匿名A
リョーシリキガク
立てこもり事件
『心がないのに──家族ごっこが!』
『こんなことするつもりじゃ……』
『あの判決はおかしい。この社会は間違ってる……!』
『……紗代子……』
激しい心の声が、一気に流れ込む。
怒り、悲しみ、そして――深い愛。
「……はぁ、はぁ……ッ……!」
視界が白く爆ぜ、その場にしゃがみ込んだ。目の奥が焼けるように痛む。
「大丈夫ですか、一ノ瀬さん!?」
刑事の声が横から聞こえ、私は浅く息を吐いてから、顔を上げた。
「……大丈夫です。激しい感情を読んで、クラクラきただけ。ありがとう」
息を整えながら、自分に言い聞かせる。
私は一ノ瀬。読心能力者。
とある一軒家での立てこもり事件を解決するため、現場に派遣された。
「犯人の心を読んで……氏名や要求はわかりましたか?」
刑事が声を潜める。
私は立ち上がり、首を振った。
「心は読めましたが、断片的でした。
……ただ、立てこもりは計画的ではないようです」
「人質は夫婦と娘の三人だけですか?」
私は再び目を閉じ、意識を沈める。
すると、三つの感情が浮かんできた。
二つ――おそらく妻と娘――は、凍りつくような恐怖。
そしてもう一つ。低い、男の声。
『……こいつ、まさか……高橋先生のときの……?』
私は静かに目を開き、言った。
「“高橋先生”、“紗代子”……そんな声が聞こえます」
その名を聞いた刑事の顔色が変わる。
「高橋紗代子……。確か十年近く前の事件だ。高校教師が生徒に刺された――その被害者です」
「……聞いたことがあります。犯人が無罪になったって」
刑事はタブレットを操作しながら言った。
「はい。加害者は、当時17歳の少年……"匿名A"。
精神鑑定で心因性無感情……責任能力なしとされ、無罪に」
私は、自然と眉を寄せていた。
「“心がない”」
その言葉は、私の胸にじんと響く。
「しかし匿名Aは、先生を愛していたという説もありまして」
刑事が声を潜めるように続けた。
「既婚の教師に思いを募らせた末の……心がないどころか熱情的な犯行だと」
私は提示された端末に目を通す。
そこに映っていたのは、優しげに微笑む女教師の写真。
匿名A……彼は心がないからこそ、心豊かな彼女に惹かれたのだろうか
「……この人質の奥さん。紗代子先生に似ていませんか?」
刑事の言葉に、私は息を詰めた。
胸の奥に、冷たい波紋が広がる。
「立てこもり犯は……その“匿名A”?」
そう言うと、刑事は慌てて調査へ向かった。
*
私は控室へと促され、一人ソファに腰を下ろした。
硬い座面の感触に背を預けたとき、スマホが音を立てた。
ピロン――
《"殺人犯"なんて大丈夫か?本来は僕の任務なんだから、今からでも僕が行くよ。君を危険に晒したくない》
神宮からのメッセージだった。私の上司にして交際相手。
「失礼。神宮隊長からです。……なんでもありません」
私がそう言うと、警官は目を輝かせる。
「ええっ! あの神宮さん! 神宮さんなら一瞬で解決できるんだろうな……全部の能力を使えるとか」
「まぁ、すぐ終わるでしょうね」
私はそう言って視線を外す。
彼ならすぐに終わらせるだろう。人質ごと犯人を殺すことで。そして"無罪"どころか、社会から英雄と讃えられる。だから危ないと私を止める彼を言いくるめて代わりに来たのだ。
「なんて仰ってるんです? 自分、大ファンで!」
警官は興奮気味だ。私は少し画面を傾けて、短く答えた。
「……心配してくれています。"立てこもり犯"なんて大丈夫か、と」
「えぇ、優しい〜! 大事にされているんですね!」
「読心能力者は貴重ですから」
「いやいや、能力だけが理由じゃないでしょう?それこそ、一ノ瀬さんなら心を読めばいいじゃないですか」
「さぁ……彼の心はわかりませんから」
私がそう言うと警官は苦笑した。
「一ノ瀬さん!」
声と共に扉が開き、先ほどの刑事が入ってくる。
「匿名Aの調査が完了しました!」
私は反射的に立ち上がる。彼の心の内が分かったのだ。
「"人質"が!?」
刑事は頷くと、語気を強めた。
「えぇ、匿名Aは犯人ではなく、人質のほうでした!」
刑事は続けた。
「かつての匿名Aは名前を変え、結婚して妻子と暮らしています。その家族が――今回の人質になっているんです」
自分を偽り、虚像の愛を築いている。私にはそう感じた。
先ほど心を読んで聞こえた名前を思い出す。
「なら……紗代子、と名前で呼んでいたのが犯人の方……」
刑事がうなずいた。
「立てこもり犯は、おそらく――被害者の夫。高橋陽介である可能性が高いです」
復讐。
匿名Aへ
妻を奪いながら幸せを享受する偽りの家庭へ
そして、"心がない"と無罪にしたこの社会へ
犯人の心の奥底にあるものが、徐々に形を成していくのを感じた。
しかしなぜ……匿名Aの住所まで、高橋は分かったのだろうか?
*
人質の疲労が限界に近いことは、遠くからでも伝わってきた。
震える心。小さな悲鳴。
特に幼い少女の意識が徐々に薄れかけている。
直接、接触するしかない。そう判断された。
私は防刃ベストを身にまとい、建物の庭へと静かに回り込んだ。
正面のガラス戸越しに、リビングの様子が見える。
そこには、犯人――高橋の姿と、人質の家族三人。だが、見えていても、踏み込むことはできない。
透明な一枚のガラスが、私と彼らを隔てていた。まるで人の心のように。
私は息を整え、ゆっくりと、真正面のガラス戸の前に立つ。
「……高橋さん。どうか、落ち着いてください」
静かに、声をかける。祈るように、その“壁”の向こうへと。
「立てこもりが計画的でないことは伝わっています。
あなたの奥様への思いも――」
ガラスの向こう、リビングに立つ黒い覆面姿の男が振り返る。
覆面越しでも、その瞳が見開かれたのが分かった。
私は、彼の心を読む。
混乱してはいるが、暴発の気配は薄い。
この瞬間なら、まだ届く。
私はゆっくりと、一歩ずつ踏み出し、ガラスへと手を伸ばす。
――ギィ……
窓がきしむ音と同時に、鋭い怒声が走った。
「そ、それ以上近づくな!」
高橋の怒声と共に、妻の肩を乱暴に引き寄せ、ナイフの刃先が向けられた。娘は震えながら、スカートの裾を握りしめている。
『家庭なんて築きやがって!!
“心がない”って無罪になったくせに……
なにが、幸せな家族だ。なにが……!』
怒りと喪失と――
かつて誰かを深く愛した名残が、鋭い棘となって胸を貫いた。
そして彼は、"匿名A"の妻へ、絞り出すように言った。
「……おい。お前は夫を愛してるつもりだろうが――
愛してるのは、“こいつそのもの”じゃない。“偽物”のこいつだ。
こいつの正体は、かつて俺の妻を殺した、“匿名A”なんだよ!」
妻の顔が、蒼白になる。しかし、私は気づいた。
高橋は匿名Aへ目を向けて続けた。
その声は怒号ではなかった。
むしろ、ねじれるような、泣き声に近かった。
「匿名A……本当のお前は、愛されてなんかいない。
愛されてるのは、お前が作った“虚像”だ。
この妻も、紗代子に似てるから選んだんだろ?
お前は、妻を見てない。
妻も、お前を見てない。
心が空っぽなお前には! 偽物しかないんだよ!」
私は、首を横に振った。
「……違います」
私の声は、細く、それでも届くように絞り出された。妻の心の声、それは。
「奥さんも、夫の過去に、どこかで気づいていた。
……それでも、愛したんです」
高橋の手がわずかに揺れる。
沈黙の中、妻が口を開いた。
「そ、そうです。私、本当は知ってました。でも、それでも……愛してます」
その言葉に、ズキリと胸が痛む。
匿名Aは、愛されていた。心のある、人間だったのだ。
私は高橋へと声をかけた。
「あなたは“心があるなら償え”と思っている……
でも、“心がないなら償わなくていい”と言いたいわけではない。
あなたは――あなたの奥様を奪った者に、
“人間であれ”と、叫んでいるだけなんです」
……あなたも、人間でいてください。
突発的な立てこもりは、殺すつもりだったのに、殺せなかったから。
それはあなたが、まだ“人間のままでいたい”と願っている証拠です。
あなたは、……彼の妻や娘まで、憎んでいないでしょう?」
その沈黙の中、かつての“匿名A”が、言葉を漏らした。
「……今でも俺は、心が曇ってて、
愛とかよくわからない。
でも妻と娘が愛してくれて………“心”をくれた気がした。
こんな俺でも……人を愛せると、教えてくれた。
……妻と娘は、見逃してください……」
独白の通り、彼の心は曇ったガラスのように感じた。しかしそれでも、私には、嘘偽りのない、一人の人間の本音だと読めた。
一瞬、高橋の表情が崩れかけた。
だが、再び怒りが彼を突き動かす。
「……ふざけるな! お前の心は空っぽなんだ!! 望み通り殺してやる!」
ナイフが振り上げられた瞬間、妻が身を挺して庇いに入る。
「やめて!」
高橋は凍りつくように動きを止めた。
『紗代子……』
目の前の妻に、かつて愛した人の影が重なる。その心の波を感じた。
妻の震え声が漏れる。
「……夫を、本当に愛してます。
例え彼に“心”がなくても、それでも彼を愛しています」
高い声が割って入る。
「パパ!!」
娘の叫びがリビングを突き刺した。
高橋の手が、わずかに震える。
「……彼"には"、心があります。
人を思う、立派な心が……」
カラン――ナイフが床に落ちた。
ぶるぶると震えたまま、高橋は崩れるように膝をつく。
「……俺も……
俺も、妻を……紗代子を、愛してた……
それだけだった……それだけだったのに……」
遠くで、警察が突入する音が響いた。
*
「読めましたか? そのナイフは犯人のものですので、貴方のサイコメトリーで事件の記録が読みとれるかと」
夜。私は本部で、上司の神宮に報告していた。
神宮は触れていたナイフを机に置いた。カランという音が執務室に響く。
「読みとれたよ。無事でよかった」
そう心配する彼の心を、私は読もうと試みた。
犯人が匿名Aの現在を突き止めれたのは、まさか……
けれど、そこには何もない。
透明なガラスでもない。
白い、本当の空っぽだった。
「読心能力者は貴重ですから、自分の重要性は弁えています。……ご安心を」
神宮は、ふっと眉を動かした。
「違う。確かに僕は読心術だけが使えないけど……能力で君を見てるわけじゃない」
"君"。彼の言葉に心がズキリと痛んだ。貴方は私の名前を呼ばない。
「君を、愛しているよ」
私は、目を伏せる。
(でもね、私、本当は知っているの。
貴方は私を愛してなんていないんでしょ?)
貴方は私ではなく、私を通して"誰か"を見ている。
貴方が執着していた"誰か"も、読心術者だったの?
そう聞きたかった。私にとっての"匿名A"について。しかし、口から出たのは――
「……私も、愛しています」
……それでも貴方を愛してる。
たとえ貴方に心がなくとも、私が誰かの代わりでも――
貴方が、隣にいてくれるなら。
私は微笑む彼を見た。
彼の空白は、私にも読めない。
『心があるから──家族ごっこは続くのね』
匿名A リョーシリキガク @ryoshirikigaku
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