音叉
あれから、一月が過ぎた。
羽依里の生きる世界は、その姿を、完全なまでに、変えてしまった。
大学の、午後の図書館。その、静寂として、設計された空間ですら、今の羽依里には、無数の音で、満ち溢れていた。
書架に並ぶ、本一冊一冊が、その内に秘めた、物語や、知識を、微かな、しかし、固有の、ハミングとして、奏でている。コンクリートの壁は、低く、重く、唸り、ガラス窓は、空の光を、甲高い、周波数で、反射している。
羽依里は、ポケットの中で、亮子にもらった、あの黒い石を、きつく、握りしめた。
その石だけが、この、音の洪水の中で、唯一、完全な、静寂を、保っていた。羽依里は、その石の、絶対的な無音を、自らの、基準点(ゼロ)とし、意識のチューニングを、合わせる。そうすることで、どうにか、世界のノイズに、押し流されずに、立っていることができた。
「羽依里! 探したよー!」
璃子の、太陽のような声が、羽依里の意識を、現実へと、引き戻した。彼女と、その後ろから、静かに、ついてくる、江莉。
「最近、付き合い悪いじゃん! あの後の、イケメンたちとの、進展、どうなってんのよ!」
璃子の、その、悪意のない、好奇心の塊のような、意識のハミングは、明るく、やかましく、羽依里の鼓膜を、くすぐった。
「……別に、何も」
羽依里が、微笑んで、そう答えると、江莉が、じっと、羽依里の目を、見つめた。
「あんた、疲れてるの?」
江莉の、ハミングは、細く、鋭い。まるで、レーザーのように、的確に、物事の、本質を、射抜いてくる。
「……少しね」
羽依里は、もう、嘘をつくことも、取り繕うこともしなかった。
その日の午後、羽依里は、聖真と、カフェのテラス席で、向かい合っていた。
彼の、ノートパソコンの画面には、羽依里には、理解できない、複雑なグラフが、表示されている。
「これは、君が、天文台で、パーツBの『子守唄』を感じた時の、君自身の、脳波のパターンだ。そして、こっちが、先ほど、君が、璃子さんの『喜び』の感情に、触れた時の、パターン。振幅の、減衰率に、明確な、相関関係が見られる。……これは、つまり」
聖真は、もう、超常現象を、解き明かそうとしているのではなかった。彼は、羽依里という、新しい物理法則そのものを、理解しようとしていた。彼の、その、真摯な、探究心は、羽依里にとって、自分の、この、特異な体質を、客観的に、見つめ直す、助けとなっていた。
そこへ、寛が、コーヒーカップを、二つ、持って、やってきた。
「よお。また、難しい話してんのか」
彼の、ハミングは、他の誰のものとも、違う。温かく、大きく、そして、どこまでも、安定している。それは、羽依里の、乱れがちな、意識の周波数を、優しく、整えてくれるようだった。
彼が、隣にいるだけで、世界のノイズが、少しだけ、遠のく。
「……ありがとう」
羽依里が、ぽつりと、そう言うと、寛は、きょとんとした顔で、「何が?」と、首を傾げた。
物語は、終わった。
世界を、揺るがすような、大きな事件は、もう、起こらないだろう。
だが、羽依里の、戦いは、まだ、始まったばかりだ。
この、あまりに、うるさくて、不協和音に満ちた、世界と、どう、折り合いをつけて、生きていくのか。
ポケットの中の、石の、静寂を、道標に。
隣にいてくれる、温かい、ハミングを、支えに。
羽依里は、目を閉じた。
そして、意識を、集中させる。
これまで、ただ、受け流すだけだった、世界のノイズを、今度は、自らの意志で、選別し、聞き分け、そして、その、一つ一つの音の、意味を、理解しようと、試みる。
それは、果てしない、気の遠くなるような、作業。
だが、羽依-里は、もう、独りではなかった。
翻訳者の、役目は、終わった。
これから、彼女は、この、狂った世界の、オーケストラの、新しい、指揮者(コンダクター)になるのかもしれない。
その、重すぎる、タクトを、手に、彼女は、静かに、微笑んだ。
空は、どこまでも、青かった。
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半分の魂に捧ぐ子守唄 kareakarie @kareakarie
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