わくわく死ね死ね自動車学校

杉浦ささみ

衝動

 ぼくは教習所の送迎バスから体を引きずりだすと、ひどく敵意のこもった眼差しで、その監獄をにらみつけた。


 空き箱みたいな校舎だ。キャッチーな看板が無垢な学生たちに手招きしていた。バスが並ぶ広い駐車場があった。その脇には道路網の縮図──いや、社会の縮図がのさばっている。


 この○○自動車学校は、ぼくの金銭を、時間を、精神的余裕を、現在進行形で奪っている。どうせぼくはペーパードライバーになって、社会のお荷物としてしか生きられないだろうに、資格のためだとかで親から無為な苦痛を強いられているのだ。


 ぼくは人を殺せそうな敵意を保持したまま、重い足どりでエントランスを通り抜けた。そして、いつもどおり受付を済ませた。ロビーには新しく入校する者もいるようだ。可哀想に。


 スマホを触らず、ただ薄っぺらい教本をめくって教官を待つ。頭に入ってこなかった。しばらくすると、観葉植物の隣のドアから教官がやってきた。


 加齢臭を漂わせる、ひょろながい男だ。別にヤニくさくはないが、くすんだ肌にはなぜか喫煙者っぽさを感じる。こういうやつを縄で縛って粉砕機にぶち込んでも許される法律が施行されればいいのに。


 その男に伴われて車内に入り込む。そうしろと言われたので、最初にブレーキを踏む。


「さーてと、今日はこのコースね」教官はドアを閉めると、右手にもった紙をまとめながらシートにもたれかかった。「もうじき本免の試験だから、頑張ってね」


 運転する前から激励されたが、ぼくは憂鬱だった。ここ最近でとくに厄介な憂鬱だ。飯があまり喉を通らない。ショート動画しか見る気が起きない。気分の浮き沈みも激しかった。


「この前よくできてたじゃん。あの調子でガンガンいこう!」

「はい……」


 ぼくは先日の、たまたま上手くいった運転を思い出し、かえって気を小さくした。ぼくはそのときどきの気分によって運転技術が左右されるのだ。調子がいいときの走行を病んでる状態で試みようとしても、脳にかかった靄が邪魔する。


 教官にはこの苦しみは分からないだろう。ぼくの、悔しそうな顔を見ても、年不相応の爽やかな笑みを浮かべるだけ。魯鈍すぎる。


 椅子の具合を確認した。ベルトをする。バックミラーの角度を調節する。エンジンをかける。サイドブレーキをあげる。ウィンカーを左に……いや右に。そして発進。


「こらこら発進前の確認。目視して」


 たまにはミスもあるだろう、という風な優しい声で指導された。それでもぼくは萎縮した。


「ああっ、すみません……」


 幸先が悪い。今日はこんなミスをありえないほど積み重ねる気がする。ぼくは思い込みが激しかった。


 教習所の門を出ながら教官は「そういえば春休みなにしてるの?」と、資料の入ったファイルをひざに打ち付けながら聞いた。


「春休みですか、本読みましたね。あ、あと、△△に旅行しにいきました」

「△△? じゃあ、やっぱり温泉とか入ったの?」

「はい、ぬるぬるして気持ちよかったです。お風呂入ったあと、温泉街ぶらぶらして、有名なパンも買いました。けっこう並んで……」


 実をいうと、そんな温泉地には足を踏み入れたことすらない。話を途切れさせないために用意した単なるでっちあげだ。それでも、再来週くらいには実際に赴くつもりで、下調べのおかげか現実味のある妄想話ができた。


「温泉といえば、やっぱり温泉卵で」


 余談に興じる気力はまだあったらしい。実際にハンドルを握ってから、気分は晴れやかになった気がする。


 交通量の多い国道を、それほど注意もされずに走っていく。プライベートだと通らない道もあって、ちょっとわくわくする。


 交差点の前で、赤になった。四隅に建物があって、見通しはよくない。教官は、また温泉街について尋ねてくる。ぼくが温泉街の魅力をアピールしようとすると

「青になったよ」


 出鼻をくじかれた。舌打ちしたいのを堪えてアクセルを踏む。速度標識を見つけ、メーターを目視して、スピードを上げる。


 左折する。巻き込み確認ができてないと注意される。右折する。ウィンカーを出し忘れる。前の車とぶつかりそうになる。


 教習所を出たばかりのときには、まだ優しかった隣の声がトーンダウンしていく。教官は投げやりになって、いきなり声を出す。


「事故ったらどうするの」

「ごめんなさい」


 教習所を出たら二度とハンドルは握らないと決めた。車なんて、向こう見ずな技術開発がもたらした殺人マシーンなのだ。それを欲深い人間が、便利という浅はかな称賛で世に憚ることを許した。


 エンジニアが高望みしなければ、車がないことの不足感を知ることはなかった。馬に乗って移動することの、何が不満なのだろう。自転車をこいで移動することの、何が不満なのだろう。各々の生活圏を侵害せずに野菜でも育てて生活できれば、それでよかったのに。


 また赤になった。バックミラーに目をやった。給料をもらいながら顔つきを整えている教官がいる。ストレスを溜めながら無給でハンドルを操作しているぼくの隣で。むごたらしい。


 もう死ぬしか役目のないオッサンが、どうしてこんなに気色悪く色気づいているのだろうか。首の骨をへし折ってやりたい。


 何度もため息をつきそうになって、すんでのところで我慢する。「喧嘩売ってるの?」なんて返されたらまずい。冬とは思えない暑さが車内に充満していた。


 ふと、教官の手元に置かれた紙が目に入った。どきりとした。そういえば、今日は2時間教習を入れていたのだ。それを示す文字列から目を離す。


 自分の物覚えの悪さに嫌気が差した。今すぐにでもドアをあけ、近くのカラオケ屋にでも駆け込みたかったが、ぐっとこらえて優しくアクセルを踏んだ。


 人通りの少ない平坦な道を通る。シンプルな道路ほど素早い判断を求められる。怯えながら走るしかなかった。イライラ棒をやっているみたいだ。


 それでも、教習所へと帰る道をたどるとなると、運転はスムーズになった。その好転は、どこか予感めいてもいたが、ぼくは運転に集中していて、深く考えなかった。


「そういえばね、ぼくの娘がもうすぐ小学生になるんだ」

 渋滞しはじめた道で、教官は独り言のように呟いた。


「え、娘さんがいるんですか」

「あれ、言ってなかったっけ」


「パパーって懐いてきてかわいいんだよ。知らないことは何でも『教えて』って聞いてくるし」

「そうなんですか」


 教官は娘について縷々語った。公園で追いかけっこをしたこと。ブロッコリーを食べたがらないこと。


「でも、娘が大きくなるって寂しくもあるよ。じきに呼び方もお父さんに変わるだろうし、反抗期になったら構ってくれなくなるのかなぁ。

 ……まあ、それでも娘の存在はありがたいよ。こんな座りっぱなしの仕事が辛くないのは、あの子がいるからなんだ」


 じきに花を芽吹かせる桜の木を眺めながら、教官はぼんやりと語る。遠くで子どもが手を上げ横断歩道を渡る。やがて車が走り出す。前方の車は遠ざかったり近づいたり。小春日和だった。


 絶妙な速度調整に苦心していると、教官はまた言葉を発した。信号が黄色になり、停止線の前で僕は止まる。


「あっ、そうだ、いきなりで悪いんだけど」

「へ?」

 ぼくはバックミラーを見た。


「一度ね、補講やった分を払ってもらうんだ」

「あー、けっこういってそうですね」

「たしかね」教官はおもむろに指を曲げた。「1万、2万……」折られる指は増えていく。ぼくは静観していたが、しだいに冷や汗を流しはじめた。入校したとき、補講しても追加料金を払わなくていいプランを選ばなかったことを思い出す。


 心の中で「ストップ、ストップ」と哀願するも、声なき声は届かない。やがて教官の口が開いた。


「はい、ざっとこんなかんじ」


 教官は笑いながら口を開いた。ぼくは金額を聞いて頭が真っ白になった。せっかく貯金していた旅費がすべて掠めとられた。無能と罵られながら稼いだ金が、きれいさっぱり無くなった。


 借りる友達はいない。仮にいたとしても、この状況を知れば「自分で払え」と諭してくるだろう。親に借りる手も考えた。しかし、先日に喧嘩していて、とてもじゃないが無心などできない。


 教官の白髪交じの頭が見える。食い縛った歯から唾液が溢れるのを感じた。つくづく楽な商売だ。こっちは旅行もままならないのに。失うものがない、という状況は今のことを言うのだろう。


 抑えようとすればするほど、怒りが増幅していく。せめて教習所までは我慢しようと思ったが耐えきれなかった。もう渋滞はない。ええい、ままよ。


 にわかに、ぼくの手の甲にひどい青筋が漲った。ハンドルを強く切り、あらぬ方向に狙いを定めた。地獄なら旅費はいらない。


「ちょっと、ちゃんと確認して!」


 ぼくはアクセルを思い切り踏んだ。メーターの目盛りがぐっと上振れる。すると教官は気の抜けた声を漏らした。


「あっ、あっ」


 そしてすぐ、崖前で背中を押された人みたいに「なにやってんの○○くん! なにやってるの」と喚きだした。ひどく滑稽だった。教習車が恐ろしいスピードで景色を搔き分けてトラックへと接近していく。晴れ空に、ビーーーーーとクラクションが響き渡る。


 時間がスローモーションのように流れた。トラックの荷台が迫り、テールランプがぎらぎら煌めいているのが確認できた。まさか教習車が突っ込んでくるなんて夢にも思わないだろう。


「ぎゃああああああああああ」


 凄まじい衝撃音が世界を等速に引き戻し、紙ふぶきのようにガラス片が舞った。教習車が空き缶のように潰れ、教官の顔には箱型のトラックの部品が飛んできた。車内のダメージは思ったより少なそうだが、まあこれも悪くない。


「ああっ、目が」


 教官は両手で顔をおさえた。指の間からダラダラと血を流している。死にぞこないだ。目も見えないのに、恨めし気にぼくの方を向いて、何かを訴えようとする。


 しかし、ショックで声が出ないのか、未練がましく顔をうつむけるだけ。とてもすっきりした。やっと元を取れた気がする。


「よかったですね。あなたの中で娘さんはこれ以上大きくなりませんよ」


 そう言って、ぼくはトドメに発煙筒で右目を突いた。


 つぎにぼくはイスにもたれたまま、外の惨状を眺めて緊急車両が駆けつけるのを待った。イスを下げ、頭のうしろに手を回し、ハンモックに横たわっている気分で歌を歌った。煙が窓の外で抽象画のように歪んでいる。我ながら、よくできた復讐劇だと思った。


 そう、これは妄想である。教室に現れたテロリストを成敗するのと大差ない。ぼくは教官と顔を合わせるのが億劫で、コンビニ内を歩きながら都合のいい妄想にひたすら耽っていた。


 現実なら、すんでのところで補助ブレーキをかけられるだろう。スッキリするには多少のリアリティは無視せねばならない。


 壁掛け時計を見ると、もうバスがくる時間だった。これから路上教習だ。ぼくは急いで自動ドアを抜けた。マニュアルどおりのコンビニ店員が「ありがとうございました」と告げるのを(なにも買ってないだろ)と冷笑して、いそいそと自動ドアを出る。


 巨人のような雲が頭上に広がっていた。暖かかった。小春日和というやつだろう。教習で責め苛まれることも忘れ、勇んで足を進めてく。ぼくはバス待ちの列に加わった。


 まだ余裕があった。学生たちが陽気のなかで、講習やバイトについて話している。のどかな情景のせいか、さきほどの残虐な妄想が腑抜けたものに思えてくる。


 こんなに心が清々しいのは、空想の教官が現実の教官にかわってサンドバッグになったからだろう。そうとしか思えない、と太陽も同意している気がする。妙に腑に落ちた。ぼくは深呼吸をした。ほどけた靴ひもが目に入ったので、いつもより丁寧に結びなおした。


 しかし、いくらイライラしてたとはいえ、なぜぼくはあんな酷いことを考えたのだ。考えてみれば教官だって、ぼくの生活を豊かにしようと必死なはずだろうに。ハンドルを握っていろんな景色を見てほしいと願っていただろうに。そもそも教官はぼくの経済状況なんかを知らないだろうに。


 定刻に送迎バスが停まった。ぼくは、なるべく後ろのほうに腰をかけた。エンジンがかかる。石をはじくタイヤの音に耳を傾けた。それは教習所の接近を教えてくれる音だった。


 田園をじっと眺める。天気がよく、冬なのにかげろうが揺らいでいて、きれいだった。それを無心に眺めていると、一瞬あの男の顔が浮かんだ。


 教習所の看板が窓外に見える。いやな観念を払いのけようと首を振る。しかし、敵意はあざけるように近づいてきた。冷や汗が噴き出てきて、ズボンにしっとり手形が残る。


 ぼくは叫びたくなった。精神的な苦痛が体を支配する。


 敵意がぼくの口をこじ開け、真っ黒な観念をどろどろと注ぎ込んできた。ぼくは監獄にぶちこまれる想像に再び支配された。カフェインのような、即効性の怒りがみなぎる。


 どうしてぼくは、意味のない生活を甘んじて受け入れねばならないのだ!


 ぼくは憤った。そして立ち上がった。自分でも驚くくらいに俊敏だった。そして、揺れる車内で体を支えると、腕をブンブン振り回しながら、運転席へと突き進んでいった。

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