泡沫の忘れ物

@awawawa_ororo1001

泡沫の忘れ物


 蝉の音が、小鳥のさえずりに移ろい始めてから三十日経った。

 

 九月十五日午後一時。

 その男は、気だるげなため息を合図にベッドからゆっくり身を乗り出した。寝過ごしたソファの先には、昨日の晩酌ばんしゃくの残骸が机上で散弾銃の跡のように散らばっている。食器には米の残り粒と得体の知れないあぶらがこびりついている。まめに整理されたその部屋の隅には、彼が気づかぬほどのちりが首の皮一枚で息をしている。妻がこの部屋から去った日から、彼らの部屋は、まるで時間が止まったかのようにその姿を変えていなかった。

 朝食と昨日の後始末を済ませた後、男は平日に着ることのない灰色のパーカーとジーンズを手に取る。姿見に映された見慣れない男の全身は、鏡に写る虚像と現実世界の実像が異なることを明確に表しているようだった。「もう一人の自分」を横目に、男は数歩先の部屋のドアノブに手を伸ばした。

 財布、ペットボトル、車の鍵、妻の選んだ天然石ブレスレットとその他小物を鞄に放り込み、玄関に足を運ぶ。「行ってきます」を、誰もいなくなった部屋に置いて行く。


忘れ物は無いだろうか。


いらぬ心配であるかどうか、彼はわからなかった。



 海面が光を乱反射している。潮風が彼女の鼻腔びくうくすぶらせる。昔から誰かに誇れるほどの特技や誰かに褒められるような趣味はなかったが、自然に溶け込むことは好きだった。


 春は桜の雨に打たれ、夏は魚になる。

 秋は朽ちた葉を踏みつけて冬は白銀に沈む。

 

 そのなかでも、彼女は夏の海が気に入っていた。海が見える家を選んだのはこれが理由だった。

『また彼と泳ぎたいな。』

 別れてしまった以上、もう叶うことのないことだと、彼女はわかっていた。

 漏れ出した独り言は雑踏に揉み消され、彼女だけに聞こえていた。



 ローンの返しきれていない車のシートは、妻の香水の匂いを忘れていた。エンジンを吹かす音と、ブレーキがタイヤを引きずる音を交互に叫ばせながら、ハンドルで小慣れた道筋をなぞった。道中、妻の好きな花が置いてある花屋に遠回りするつもりだった彼は、道のりから左に外れて車を走らせた。とうに潰えた春の残香は、脳内に広がる水面に揺蕩たゆたっていた。



 男は、連絡一つなく彼女の元を訪れる。毎月十五日は必ず訪れ、他の日付でもたまにやってくる。大切な日には必ず会いにくる、そういう考えらしかった。確かに一月十五日は結婚記念日ではあった。だからといって毎月十五日が特別な日になるのは、無理にでも彼女に会う口実を作るためなのだろう。先月は来なかったが今日は来てくれるだろうか。不安が荒波となり彼女の心をよどませた。



 自動ドアが開く。排気ガスと花の匂いを隔てる硝子がらすの壁が道を開けた瞬間、穏やかな空気は男を包み、室内に広がる軟らかな花弁の匂いが全身を侵食する。仕事が少しずつ忙しくなり、足を運ぶことも少なくなってしまったが、この場所は懐かしい芳香で彼を出迎えた。男は思い出に刻まれた地図を頼りに、妻が一番好きな花を二本手にとった。レジに通したその花たちは、財布から取り出した小銭の何倍もの重さを感じさせた。これまで何度も金銭と植物を交換してきたが、男はなぜだかその二本が、これまでで一番重く感じた。これからまた慣れていくのだろうか。そんな不安が男の脳内をよぎったまま、男は車の鍵を挿した。


 何度訪れても、最初の一言は悩んでしまう。最初は何を喋ろうか。どんな話なら彼女は笑うだろうか。……怒っているだろうか。そんなことを考えながら、男はハンドルを握っていた。助手席には、男が買った花が、妻との出会いを心待ちにしている。大通りをまっすぐ進み続け、海が見え始めた頃を右に曲がれば、ラジオで流される音楽一曲も終わらないうちに妻の元に着く。男はカーナビに頼りながらアクセルを気持ち浅く踏み続けた。



 彼女は腰を下ろし、道ゆく人を横目に口ずさむ。普段特別やることのない彼女のすることといえば大概これであった。最近の曲はあまり聞かず、昔好きだった曲ばかり鼻で歌っていた。やることのないと言っても、彼女にとって、波の揺れる音と思い出さえあればいくらでも時間を溶かすことはできた。…さすがに烏滸おこがましく未練を引きずったところで何も意味をなさないなど、とうに彼女はわかっていた。その念が彼女の魂をこの世にへばり付かせていることも察していた。のしかかった重圧が肺を縮ませ、肩をすぼます。一歩前に踏み出せば体幹がすぐにブレてしまう。「あの人」の視線が首を絞め、息を止める。

 …「生き地獄」とは一体どこの誰が言い出したのだろうか、こんな場所では人間なんて簡単に壊れてしまう。彼は最期まで彼女の隣にいると誓ったが、それは絵空事として消えていった。無駄な不安も、過度な信頼も、無慈悲な悪意も、ある種の重力と化した「それら」は何事もなかったかのようだった。何もかもが軽く感じる今の彼女にとって、そのようなことはただの「過去の出来事」であった。だからこそ今は、心残りが表面上に浮き出てしまっていた。今日は多分彼がやってくる。膨らむ期待が肺を満たしながら、後悔が喉の奥から滲む。

 


 道中必ず思い出すのは、彼女との記憶よりも彼女と別れた日の義父との会話である。普段から関係が良いものとはお世辞にも言えなかったが、決して言い合いになることはなかった。しかしあの日、男は初めて他人に強い憎悪(ぞうお)を向けられた。

「「お前の判断は間違っていた」」、「「お前は俺たちから大切な娘を奪ったんだ」」、「「幸せにできなかったお前が全て悪い」」


「「             」」


 あまりに鋭すぎた言葉は今も男の心の奥に刃先を突き立てている。その剣幕は一つの夢として彼を現実に引き戻す。それほど鮮明に覚えていた。今でこそ話せるが、別れた後しばらくは妻の家に行くことは許されなかった。図太いなど無神経など散々な言いようをされた。何度も懇願して毎月十五日だけは顔を見せたいと頼み込んだ。彼は渋々了承し、その日だけは妻の新居に行かないこととした。男は彼の小さな慈悲に感謝し、それ以来毎月十五日は仕事以外の予定は入れないようにした。



 ラジオが止まる。

 同時刻、目的地に到着した。

近くの駐輪場に車を停め、運転席のドアを開ける。青空は呼吸を止め、木々はおとなしそうに立ちずさんでいる。陽は雲に隠れ、天からは無数の梯子はしごが乱雑におろされている。名残り葉の掠れと細波さざなみ、心臓の音だけが男の鼓膜を柔らかく揺らした。


 石でできた階段の隙間からは、名前すら知らない雑草が生い茂っている。階段を上り切り、海の見える方向にまっすぐ進むと、妻の家がある。ずぼらな性格だったからか、庭の手入れは行き届いていなかった。彼女の家は、雨や塩の風に晒され荒屋ようだった。男は、妻が家にいた時も自分が掃除をしていたことも思い出した。一体、どこで間違えたのだろうか。憂鬱が足にしがみついてきたが、それでも男は庭へと踏み入れた。

 その庭は小さな密林を成し、家に続く一本道だけは獣道のようだった。その一本道に先には妻が立って待っていた。あの日と同じでその美貌だけは廃れていなかった。


「……久しぶり。元気してた?」

『……遅すぎない?』

「…………ごめん。全然来れなくて。こっちもなかなか落ち着かなったんだ」

『……そっか』

「勿論、君が嫌いになったわけじゃないんだ。ただ……」

『ただ…?』

『でもたしかに、無理はないかもね』

「……いや、なんでもない。気にしないでほしい。そんなことより、話したいことがたくさんあるんだ」

「全然こっちに来なかった分、色々あったんだ。この一年間。」

『そうなのね。あなたの話、聞かせてほしいわ』


 水光でかすむ彼女の顔を見つめながら、男は積もる話を始めた。




 太陽が西に六度傾く。






 太陽が西にさらに六度傾く。







 太陽が西にさらに六度傾く。








 着信が男のポケットから鳴り響く。久々の再会も束の間、男は妻の元を離れる時間になっていたことに気づいた。

「そろそろ行かないと。お義父様方が待っているからね。久々に喋れてよかったよ」

『私もあなたの話が聞けてよかった。先に聞いとくけど、次はいつ来るの?』


 返ってくる言葉はきっといつもと同じだと彼女は察していた。


「じゃあね。また来るよ」


『……またね。』


 

 いつも通りの返事の奥底に見えた彼の「終わり」を、彼女は癒すことはできなかった。

 



 終始合わせていた手を離し、男は両目を開けた。太陽は隠れていたにもかかわらず、男は自身が光の中で膝をついているように感じた。体感三時間も実際は十五分程度だっただろう。彼女が愛したニゲラを花立はなたてに添え、男は石の家から身を引いた。妻の哀しそうな声は波をなすことはなかった。

 

 この一年、男は海に行けなかった。


 妻が泡沫うたかたに溶けたあの場所から目を背け続けたかった。何故、自分だけ溶けなかったのか。いや、寸前で拒んだのは自分自身であることを理解していたつもりだった。だから真実を受け止めず、別世界に逃げ込むことを決めた。しかし異界に身を委ねるにも、もう限界だと男は薄々感じていた。だからこそ男は、ついに覚悟を決めたのだった。


「「なぜお前だけ生き残ったんだ」」


 事が済んだ後、最期に「反芻する言葉の答えわすれもの」を取りに行こうと考えた。

 彼女の眠るその場所に立てた線香の煙は、入道雲になって、あの海で男を静かに待っていた。

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