自己実現のすゝめ 〜本当の自分〜
ちゃんこ
第1話
自己実現のすゝめ
1 個性と多様性
「個性」とは、すなわちアイデンティティのことである。他者と比較することのできない、その人固有の特異な部分だ。だが、近年「多様性」という言葉が広く社会に浸透し、「こういう人もいる」「ああいう人もいる」といった具合に、これまで注目されてこなかった少数派が認識され、新たな「領域」として括られるようになってきた。
その結果、社会には多くの「領域」が生まれた。しかし、それぞれの領域の内部においてすら、人々は決して同じではないはずである。それにもかかわらず、人は集団の中に身を置くことで安心を得ようとし、似た傾向を持つ者同士で領域を形成する。そして、他者との関係も「人」と「人」ではなく、「領域」と「領域」という構図のほうが色濃くなってきている。
このような社会では、むしろ「多様性」の名のもとに、人々は自らの「個性」を手放してしまってはいないだろうか。
2 SNS
この傾向は、SNS上において特に顕著である。SNSを眺めていると、たとえば著名人の不倫や、転売行為への加担といった、自分には直接関係のない出来事に対して過剰なまでの怒りや批判が巻き起こることがある。だが、私はそうした感情にどうにも共感することができない。
SNSという空間において、人は「個」としての自分を限りなく捨象し、「アカウント」として振る舞う。その「アカウント」同士が同調し合い、同じ対象に対して一斉に非難を浴びせる。まるでその批判行為自体が、アカウントの功績であり、自己肯定の材料であるかのように振る舞っているように見える。
そして、他者からの同調が得られれば得られるほど、自らの意見が正しいと確信し、安心を得るのではないか。私はそのような行動を自らは取らないため、あくまで想像の域を出ないが、そこには確かに「個の欠如」を感じるのである。
こうした性質がもともと人間の本質として存在していたものなのか、それともSNSという構造によって新たに助長され、あるいは形成されたのか、それは分からない。だが、少なくともこのような風潮が、誰かを静かに、しかし確かに傷つけていることは否定できない。
3 現実の「領域」
SNSの中に「領域」が存在するように、私たちが生きる現実の社会にもまた、それは確かに存在している。
ただし、現実の領域はSNSのように目に見えて区切られているわけではない。むしろそれは、「空気」として、「同調」として、あるいは「居心地の良さ」として、私たちのあいだに静かに広がっている。
たとえば、高卒か大卒か。理系か文系か。男か女か。
そうした区別は、しばしば人間の「個性」を捨象し、ひとつのラベルとして人を扱う際の拠り所となっている。しかもそれは、そうされても仕方がない場面に限らず、そうされるべきではないはずの場面においても、容赦なく行われている。
もちろん、法的な分類や制度設計、あるいは採用の現場など、一定の合理性が求められる場面では、ある程度の区分やカテゴライズは避けがたいのかもしれない。
しかし、私たちの日常的なコミュニケーション——つまり、もっと個人的で、もっと柔らかな関係性が許される場面においても、はたして相手を「一人の人」として見ているだろうか。そして、自分自身は「個人」として表現できているだろうか。
人に最初に貼られたラベルを剥がすことは、決して容易なことではない。それには勇気が要る。なぜなら、そのラベルのままに生きていれば、少なくとも拒絶されることは少ないからだ。
けれども同時に、それは自分で自分を「単純な物質」へと変えてしまう行為でもある。窒素と酸素と二酸化炭素をまとめて「空気」と呼ぶように、イギリスやドイツ、フランスを一括して「ヨーロッパ」と呼ぶように、私たちは最小単位としての「人間」であることを、みずから手放してしまっているのかもしれない。
4 自己実現のすすめ
では、私たちはどのようにして、自らを「個」として意識し、生きることができるのだろうか。
ここには、一つの大きな課題がある。
たとえば対面の場において、人は相手を何らかのラベルで捉えることで、むしろ距離を縮めることができる。初対面において、相手に貼り付けたラベルをもとに話題を展開することは、会話を円滑にし、相手という存在への理解を助ける面がある。
このように、ラベリングはときに人間関係において実用的であり、有効でさえあるのだ。
しかし、自らを「個」として誠実に表現しようとするならば、一度身に馴染んだラベルを、あえて手放す覚悟が必要となる。
ラベルを剥がすこと——それは、思いのほか骨の折れる行為だ。剥がし始めるまでにも時間がかかり、その過程においても、私たちは多くの葛藤と向き合うことになる。
そのあいだ、私たちは心の奥底で叫び続ける。「自分には、あなたの知らないこんな一面があるのだ」と。
ラベルという仮面をつけたまま、相手と関わることに耐えながらも、本当はその覆いを取り払った自分で、相手と向き合いたいと願っている。真に望まれる友情や、愛情や、人間的なつながりとは、こうした葛藤の先にしか現れないものなのかもしれない。
社会的動物である私たちが、「個人」という孤独な存在として社会に踏み出して生きていくためには、この孤独を真に手放すことのできる人間関係を築かなければならない。
その意味で、私たちは、自分が身にまとっていた「捨象された自分」という衣を脱ぎ捨て、本当の自分自身を「個」として認め合える関係の中にこそ、幸福の出発点を見出すべきなのかもしれない。
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