エルムの囁き

乱世の異端児

短編小説

 古の森「エルム」は、世界の始まりから存在すると言われ、その深奥には未だ解き明かされぬ謎が眠っていた。木々は天を衝き、苔むした岩には精霊の気配が宿る。しかし、人の足が踏み入れることは稀で、そこは忘れ去られた物語の舞台となっていた。

 リュカは、森の外れにある小さな村で暮らす薬師見習いの少年だった。彼の唯一の友は、幼い頃から常にリュカの傍らにいた、一匹の白い仔狼、シロだった。シロは普通の狼とは違い、澄んだ琥珀色の瞳を持ち、時折、人間の言葉を理解しているかのような仕草を見せた。

 ある日、村に謎の病が蔓延した。人々は高熱にうなされ、肌には奇妙な紋様が浮かび上がった。リュカの師である老薬師は、この病がエルムの奥深くに咲くという「月光花」でしか治せないことを知っていた。しかし、月光花は滅多に姿を現さない幻の薬草であり、何よりもエルムの森は、魔物が徘徊し、迷い込んだ者を二度と帰さないと伝えられる危険な場所だった。

 村人たちの苦しむ姿を見るに忍びず、リュカは決意した。

「シロ、僕が行くよ。月光花を見つけるんだ」

 シロは低く唸り、リュカの足元に擦り寄った。その瞳は、覚悟を決めたリュカの心を映すように、静かに輝いていた。

 エルムの森は、村の者たちが語る以上に不気味な場所だった。一歩足を踏み入れれば、木々の枝は絡み合い、日の光さえ届かない。古木の根は地面を這い、まるで巨大な蛇のようにリュカたちの行く手を阻む。

 道なき道を進むリュカを導いたのは、他ならぬシロだった。シロは鋭い嗅覚で道を見つけ、危険な場所ではリュカの服の裾を咥えて引き止めた。夜になり、リュカが不安に苛まれていると、シロは彼の隣に寄り添い、その温かい体温がリュカの心を慰めた。

 旅の三日目、リュカたちは深い霧に包まれた渓谷に辿り着いた。そこには、見る者を惑わすかのような不気味な光が漂い、魔物のうめき声がこだましていた。リュカは立ちすくんだ。その時、シロがリュカの前に進み出た。

 シロの体が、淡い光に包まれ始めた。琥珀色の瞳はさらに輝きを増し、その白い毛並みは月の光を吸い込んだように発光する。そして、信じられないことに、シロの口から、人の言葉が紡ぎ出された。

「恐れるな、リュカ。我は汝を守る者。進むべき道は、我が見つけよう」

 リュカは驚愕に目を見開いた。シロが、話した? しかし、その声は深く、どこか懐かしい響きを持っていた。

「シロ…君は…」

「我は、この森の古き精霊の一端。古き誓いにより、汝の守護者として顕現した」

 シロはそう言うと、再び狼の姿に戻った。しかし、その白い毛並みは以前よりも輝きを増し、その佇まいには威厳が宿っていた。シロが先導し、リュカは後に続いた。霧は晴れ、魔物の声は遠ざかる。シロの導きにより、リュカは渓谷の奥深く、月の光が降り注ぐ神秘的な泉に辿り着いた。

 泉の畔には、まさしく幻の月光花が咲き誇っていた。瑠璃色の花びらは月の光を反射し、仄かな光を放っている。リュカは慎重に花を摘み取った。これで村の人々を救える。安堵と喜びがリュカの胸を満たした。

 帰り道も、シロはリュカを導いた。しかし、森を出る頃には、シロの体の輝きは失われ、再び普通の仔狼の姿に戻っていた。そして、森の出口に差し掛かった時、シロはリュカの足元に座り込み、リュカの顔を見上げた。その瞳には、別れを告げるかのような寂しさが宿っていた。

「シロ…?」

 リュカが声をかけると、シロは静かに首を振った。

「我は、森の精霊。人の世に長く留まることは叶わぬ。だが、汝との絆は、永遠に我の記憶に刻まれよう」

 シロの体が、淡い光の粒となって、ゆっくりと空に昇っていく。リュカは伸ばした手を掴むことができなかった。光の粒は夜空に溶け込み、やがて、小さな一つの星となった。

 村に戻ったリュカは、すぐに月光花を煎じて人々に飲ませた。すると、病はみるみるうちに癒え、村に活気が戻った。リュカは村の英雄となり、真の薬師として認められた。

 しかし、リュカの心には、いつも一抹の寂しさが残っていた。夜空を見上げれば、あの小さな星が輝いている。それは、リュカとシロが交わした、古くて新しい絆の証だった。

 リュカは知っている。エルムの森が囁く物語は、決して終わることはない。そして、彼が本当に困った時には、あの空の星が、再び彼を導いてくれると信じていた。なぜなら、彼らは忘れ去られた森と、忘れられかけた絆によって、永遠に結ばれていたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エルムの囁き 乱世の異端児 @itanji3150

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ