第十五話(最終話):木漏れ日の下で


季節は二度巡り、永いようで短かった高校生活の終わりを告げる三月になった。



刺すような冬の北風はいつしかその姿を消し、校庭の隅にある梅の木が、その控えめな香りを、まだ冷たさの残る風に乗せて運んでくる。



卒業式の朝、空は磨き上げられた瑠璃のように、どこまでも高く、そして、淡く澄み渡っていた。




厳粛な静寂に包まれた体育館に、校長の、抑揚のない祝辞が響いている。



硬いパイプ椅子の感触。壇上で卒業証書を受け取るクラスメイトたちの、緊張と誇りが入り混じった横顔。



垣原瞬は、そのすべてを、まるで一枚の古いフィルムを眺めるかのように、どこか現実感のない心地で受け止めていた。



三年間、当たり前のように過ごしたこの場所。床のワックスと、古い木の匂いが混じった、体育館特有の匂い。



高い窓から差し込む、柔らかく、しかし、決して温かいとは言えない、三月の光。



そのすべてが、今日この瞬間、二度と戻らない、かけがえのない記憶の断片として、彼の心に刻まれていく。



隣に座る前原美影の横顔を、そっと盗み見る。



彼女は、まっすぐに壇上を見つめていた。



その凛とした横顔は、二人が出会った初夏の、あの頃よりも、ずっと大人びて、そして、深い優しさを湛えているように見えた。



瞬は、彼女と出会ってから始まった、この、嵐のような、そして、奇跡のような一年間に、静かに思いを馳せていた。




式が終わり、重い扉が開け放たれると、卒業生たちは、堰を切ったように、校庭へと溢れ出した。




途端に、世界は、祝祭の喧騒と、解放感と、そして、一抹の寂しさに満たされた。




「写真、撮ろうぜ!」




「卒業しても、絶対、会おうな!」




あちこちで、カメラのフラッシュが焚かれ、泣き笑いの輪が、いくつも、生まれては、消えていく。




「よお、瞬。卒業、おめでとう」



いつの間にか隣に来ていた大輝が、瞬の肩を強く叩いた。



その顔は、いつものように、からかうような笑みを浮かべているが、その目には、ほんの少しだけ、寂しさの色が滲んでいる。




「お前もな」



「美影ちゃんも、おめでと!瞬のこと、これからも、よろしく頼むわ」



「もう、大輝くんたら」




結衣に腕を絡まれ、美影が嬉しそうに笑っている。




四人は、校庭の隅で、しばらく、尽きない名残惜しさを分かち合うように、他愛のない言葉を交わした。




これからのこと、今までのこと。



そのすべてが、春の淡い光の中で、キラキラと輝いて見えた。




その時、ふと、瞬の視線の先に、人影が映った。




早乙女里奈だった。




彼女は、友人たちに囲まれ、晴れやかな顔で、笑っていた。



長く伸ばしていた髪は、肩までのところで切りそろえられ、風に、軽やかに、揺れている。




その姿は、まるで、重い鎧を脱ぎ捨てたかのように、すっきりとして、そして、強くなったように見えた。




不意に、彼女と、視線が交差した。




里奈は、一瞬だけ、驚いたような顔をしたが、すぐに、ふわり、と、柔らかく、微笑んだ。




そこには、もう、かつてのような、棘も、痛みも、何一つ、残っていなかった。




ただ、同じ時間を生きた者への、静かな、敬意だけがあった。




そして、小さく、本当に、小さく、こくり、と頷いた。




瞬もまた、静かに、頷き返す。




言葉は、なかった。




だが、それで、十分だった。二人の間で、こじれにこじれて、固く結ばれてしまっていた最後の糸が、音もなく、するりと、解けていくのを、瞬は、確かに、感じていた。過去は、完全に、許され、そして、未来へと、手放されたのだ。




やがて、友人たちの輪も、それぞれの未来へと、少しずつ、散っていく。




校庭には、瞬と美影、二人だけが、取り残された。




「……行こっか」




美影の、その一言で、二人は、どちらからともなく、駅とは反対の方向へ、ゆっくりと、歩き始めた。




誰もいない、放課後の校舎。




まるで、三年間、お世話になった、この、古びた学び舎に、最後のお別れを言いにいくかのように。




がらんとした昇降口を抜け、人気のない廊下を進む。




磨き上げられたリノリウムの床が、午後の淡い光を、水面のように、静かに、反射していた。




コツ、コツ、という、二人の足音だけが、やけに、大きく、響く。




三階の、自分たちの教室を、そっと、覗き込む。




机も、椅子も、すべてが運び出され、そこには、ただ、がらんとした空間だけが、広がっていた。




黒板も、綺麗に消されている。




だが、瞬には、見えるようだった。




大輝と、くだらない話で笑い合ったこと。




窓際の席で、退屈な授業を、やり過ごしたこと。





そして、この場所で、美影と、初めて、本当の意味で、心を通わせたこと。




二人は、自然と、屋上へと続く、階段を上っていた。




ひやりとした、鉄の手すりの感触。




自分の足音が、コンクリートの壁に、虚しく、反響する。




重い、鉄の扉を開ける。





ぶわり、と、三月の、まだ、冷たさの残る風が、頬を撫でた。




空は、どこまでも、青い。




眼下には、見慣れた街並みが、まるで、箱庭のように、静かに、広がっている。




二人は、フェンス際に、並んで立った。




あの、告白の日と、全く、同じ場所に。




「……なんか、全部、夢みたいだな」




瞬が、ぽつり、と、呟いた。




美影と出会ってからの一年間。




それは、あまりにも、濃密で、そして、彼の人生を、根底から、変えてしまうほどの、出来事に満ちていた。




その、すべてが、本当に、この世界で、起こったことなのだろうか。




隣で、美影が、ふふ、と、小さく、笑う気配がした。




「夢じゃないよ」




彼女は、瞬の目を、まっすぐに、見つめて、言った。




その瞳は、春の、一番、澄んだ空よりも、ずっと、青く、そして、深く、美しかった。




「全部、私たちが、一つ、一つ、選んできた、『今』の、続きなんだから」




その言葉が、瞬の心の、一番、深い場所に、すとん、と、静かに、落ちていった。




そうだ。これは、夢じゃない。



彼女が、怒りに任せず、俺と向き合うことを選んだ「今」。




俺が、過去から逃げず、里奈と対峙することを選んだ「今」。



彼女が、俺の、不器用なメッセージを、受け止めてくれた「今」。




その、無数の、そして、かけがえのない、選択の、積み重ねが、今、この瞬間を、作り上げているのだ。



二人は、もう一度、眼下の景色を見下ろした。やがて、校舎に、背を向ける。



学校の、正門を出て、桜並木の続く、緩やかな坂道を、下っていく。



まだ、固い蕾のままの、桜の木々。




その、裸の枝々が、空に向かって、まるで、祈るかのように、複雑で、美しい模様を描いている。



午後の、傾きかけた太陽が、その枝の隙間から、金色の光を、地上に、投げかけていた。




木漏れ日。




それは、夏の、力強い光とは違う、どこまでも、優しく、そして、明日への希望を、感じさせる、春の、光だった。




その、光と、影が、まだら模様を描く、道を、二人は、並んで、歩いていく。




「これから、どうする?」




瞬が、聞いた。



美影は、少しだけ、空を見上げて、考えた。



そして、悪戯っぽく、笑って、言った。



「んー、とりあえず、お腹、すかない?」




その、あまりにも、日常的な言葉に、瞬は、思わず、噴き出してしまった。




そして、彼もまた、心の底から、笑った。



そうだ。



これで、いいのだ。




特別な、言葉はいらない。




劇的な、未来の約束も、いらない。




ただ、こうして、隣で、腹が減っただの、眠いだの、そんな、他愛のないことを、言い合える。




その、何でもない「今」が、無限に、続いていくこと。




それこそが、彼が、本当に、手に入れたかった、宝物なのだから。




瞬は、そっと、右手を、差し出した。




美影は、一瞬だけ、驚いたような顔をしたが、すぐに、嬉しそうに、はにかんで、その手を、握り返した。




指が、絡み合う。



伝わってくる、確かな、温もり。それは、言葉以上の、すべてを、語っていた。



二人は、もう、何も話さなかった。




ただ、手を繋いで、木漏れ日が、キラキラと、ダンスを踊る、坂道を、ゆっくりと、下っていく。




その、繋がれた手と、寄り添う二つの影が、未来へと続く、光の中へと、静かに、溶けていく。




彼らの、穏やかで、そして、どこまでも、続いていく、愛の物語。




その、本当の、始まりを、告げるかのように。




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恋愛をゲームだと思ってた俺が、難攻不落の彼女を落とすべく告白したら、秒でOKされた。――以来、何をしても嫉妬も束縛もしてこない彼女に、俺のほうが追い詰められている。 Gaku @gaku1227

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