偽物勇者
迂遠るら
曇り空の下で生まれた物語
マンションの廊下には、昼も夜も薄闇が沈んでいる。
その中を歩くたび、411号室の前でだけ、胸の奥がふと波立つのだった。
真鍮のプレートに刻まれた「411」という数字は、まるで夢の岸辺に置き忘れた記憶のように、ぼくの心に繰り返し浮かんでは消えた。
今日、ぼくは知らないふりをして、その扉を、そっとノックした。
開かれた部屋には、疲れたソファと、読みかけの本たちが折り重なっていた。
窓辺には、たったひとつのガラス細工の剣。
それは陽の差さぬ曇り空の下で、黙ったままに光を宿していた。
この部屋に住むのは、かつて“本当の勇者”になろうとした青年──ユウタ。
けれど今、そう呼ぶ者は、もうどこにもいない。
ユウタは毎夜、壁に浮かぶ染みを地図に見立てて、旅に出る。
狭い六畳間に、遠い世界を重ねながら。
「世界は、この部屋の外にも続いているんだ」
そう繰り返す声は、祈りのように静かだった。
だが、扉のノブに手をかける勇気だけは、まだ置き去りのままだった。
だけど、その日──
知らない誰か、つまり“ぼく”が訪ねた日だけは、少しだけ違った。
「君も、勇者になりたいのかい?」
ユウタは笑った。
その声は、どこか透きとおっていて、壊れやすい硝子のようだった。
ぼくは小さく首を振る。
「ううん。ぼくは、偽物でいい。
でもね……誰かの物語の中でなら、勇者になれるかもしれないんだ」
ユウタはしばらく黙って、それから窓の外を指差す。
雨が降っていた。
薄曇りの空から落ちてくる雫が、静かにガラスを叩いていた。
「ほんとうの勇者なんて、たぶん、どこにもいないよ。
みんな、自分の物語の中で、ぎこちなく勇者を演じてるだけなんだ」
その言葉は、雨音よりも優しかった。
ぼくたちは、何もない部屋で、小さな冒険を始めた。
枕を盾に、毛布をマントに。
見えない魔物に挑みながら、古い冒険歌を口ずさむ。
いつか本当にこの扉を開ける日のために──。
やがて夜が明け、ぼくは411号室をあとにする。
扉の向こうで、ユウタの声が聞こえた。
「今日だけは、僕も……勇者でいられたよ」
ぼくは廊下の片隅で、そっと呟く。
「偽物でも、誰かの勇気になれる日が……いつか、きっと来るよ」
411号室のドアが静かに閉まり、曇り空のような静けさが戻ってくる。
けれど、ぼくたちの小さな冒険は、どこか遠くの、胸の奥の灯りのように、今も静かに燃え続けている。
偽物勇者 迂遠るら @tackle964
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