到達不能時間

大堂林

到達不能時間

夜の離島は、風のさえも全力に静かだった。

波も静かだった。島民も静かだった。死体が生まれたこと以外は。


人口500。

うち、300は漁師、100が年金暮らし、50がギリギリ労働者、残り50が謎。

そこに、殺人事件が落ちた。


死体は坂本晋太郎さかもとしんたろう(年齢41)、顔の知られた地元の漁師だった。

死因は胸を鋭利な刃物で一突き。

不自然なまでに深く刺さった傷跡が残る。もちろん即死。


午後10時──それが様々な見地から弾き出された確固とした死亡推定時刻。

漁師としては遅めの晩ごはんが間に合わなかったとの見立て。


捜査線上に浮かび上がったのは、システムエンジニアの黒野純一くろのじゅんいち(年齢26)。

島の端にある古びた平屋に、黙々と引きこもって仕事をしている男だった。

黒野の姉は被害者とトラブルを抱えていたという噂もあり、動機も十分。

だが警察が訪れたとき、黒野は落ち着いて答えた。


「その時間は無理です。午後8時から9時までリモート会議でした。

 ちゃんと録画もある。会議の内容は上司が証言してくれると思います」


――録画は確かにあった。黒野はちゃんと自宅にいた。

目は死んでいたがウンウン頷いてもいた。

そして夜間に及んだ会議にも関わらず、結論は出ていなかった

(上司の机の背景には『我慢』と書かれた色紙が貼られていた)

 

しかし黒野は “パソコンハカセ” のシステムエンジニア。

警察としては会議の録画のみでアリバイとするには、いかにも弱い。


問題は距離と時間だった。


僻地へきちの離島の、そのまた僻地へきちに引きこもっている黒野の家と

犯行現場である坂本の家は、まさに島の対極。片道およそ21kmも距離があった。


通じているのは唯一、自動車も自転車も通行できない細い悪路のみ。

黒野が坂本を殺害するには、山道を抜け、そのまた山道を抜け、崖沿いを抜け、

罠に掛かるタヌキを抜け、また山道を抜け。

果てしない道のりを足のみで踏破する必要がある。

 

――21km。それはハーフマラソンのコースとほぼ同等の距離。

所要タイムは日本記録で約60分。世界記録で約57分。

現場の痕跡と犯行の精度から見えてくるタイムは確実にそれを上回っていた。


午後9時に会議を終えた黒野が現場に向かったとして、

午後10時に坂本を殺害するには──オリンピック選手以上の走力が必要になる。 


誰もが口をそろえた。

「無理だ」と。「これは疑いようもない、完璧なアリバイだ」と。


だが、東京から派遣された刑事、中原小夜人なかはらさよと(年齢29)、は全く違う見解を示した。



その日の夜、中原は黒野の家を訪れた。

古すぎる家屋の中は雑然とし、貧乏がにじみ出ている。

テーブルをはさんで、2人は静かに麦茶を飲む。

氷がひとつカランと音を立て、中原が切り出す。

 

「坂本さんの件でお伺いしたい」


「・・・・・・その話なら、もうしました。

 午後8時から9時までリモート会議でした。

 自宅から参加しました。証拠も、録画もある。

 上司もいます。いろんな意味で怖い人です」


そうだ。完璧に録画されている。画質も音声も、反論の余地がない。

中原は頷いた。だが、その目だけが、どこかをはかるように黒野を見上げた。


「君、マラソンをやっていただろう?」


「……何のことです?」


黒野は一瞬、ごまかそうとする態度を見せたが、中原は言葉を続ける。


「僕も昔、長距離をやっていたんだ。一度だけ、君の姿を見たことがある」

 

黒野はしぼむように声を小さくし、そうですかとつぶやく。


「福岡での全国大会で見た。他人の脚に見蕩みとれたのは生まれて初めての体験だった」


「・・・・・・昔の話です」


黒野は苦り切った微笑みを浮かべ、そして

 ――左の靴下を少しズラし、手術痕を見せる。


「足首を痛めました。無理に走ろうとするとピリピリ痛んで、

 走りどころじゃない。いまは完全に引退しています」


そうか。それは残念だ、と少し遠い目をしつつ、中原は続ける。


「だが筋肉は落ちていないように見える。腕と脚、使い慣れた動き方をしている。

 少なくとも、走る力はまだ身体に残っている」


――沈黙。


中原は視線を鋭くした。ゴミ箱の中に

まだ内容量の残った高級プロテインが捨てられている事に気がついている。

貧乏暮らしに似合わぬそれを、飲みきる前に捨ててしまう理由は、

“不要になったから”に他ならないだろう。


「21km、40分台。君なら、どう思う?」


それには、黒野がおごそかに答える。


「もし、そんなことができるがいたとしたら、

 きっと世界記録でも狙うでしょうね」


中原はその声の響きで全てが理解できてしまった気がした。


「・・・・・・その通り。殺人なんて、割に合わない」


数秒の沈黙の後、そうだ、と黒野は席を立ち、戸棚とだなを漁りはじめる。


中原はその背中を静かに見つめていた。

――素晴らしい肉体だ。言葉を交わさずとも、確信が形を成していく瞬間だった。


現場検証で見つかったのは、不自然なまでに深く刺さった傷跡。


これが、異常なほどの力で刺された証拠だとすれば

──――殺したのは、明らかに興奮状態にあった人間だ。常人を超えて。


中原は静かに告げる。


「今回の件、証拠があるとすれば、

 それは犯人の身体からだにあると考えている」


トン。

と黒野がウイスキーの瓶をテーブルに置く。グラスは中原の分のみが差し出される。


「・・・・・・どうぞ。良いウイスキーを貰ったんですがね、


そして、爽やかにんだ細マッチョは全てを悟ったような声で言葉を絞り出す。



「検査に応じますよ。いや、ファンと筋肉には嘘はつけない」




***




数日後、報告書が届いた。中原はデスクの前で、それを開いた。



血中ヘモグロビン濃度:基準値の1.8倍。

赤血球容積:正常上限を大幅に超過。

エリスロポエチンの検出。

コカイン:陽性反応。



黒野は大学時代、陸上部の長距離ランナーとして

全国大会にも出場した経験を持っていた。


完璧な脚力を持ち、その走りは天才のそれ。

将来はオリンピックのメダル確実と言われた逸材だった。



 

報告書をめくる指の感覚が妙に重い。



――ドーピング。



報告書から読み取れる物は、

静かな目。淡々とした口調。

だがその裏には、うねり狂う副作用が渦巻いていた。



――あの日、誰にも見られることなく


世界の誰よりも速く走った男がいた。


黒野は、21kmを走った。


たった一人で。殺人の為に。


午後9時。無意味な会議を終え、彼は注射を打った。


一本、二本、三本。それ以上。


血液に酸素があふれ、傷の痛みが消え、ただ“走る”だけの身体からだが完成する。


山道、山道、崖、タヌキ、そしてまた山道。


悪路を、風より速く。


ハーフマラソンの世界記録は56分42秒。彼は、49分50秒で駆け抜けた。



それはたった一度きりの、破滅のための疾走だった――。




***




その夜、中原は静かに扉を叩いた。

それだけで古すぎる貧困家屋の蝶番ちょうつがいが破損した気がした。


部屋に入ると麦茶を片手に、黒野が無言で椅子に座っていた。

酒は控えている。薬物の過剰摂取でダメージを負った彼の内臓には、

少量のアルコールすら命取りとなるからだ。

 

細マッチョはかすかに笑った。その笑みに悲哀ひあいと決意が同居していた。


「姉が死んだのは3年前。アイツが追い詰めたからだ。

 ・・・・・・でも、証拠はなかった。だから誰も信じてくれなかった」


警官たちが黒野を取り囲むと、黒野はコトリ、と麦茶のグラスを置く。


「本当は・・・・・・僕自身も信じ切ってはいなかった」


その目を見て中原は己の陸上競技人生に思いをせていた。


河川敷で走る近所の女子中学生に追い抜かれ、

補欠のまま一度も試合に出ずに引退した彼が、

黒野の記録に並ぶ為にはどれほどの犠牲が必要なのだろうか。


黒野が中原に微笑ほほえみかける。


「もし21km50分を切れたら、それは人間のわざじゃない。成し得るとすれば  

 

 ――――――それは神の意志だ。だから、殺した」


到達不能と誰もが信じた時間。


それを駆け抜けたのは、たったひとつの執念だった。


そしてその執念こそが、“常識”を信じた人々の目を、最も深く欺いたのだった。





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