ネガティブ・シンジロー

脳幹 まこと

反復をするべきだと思ったので反復をする


 時折シンジローになることがある。


 はっきりとはしないが、自分の中におぼろげに浮かんでくる。自分と会話するということは、自分と向き合うということ。

 自分と自分とで相対すると、その間にあるおぼろげな存在が見えてくる。独りで喋っているということだから、まごうことなき独り言ではあるけども、ネガティブな方向というものに進んでいく。すなわち向かっていく。


 私はダメな人間だ、と表現する。その理由を探す。真っ当な精神状態であれば、ダメの要素を考える。それは自分の疲れかもしれないし、一時の不調かもしれない。人のやっかみかもしれない。それらを一つ一つこなしていけばよい。

 しかし、真っ当な精神状態でない場合、ダメな理由に「ダメだから」と当てはめてしまう。ダメな人間であるから、ダメな人間であると、そう結論づけてしまう。そしてその理由を考える。それもまた、やはりダメな人間であるという結論に至る。負のトートロジーが生まれる。


 そういう場合は考えることをすっぱりと打ち切る、すなわち先延ばしとすることが、重要になってくる。自分から自分を切り離す。自分を放る。その背中を黙って見送る。ここで惜しんではならない。そうするとまた自分と自分とで相対してしまって、再びおぼろげな存在が現れる。自分の人相が悪く見えたり、許せなくなってしまう。石や泥を投げ合ったりする。


 自問自答は、自分の中にある見えない自分を見る、感じ取るためには便利な手法ではある。見えないことは、すなわちない・・ことと同じではない。サイコロの1と6の関係、2と5の関係、3と4の関係のように、見えていないがある・・ものがある。

 また、あるものが実際にそこにあることを確認するのにも有用である。1は確かに1の場所にある。2は2に、3は3に……勿論、私達の心が、そんなはっきりとと向かって対峙できるほどはっきりしたものかというと、それは違うかもしれないけれども。


 しかし、自分の中で回答を出すこの方式は、状況によっては、不毛な結論に向かってしまうこともある。「相手は2と言っているが、他ならぬ私が1と言っているのだから、これはどうみても1なのだ」とか「私がダメだと言っているから、私はダメなのだ」とか、間違った方向に向けて強調をしてしまう。


 こういうのは創作においても見受けられる。「この作品の真価は自分しか分からない、だからこそ自分しか評価できない」といった反応だ。この誇りとも拘りとも呼べる概念は、他者の作品を読んだり、読んでもらったりという経験が乏しいと起こりやすい。

 作品といっても、公開した瞬間に真価こたえは四方八方へ霧散していくのだ。読者各位が持った感想や評価は、作者の想定とまったく乖離してようが、真価の一面となる。

 勿論、だからといって「自分は自作すら適切に評価できない、だからこそ自分には作品を評価する資格がない」と卑下する必要もなく、その感性を開示し、公開していけばよいと思われる。


 自分の中の自分や、自分の中の他人や、他人の中の自分や、他人の中の他人をきちんと見て、その折り合いをつけてゆく。


 時折は「私は誰かに褒められた。だからこそ私は誰かに褒められるだけの力がある」と、自分を勇気づけてあげても、まあ、バチは当たらないだろうと、私の中のシンジローは語る。

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