プロポーズみたいな
真花
プロポーズみたいな
男が煩わしそうに身じろぎをした。汗の匂いが俺の鼻腔に突撃隊のように直接入って来る。俺は顔を顰めるが身動きが取れない。男と俺は密着しているし俺の左右も後ろも人で詰まっている。誰も声音一つ立てない。無言の苛立ちが空間を淀ませて、殺されている息は全てため息だ。
規則的な揺れはまるで人の密度を整える振動を巨大な手によって与えられているようだ。男の背中にくっついたままの俺の胸がわずかに右にズレて行く。それは意識をしなければ分からない程度の動きだったが、男が身じろいだ理由はこれだろう。俺達は次々に整然とされていく。息が苦しい。
満員電車で通勤するのは馬鹿のすることだと思っていた。どうしてわざわざそうなることが分かる場所に居を構えるのだ? 毎日苦痛を得て何になると言うのだ。だが、結婚をして妻の勤務先や、それぞれの実家の場所などの兼ね合いで選択した結果、ぎゅうぎゅうの毎朝を遂行している。自分さえ我慢すれば丸く収まると言う考えこそが馬鹿のすることなのかも知れない。朝が来る度に後悔して、疲弊して、やっぱりこの通勤は馬鹿だと胸の中で呟きながら、潰されそうになる。ずっとそうやって会社に行っていた。
だから今日も電車に乗る。
あと二駅で会社の最寄り駅だ。ドアが開いた。俺は男に匂いの恨みを擦り付けるようにして車外に出る流動体の一部になる。ドアから吐き出されても密度はあまり変わらない。一つの生き物のように階段に向かい、改札を出たところでやっと単体の生物に戻る。散り散りになる同志達はきっとそれぞれの会社に吸い込まれて行く。
俺は、公園に向かう。俺だけが公園に向かう。
*
一週間前、朝一番で部長に呼ばれた。
「
直立したまま俺は息を呑んだ。クーラーでよく冷えた空気が胸を満たした。
「どうしてですか? 何か問題がありましたか?」
「君に落ち度はない。会社自体の経営の問題だ。本来なら社員を最も大切にしなくてはいけないのだが、各部署から一人ずつ人員削減をしなくてはならないと決まった。私としても断腸の思いだが、君を選ばせて貰った。慌ただしいが引き継ぎをしてくれ。しっかりと」
「ですが」
「もう決まったことだ。覆ることはない」
会社の経営状況が危機的であることは知っていた。部長が非人道的なことをしない人だと言うことも理解していた。言葉通り苦しんで決めたのだろう。……他の誰かではなくて俺が犠牲になれば丸く収まるのだ。俺は、分かりました、と言って席に戻り、すぐに引き継ぎの資料作りに取り掛かった。
それから週の終わりまでに資料を完成させた。俺の他にも解雇になった人が十二人いた。最終日を終えて会社を出る。十歩進んで振り返った。新卒からずっと通ったここにももう来ることはない。社屋があまりにもいつも通りで俺がいてもいなくても同じみたいで、最後に俺を刻み付けるように睨んで、プイ、と顔を背けた。門を潜れば俺はもう会社とは関係がない。仕事がなくなることで肩の荷が降りるかと思ったが、仕事がなくなることそのものの方が胸に重くのしかかった。駅に向かう人の流れはまた週が明ければここに戻って来る約束のある者で出来ていて、その中で俺だけが一方通行を歩いている。
時間帯が遅いのもあって帰りの電車は空いていた。定期券がまだ半月残っている。解約してもいいが電車を使うかも知れないからまたでいいや。斜め前のカップルの声が耳に侵入して来る。
「ハルヒコ、仕事辞めたらしいよ」
「マジで。プーじゃん」
「私、プーはやだなぁ。エイ君はプーにならないでね」
「ならないよ。胸張って歩けないじゃん」
「そうだよね」
「プーで胸張れるのはクマくらいでしょ」
「ウケる」
カップルは笑って、俺は急に堂々としてはいけないような気がして腹痛のように身を少し屈める。カップルは次の話題に移ったがそれは俺の耳には入って来なかった。電車が停車した。俺は逃げるようにホームに出て、ベンチに座った。顔を両手で覆う。
「どうすればいいんだ」
胸の中が針金をぐちゃぐちゃにしたみたいになっている。俺は無職になって、次のことは何も決まっていなくて、だから胸を張ってはいけない。そんなことはないはずなのに、それが真実だと俺が決めてしまった。クマにはなれない。そもそもこれはおとぎ話ではない。だが、こんなところで下を向いていても何も解決はしない。帰ろう。月乃に話せば何かが進むはずだ。
次に来た電車に乗って俯いたまま自宅の最寄り駅まで乗った。
駅からの道が泥で出来ていてしかも逆流しているかのように足が重かった。それでも家には着いて、玄関から中に入る。
「ただいま」
「おかえりなさい」
月乃は居間から声を出していた。居間に入るとソファの上でスマホをいじっていた。俺の顔を一瞥すると芽吹くように笑った。
「カレーあるよ」
「サンキュー」
俺は着替えてカレーを食べる。月乃がテーブルに来た。
「今日も遅くまでお疲れ様」
「うん。……カレー美味しいね」
「特製だからね」
さあ、言おう。いや、もうひと口食べてから。……今度こそ言おう。いや、まだ。月乃が、あのね、と始める。
「良平の期末テストがね、すっごい良かったのよ。なんと学年三番よ。三番。
俺は明日がどうなるかも分からないが。
「バスケ部の方もレギュラー取れそうみたいよ。すごい努力家よね、我が子ながら感心するわ。文武両道なんて憧れものよね」
俺は補欠どころか戦力外通告だが。
「ねえ、どうしたの? 何かリアクション薄くない?」
「そうかな」
「何かあったの?」
月乃は俺の腹の底まで見通しそうな目で覗いて来る。だが俺が言葉にしなければ底にあるものが何かは決して伝わらない。違和感だけは伝わるだろう。さあ、言え。
「何もないよ。ちょっと疲れているのかな」
「そうかもね」
俺の中に悶々とするものが渦巻く。それを顔に出さないようにグッと腹に力を入れる。腹筋を締めた状態でもカレーはするすると胃袋に入って行く。食べ終えて皿を下げる。
「私、お風呂入っちゃうね」
「はーい」
取り残された居間でソファに寝転がる。まさか自分を良平と比較する日が来るとは。しかも俺の方が劣っていると思うなんて。敗北感も嫉妬もない。淡々と負けたと思う。だが俺は本当に良平に負けたのだろうか。俺は社会からいったん弾かれる。今日までは参画していた。良平は社会に出た訳ではない。そもそもの土俵が違う。だから本当の意味では俺と良平は勝負をしていない。それでも負けたと思うのは、きっと良平にではなく社会で働く全ての人に対しての感覚なのだろう。その尖兵は月乃だ。月乃は働いているし、これからも働く。だから言えなかったのだ。俺が負けたのは月乃にだ。言えばそれはそのまま敗北宣言になる。最後に残ったプライドがそうさせたのかも知れない。
土曜日も日曜日も言えなかった。俺はまるでこれまでと同じ土日を過ごすように過ごした。憂鬱な月曜日を待ち構えて息を漏らすところまで同じだった。憂鬱の理由は違ったが見た目は同じだったはずだ。
週が明けて俺は今まで通りの時間にスーツを着て家を出た。本来乗る必要のない満員電車に乗って不快を溜めて、会社の二駅前で降りてそこにある大きな公園に向かった――
公園は月曜日の朝だと言うのに人が掬えるくらいにはいて、空いているベンチを探すためにうろうろしなくてはならなかった。堂々とするか俯き加減にするか迷って、通勤中と同じだけ胸を張った。張るべきものがないからこそ張った。ベンチを見付けて座って空を見た。月曜日の空を見たのはいつぶりだろう。晴れていて雲がいくつか浮かんでいた。ネコとネズミに似た雲だった。ネコがネズミを追いかけてゆっくりと左から右に流れて行くがネズミには到達しないまま見えなくなった。
就職活動をすべきだ。それは分かり切っている。なのにここにいる。
空ばかり見ていたら思考が溶けて消えて、俺も空の一部になったみたいだった。
ボールが転がって来た。それを足で止める。幼稚園児くらいの男の子が拙く走って来てボールを持つ。俺の顔をじっと見る。
「おじさん、仕事は?」
俺の顔が張り付く。
「今、仕事しているんだよ」
「そうなんだ」
男の子は興味を失ったみたいに体の向きを反転させて走って行く。転べ。念じても転ばなかった。念じた自分が恥ずかしい。だがそれくらいには腹を立ててもいいだろう。次第に空が雨の予感をさせる鈍色になったので昼食に牛丼を食べてから駅前のカラオケに入った。三曲歌ってそれからは座っていた。別に歌いたくはなかった。今の俺の状態を表現してくれる曲を知らなかったし、知っていたとしても歌うだけ惨めになる。かと言って恋の歌とか夢の歌とかは今の俺には過激過ぎる。シートに横になってみたら、チカチカする中でもうとうとすることが出来た。
終業時間から一時間足したタイミングでカラオケを出て家に帰った。
「おかえりなさい」
月乃は何の疑いもない眼差しで俺を見る。普通で平熱な平日の夜の顔だ。今日の夕食は生姜焼きだ。
「今日も忙しかった?」
「それなりに」
テーブルを挟んでするやり取りはそれで終わった。俺達は仕事の話をしないし、話がなければ黙っている。スマホもいじらない。ただ、テレビはつける。テレビのノイズは沈黙の免罪符のようで、ときに面白いこともある。番組の内容について話すこともある。だが今日は二人とも黙々としていた。俺は生姜焼きを食べ切った。それを合図に月乃はテーブルを離れた。俺はずっと言おうとしていた。生姜焼きのひと口ひと口の合間に今の自分のことを言葉にしようとした。言葉は舌にも乗らず胸の中でぐるぐると巻くだけだった。気が付いたら皿は空になっていて、月乃もいなくなっていた。明日こそ言おう。風呂に入っていつもと違う種類の疲労が、透明な板のような疲労が体に走っていてそれはお湯では流れなかった。寝てみても残った。板の疲労を体に刺したまま次の日も満員電車に乗って二駅前で降りて公園の別のベンチに座って空を見た。雨の気配はなかったが昼食を食べに牛丼屋に行った後はカラオケに入った。一曲も歌わずにうとうとしたり座ったりしながら時間を待った。同じ夜が来て、三日目も四日目も繰り返しの一日を過ごした。
五日目、ベンチで座っていたらいつかの男の子がまたボールを転がして拾いに来た。
「仕事、がんばって」
俺の顔は再び張り付いて、鉛を捻じ曲げるみたいに笑顔を作る。
「ありがとう」
男の子はタッタと走り去る。呪いの言葉を念じるより早く、これじゃいけない、と胸に浮かんだ。俺は何をしているんだ。変な疲労と胸のもやもやばかりを溜めて、無為に日々を消費している。両手で顔を覆う。このままでは本当に俺がダメになる。無職の俺よりもずっと逃げている俺の方がみっともない。言おう。今夜こそ言おう。それで月乃に怒られようとも、良平に嗤われようとも今を認めないことには未来は来ない。……月乃はどう出るだろうか。いきなり離婚とか。俺は寒空に放り出される。熱帯夜だけど。黙っていたことに激怒する。引っ叩かれる。泣かれる。そんな癇癪女ではないはずだが。軽蔑される。俺はだって今は社会から脱落しているのだから。半人前以下まで堕ちている。それを痛烈に指摘されてまるで虐められる。
「それはつらい」
そんな女ではないと信じたい。それにもしそんな女だったとしても言わなくてはならない。もう決めた。どんな未来が待っていようとも言う。俺は立ち上がり駅に向かった。まだ昼には早かったが牛丼を食べて家に向かう電車に乗った。真っ昼間の車両は空いていて座ることが出来た。座席からは反対側の窓の外の空が見える。青くよく晴れていて少しだけ俺の胸の中のもやもやを吸い取ってくれた。そのせいなのか急に曇って灰色になった。
家に帰ると誰もいなかった。もしかしたら月乃がいて、間男と睦み合っていたりしたらどうしようとか頭にフラッシュバックのように思った自分が情けなくなった。風呂を溜めて入る。透明な板の疲労はさっぱり抜けない。もやもやも腹の底に二酸化炭素よりも重いガスのように溜まっている。これはみそぎだ。冷水を浴びてから湯船に浸かった。冷えた体が温まるのは開くような感覚だった。だが胸や腹にあるものは一切開かない。風呂から上がり体をよく乾かしてから部屋着になる。ここのところ毎日していたようにボーッとはせずに月乃にどう言うのかをずっとシミュレートし続けた。それはまるでプロポーズをする準備をしたときと同じだった。
「ただいま」
帰って来た月乃を玄関に迎えに行く。
「おかえり」
「あれ、今日は早いのね。珍しい」
「あのさ」
「何?」
「えっと、その……あのね」
月乃が笑う。
「何よ」
言うんだ。俺は全身に力を入れる。搾り出すように言葉が舌に乗った。
「話があるんだ」
「なぁに? プロポーズみたいな顔して」
「ここじゃ何だから、テーブルに行こう」
「いいわよ」
俺が先導するようにテーブルに就く。月乃は荷物を置いてから座る。
「じゃあ、言うよ?」
「うん」
俺はさらに体に力を入れて言葉が口以外に逃げ場がないようにする。月乃はいつも通りに肩に力の入らない顔をしている。
「先週、クビになった」
「そう」
月乃は全く動揺しない。カレーが美味しいと言われた方が動きがある。
「もしかして、気付いてた?」
「そうね。薄々。だって様子が明らかにおかしかったもの」
「え、家じゃ普通のフリをしてたんだけど」
「騙せる訳ないじゃない。何年夫婦やってると思ってるの?」
俺は黙るしかなかった。月乃の顔も見ていることが出来ず、視線が下がる。月乃がやわらかく微笑む気配がした。
「クビはクビで仕方がないじゃない。しばらく休むか、すぐに就活するか、その二択でしょ? 蓄えもあるし私も働いているし、数ヶ月くらいだったらビクともしないわよ」
「働いていない俺って、人間じゃない気がするんだ」
「極端ね。働いていなくても愛していることには変わりはないし、健ちゃんが健ちゃんだから大事な訳で、そんな風に思い詰めなくてもいいと思うよ」
「でも」
「だったら、すぐに就活で決まりね。人間になればいいじゃない」
俺は月乃の顔を見る。気配の通りに微笑んでいた。
「そうだね。ありがとう」
「良平にも言うでしょ?」
「うん。後で話す」
「でも、人間じゃないって、それはどうしてなの?」
「だって、自分の足で立ってないじゃない。……人間じゃないってのは言い過ぎかも知れない。一人前じゃない、くらいかな、適正なのは」
「何でも背負いこむのは悪い癖よ。一人で立てないときは人を、私を頼ればいいのよ」
「……そっか。ありがとう」
俺の体から魔物が飛び出したみたいに力が抜けた。同時に透明だった疲労に黒い色が付いて体中が重くなった。だが胸の中は凪いでいた。針金ももやもやもそこにはなくて、凪は腹の底まで通じていた。
「じゃあ、私着替えるね」
「了解」
「今夜はお寿司取ろうか」
「祝うことじゃないと思うけど」
「新たな門出には違いないでしょ? 決まり」
言い置いて月乃は二階に上がって行った。俺は椅子から立ち上がってソファに転がった。保留にしていた未来が一気に覆い被さったみたいだ。重くて、しんどくて、でも、確かに存在する実感がある。まるで手で触れているかのように。
(了)
プロポーズみたいな 真花 @kawapsyc
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