Bloom

鳥尾巻

PICA Flower

 妹の凜は栄養にならないものを食べるのが好きだ。彼女が前から行きたがっていたレストランを予約したのは卒業式の日。車で迎えに行くと凜は無表情を装いながら、嬉しそうにしていた。

 大きな皿の真ん中にちょこんと載せられた芸術品のような料理。エディブルフラワーをふんだんに使うのがこの店の売りらしい。凜はコース料理の最後に残された赤い花びらを大事そうに一枚外し、小さな口に運ぶ。

「その花食べるの?」

 僕の揶揄する声に応じて、透明な眼差しが突き刺さる。ガラス玉のようなその目に見つめられると、訳もなく罪悪感を感じてソワソワしてしまうのが常だ。それでなくても思春期の女の子は扱いが難しい。

「食べるよ。エディブルフラワーだもの」

「僕は残す。見た目だけで栄養がないから」

「お兄ちゃんはそうだね。ここに来た意味ぜんぜんない」

 凛は顔をしゃんと上げて、皿をろくに見もせずに小さな翼のようにひらりひらりとカトラリーを操る。銀器が花に刺さる様はさながら銀色の翼を持つハチドリのようだ。それはいわゆる正式な作法ではないのだけれど、僕の目にはそれが可愛らしく本物のように見える。

 僕は彼女の制服のセーラーの襟元に留められた青いバラのコサージュを指し、またもや彼女を怒らせるような言動をしてしまう。兄とは因果な生き物だと思う。

「その花も食べる?」

「食べる訳ないでしょ。赤ちゃんじゃあるまいし、なんでも口に入れたりしない」

「そうだよね。中学卒業、高校合格おめでとう」

 ありがとう、の代わりに僅かに微笑んだ凜は、それきり僕に興味を失ったように明後日の方を眺めながら、無心に赤い花弁を咀嚼していた。


 デザートの苺のムースにも花がふんだんに使われている。僕は苺の粒粒と甘いものが苦手なので珈琲だけにする。凜にとっては花がメインなのかもしれない。子供の頃から、特に両親がいなくなってからは、一般的には食べ物ではないものに関心を示すことが多くなった。

 当時愛人を多く囲っていた父親がそのうちの一人と失踪し、母も若い男と家を出た。14歳の僕と8歳の凜は裕福な母方の祖母に引き取られ育てられた。祖父母の家の庭には色とりどりの花が咲き、凜はとりわけ赤い花を好んで食べた。植物の中には毒があるものも多いから、何度もやめさせようとしたが、凜は隠れて食べていたようだ。

 凜はスプーンの上で揺れるピンク色のムースを僕に見せつけるようにぱくりと食べる。嫌なのを知っているのにそういうことをする悪趣味さは僕に似たのかもしれない。

「ねえ、お兄ちゃん。昔住んでたおうちに行ってみようよ」

「なんで?」

「パパとママの写真残ってないかな」

「なんで今さら? 顔も思い出せないだろ?」

「だからだよ。卒業の報告くらいしときたいじゃない」

 両親は未だ行方不明で、7年経った今年、戸籍上死亡したものとなっている。僕らが住んでいた家は祖父母が管理してくれていたから、今もそのまま残っているはずだけど。

「写真に報告?」

「まあね」

 無色透明な眼差しはまた僕を突き刺し、珈琲の味をさらに苦くさせた。できればあまり行きたくはないけど、凜がそう思うなら仕方ない。


 いったん祖父母の家に戻り、事情を話して鍵を借りた。助手席に乗った凜はひじ掛けに頬杖をついて車窓から流れる風景を見ている。子供の頃幾度となく通った道も、車からの風景だとなんとなく新鮮に見える。僕は邪魔にならない程度の音量で音楽をかけ、彼女の様子を伺った。凜もこちらを見ずに独り言のように呟く。

「アメリカの死体牧場の話を知ってる?」

「なにそれ」

 今どきの女子中学生は、いや、もうすぐ高校生はそんな猟奇的な話題で盛り上がるのだろうか。

「テネシー大学の法人類学センターでは献体を使って人間の体が微生物によってどう分解されるかを研究してるんだって」

「ふーん。凜は法人類学を学びたいの?」

「面白そうではある。腐敗が進んだ死体から栄養が流れ出ることによって、植物の葉の色や光の反射率が変わるとしたら、捜査当局がドローンで調査して行方不明者の遺体を発見できるんじゃないかって」

「なるほど」

 僕はスピーカーの音量を少し絞った。凜は両親を探したいのだろうか。無理もない。両親の失踪時、彼女はまだ甘えたい盛りの子供だったのだ。あの頃比較的落ち着いて事実を受け止めていた僕と違い、凜は幼児退行して異食がひどくなっていた。

「土壌の微生物も変化するし、植物にも変化があるかもしれないけど、人間だけじゃなくて動物の死骸もあるかもしれないから、まだまだ研究の余地はある」

「今日はよくしゃべるね」

「まあね」

 別に仲が悪い訳じゃないけど、祖父母にべったりで日頃は僕を煙たがっている様子の凜がこんなに饒舌なのは久しぶりかもしれない。法人類学に興味があるなんて初めて知った。

「葉っぱが光るらしいの」

「へえ」

「人間の目には見えないみたいだけど。特別な機械で測定するんだって」

「ほお」

「テキトーな返事してるでしょ」

 冷たく言われた僕はハンドルを握り直して運転に集中しているフリをした。バレたか。だって死体には興味がない。まだお菓子作りの講義を聞いている方がマシかもしれない。


 両親の家は近代的な作りの二階建ての邸宅だ。家の前に車を停めた僕は、慣れた手順で門扉を開いた。中に足を踏み入れると、広い庭までは手が回らなかったのか、草木が生い茂り花も野生のままに咲いていた。月明かりが木々の葉に白く照り返して、まるで白い蝶が飛んでいるように見える。これがホラー映画なら蝶は人の魂だと凜を脅かしてまた嫌がられるところだが、僕は久しぶりに生家を訪れた凜の嬉しそうな様子を見て、そんな風に扱うのはよろしくないと思い直した。

 家の中は少し黴臭くて、僕たちが出て行った頃のまま時が止まったようだった。澱んだ空気の中、凜だけが清々しい気を放っているように見える。電気は通していないので、懐中電灯を頼りに進む。家具には白い布が掛けられていたけれど、僕と凜は母の部屋の飾り棚に置いてあった写真立てをすぐ見つけることが出来た。

 僕に少し貫禄をつけたような風貌の父と、凜にそっくりな美しい母、笑顔でその膝に乗る凜と、椅子の背に手を置いて立つ僕が映っている。

「パパ、ママ、中学校を卒業しました。春から高校に通います」

 写真に向かって律儀に報告する凜の背中を冷めた気持ちで眺める。思えばこれが最後に撮った家族写真だった。体裁の悪い事ばかりしていたのに、こういう嘘くさい家族行事は毎年やっていたっけ。

「その写真持って行ったら? いちいちここに来るの面倒でしょ」

「ううん。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが嫌がるからいいの」

 凜は振り向いて少し寂しそうに俯く。祖父母は外聞の悪い両親のことを話したがらない。僕は白布が掛ったままのソファに腰を下ろした。多分スーツが埃まみれになってるだろうけど、僕はそういうことには無頓着だ。

「凜が望むならまたここに住んでもいいよ。失踪宣告が確定したから、遺産としてこの家は僕たちのものになる」

「うん。高校もこっちの家の方が近いから住もうかと思ってるんだけど」

 いつもは表情に乏しい凜の頬に僅かに赤みが差した。懐中電灯と頼りない月光が襟元の青いバラを照らす。

 あまりいい思い出がないから気が進まないのだけど、この広い家に高校生になったばかりの凜を一人で住ませるのは心配でもある。僕の家族は祖父母と凜だけだ。僕はしばらく考えて、凜に向かって頷いた。

「いいよ。じゃあ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがいいって言ったら住もうか」

「お兄ちゃんもう大人なんだから許可いらなくない?」

「そんな冷たいこと言うなよ。お祖父ちゃんたちが寂しがる」

 僕は懐中電灯の明かりを消して、銀色の月明かりが斜めに差し込む窓際に立った。見下ろした庭の一角を眺め、そこに凜の好きな花を植えようと考える。パンジー、スイートピー、マーガレット、バラ、ひなげし。きっと凜も両親も喜ぶだろう。


 両親は父の女関係で喧嘩が絶えなかった。母は嫉妬に狂って父と愛人を刺し殺し、僕に手伝わせて庭に埋めた。日を追うごとにおかしくなり、ついには父と僕を間違えてベッドに引き込んだ。母を絞め殺した時の感触は今でも覚えている。凜はあの光景をすべて見たはずなのに、記憶の底に押し込めてしまった。なのに赤い花を好んで食べるのはなんの皮肉だろうか。まるで僕の罪を食べるハチドリだ。

 まあ、いいさ。死体には興味がない。僕が作った花壇には季節が変わるたびに色とりどりの花が咲き、きっと美しい蝶が翔ぶ。人の目には見えない光も昆虫の眼には見える。蝶の眼には葬送の花たちがひと際光って見えるはずだ。

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