音楽が好きな大学生の話

るるひと

先輩と僕



 東京の大学に進学した僕は、高校時代みたいにバンドを組んで好きな音楽を続けていくんだ、なんて意気込んでいて、そんな矢先に大学の掲示板で軽音サークルの新歓ライブの開催を知らせるチラシを見つけたものですから、僕は早速、喜び勇んで会場に足を運びました。


 開始の時刻になり、サークルメンバーの知人らしき人たちの囃し立てる声が聞こえてきました。それを聞いて気恥ずかしそうにしている壇上の男性の一人が、マイクを前にとりとめのない自己紹介を始めました。

 会場の人たちは、その話し方のぎこちなさに笑ったり、バンドメンバーの持つ楽器を見て3ピースなんだねとかどんな曲をやるんだろうねとか話し合ったりしながら、本格的にライブが始まるのを待っていました。

 なんだかとても和やかな雰囲気で、つられて僕もリラックスした気持ちになっていました。


 しばらくしてMCは一段落したようで、マイクの前の男性が曲名らしきものを呟きました。聞いたことのないタイトルでした。


 空気の色が、一音で変わりました。


 衝動を全て乗せた稲妻のような音は、それでも尚はっきりと音楽の形をとり、僕の心の内に深く深く入り込んできました。

 遅れて、まさにその音にこそ乗るべきと思える声が届き、それらが一体となって織りなす曲は、僕の脳をしきりに揺らしました。


 これが本当に、先程マイクの前でたどたどしく喋っていた男性と同一なのかときっと誰しもが思っていました。

 平凡なベースやドラムの音も、大衆のどよめきすらも、彼のギターとボーカルが、"彼の音楽"が全て乱暴に取り込んで一つにしていくような、おそろしさすら感じる演奏でした。

 彼はこの音楽において、絶対的支配者でした。


 僕はなんというかこの時、才能というのはこういう能力のことを言うのかと、生まれて初めて理解したような、させられたような気がしました。



 後日、当然軽音サークルに入った僕は、同期の波をかき分け真っ先にギターボーカルの彼の元に向かいました。

 彼は3年の先輩で、普段はMCの時の印象に近い柔和で親しみやすい雰囲気をまとっていたため、音楽の話題を通して僕たちはすぐに打ち解けました。


 先輩は高校の頃にギターを始め、大学に入って初めて曲を書くようになったと話してくれました。あの新歓ライブで披露した曲も、先輩が書いた曲のひとつでした。

 それから、このサークルには毎年新規メンバーはそれなりの人数が入ってくるものの、半年程度でその多くが辞めてしまうのだという話も聞きました。


 サークル人数に関しては、特に意外とは思いませんでした。

実際軽音サークルのメンバーなんてものの多くは単なる興味本位でしょうし、なにより本気でやろうと思っている人のほとんどは、この先輩を間近で見続けることに、きっと耐えられないのだろうなと思いました。


 僕自身、あの新歓ライブを思い出すたび、正直言って嫉妬に狂ってしまいそうになる時がありました。


 僕は音楽が好きで、小学生の頃にギターを始め、高校では念願のバンドを組み、勉強もそこそこに音楽にばかり耽っていました。

 そんな僕よりも後に音楽を始め、僕よりも何倍も演奏技術が高く、あんなにも人の心に深く入り込む曲を作る先輩のことを、羨まずにいられるはずがありませんでした。

 しかし同時に、僕はこの先輩に、この先輩の音に、どうしようもなく憧れていることにも気づいていました。



 それからのサークルでの活動は、とても充実していました。


 先輩は才能だけでなく、音楽歴の短さからは想像できないほど多くの知識を有していました。また、自分がいかに音楽が好きであるかという話をたびたび嬉しそうに語ってくれました。そしてそんな先輩に直接ものを教わっている時間はとりわけ有意義でした。

 なにかと気の合った僕たちは、自然とふたりだけで練習をする時間が長くなっていきました。


 練習のたびに聴く先輩の音は、やはり稲妻のように鋭く、技巧的で繊細で、聴く者全ての心を有無を言わさず震わせる圧倒的な力がありました。

 僕はこの音を聴く時間が本当に好きでした。

 先輩の才能に打ちのめされるこの時間が本当に好きでした。


 ある日僕は、先輩は普段どうやって曲を作っているのか、と尋ねました。先輩は当たり前のような顔をして、パソコンで簡単に曲が作れるのだ、と答えてくれました。

 無論、DTMが簡単なわけがないことを知っていましたが、きっと先輩にとってはあくまで容易いことなのだろうな、なんて納得しながら、詳しくやり方を教えてもらいました。


 バイト代で先輩と同じDAWやら音源やらを購入した僕は、その日から毎日のように作曲に明け暮れました。憧れの先輩に早く追いつきたい一心でした。



 月日が流れ、先輩が4年生になった年の秋の、帰り道のことでした。

 先輩は僕に、音楽を辞めると告げました。


 僕は先輩が何を言っているのか理解できず、思わず何度も聞き返しましたが、そのたび先輩ははっきりと、大学卒業と同時にバンドを解散して音楽を辞めるという言葉を繰り返しました。


 以前先輩のバンドが行ったワンマンライブの後、先輩に名指しで音楽事務所からのスカウトの声がかかっていたことを僕は知っていました。また、先輩は特に就職活動の類を行っている様子もなかったため、僕はてっきりその誘いを受けてメジャーデビューなりするものだと思いこんでいましたし、実際先輩にそれだけの実力があることは疑いようもありませんでした。


 わけを聞こうとする僕に先輩は一言、「音楽はさ、楽しくやっていたいんだよ」と言い、それ以上多くは語ってくれませんでした。


 その時僕がなんと言ったかは、あまり記憶にありません。

 ただ、なにかとても、ひどいことを言ってしまったような覚えだけがあります。


 それから先輩が卒業するまで、僕たちは一言も言葉を交わすことはありませんでした。



 僕は3年生になって、サークルにいる時間よりも自室で一人で曲を作っている時間の方がずいぶん長くなりました。

 ネットにアップロードした合成音声を用いた曲が運良くそれなりの評価を受けて以来、学生ながらお金を伴ったお話もちらほらといただけるようになっていました。


 そんな折にふと、あの先輩がとある楽器店で働いているらしい、という噂を耳にしました。

 あれから先輩とは会っておらず、連絡先もいつだったかに削除してしまったままでした。


 当然のようにというか、やはり僕は噂を辿らずにはいられませんでした。

 気づけば僕は、先輩が勤めているという楽器店の前まで来ていました。


 文句のひとつでも言ってやるつもりでした。音楽を辞めるなんて言っておきながら楽器店なんかに勤めやがって、あなたはあんなに才能があったのに、あんなに音楽が好きだったのに、あんなに僕の心を動かしたのに、どうしてひとりで、僕を置いて、とひと息に問い詰めて、全部打ち明けて、願わくばもう一度、先輩と一緒に音楽ができたら、なんて、そう思っていました。


 お店の中に、先輩はいました。

 こちらには気づかず、初心者と思しき少年に、ギターの試奏を披露しようとしているところでした。


 その音が、あんまりに、あんまりに優しいものですから、僕は一瞬だけ立ちすくんで、それから、逃げるように自室まで走りました。


 僕は、普段の練習で聴いていた先輩の音を、ライブハウスを熱狂させてプロの道に繋がった先輩の音を、新歓ライブで初めて聴いた先輩の音を、あの衝動を全て乗せた稲妻を、その全てを思い出していました。そして、いつだって僕はその音を聴く時、どうしようもなく幸せで、どうしようもなく苦しんでいました。


 記憶をたどるうちにひとつ、思い至ってしまいました。


 先輩はあの時言っていました。

「音楽は楽しくやっていたいんだよ」と言っていました。


 僕は、いつも先輩の音を聴いている時、一体どんな顔をしていたのでしょうか。

 どんな顔を、見せてしまっていたのでしょうか。


 その夜、僕は一晩中、電気も点けず食事も摂らず、DAWを立ち上げたノートパソコンの前で、頭をかきむしり、涙を流し、ひたすらに曲を作りました。



 あれから何年が経ったでしょうか。

 僕はありがたいことにすっかり音楽で食べていけるようになっています。


 曲を作るたびに先輩を思い出しています。最近、お酒の量が増えたような気がします。寝付きも悪く、起きている間はいつも良くないことを考えてしまうので、考えないようにしているうちに曲ができて、そうして形になった曲たちを披露すると、みなさんたいへん喜んでくださいます。そのおかげで、今度また、大きなライブに出していただけることになっています。


 僕の活動のことは、先輩には伝えていません。

 見てほしい気持ちはありますが、ひょっとしたらどこかで見てくれているのかもしれませんが、だからといって、僕の望みが叶うはずもないからです。

 これから僕がどれだけ大成した姿を見せたとしても、きっと先輩は、また一緒に音楽をやろう、なんて言葉は、言ってくれないんだと思います。


 先輩は、それを望みました。

 僕が、その邪魔をしてはいけません。


 僕は、先輩のせいで毎日気がおかしくなりそうですが、それでもこの生活を辞めようとは思っていません。


 先輩、先輩が狂わせた僕は、今日も音楽で狂っています。

 だから、僕が代わりに狂っているから、先輩はどうか安心して、音楽を楽しんでいてくださいね。


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