第八章「おまえの番だ」
闇の中、クローゼットが開いた音がした。
ゆっくりと、音もなく。そこから這い出る何かの気配が、空気を変えた。
俺は逃げることもできず、ただ布団の上に固まっていた。動けない。動こうとすれば、何かが“気づく”気がした。
音もなく、何かが部屋を歩いていた。足音ではなく、存在の“移動”音。家具が、空気が、ほんのわずかにずれるような、見えない運動。
やがて、それは俺の横に座った。
背中で、畳がほんの少し沈んだのが分かった。
「……ありがとう」
耳元で、俺の声がした。
だがそれは、俺のものではなかった。声だけが同じで、中身が完全に異質だった。
「君が来てくれたから、今度は出られる」
その“何か”は、俺の喉を撫でるように触れた。冷たくて、生きていない感触だった。
「これで、交代だ。今度は君が“鍵”になる」
鍵? 俺が?そう思った瞬間、胸の奥で何かが“埋まる”感覚があった。
金属のような重さ。内側から、何かがカチリと音を立てて、閉じた。
それから、時間の感覚があいまいになった。朝も夜もなく、空の色も分からず、時計の針も止まったまま。けれど、俺は“生きていた”。
食事もない。水もない。けれど餓えない。眠らない。けれど、夢だけは見る。
夢の中では、もう一人の“俺”が外で生活していた。
大学に通い、下田と話し、SNSを更新し、少しずつ「俺という存在」を、上書きしていく。
――俺より、俺らしい。――誰も違和感を抱かない。
それを、俺はこの部屋から“見せられて”いた。
毎晩、壁に浮かぶ曇った“窓”のような映像で。テレビでも鏡でもない。それは、部屋が“記録したもの”だった。
まるで俺の存在そのものを、“吸い取っている”ようだった。
やがて、ふと気づいた。
この部屋には、“もう一人分”の布団が敷かれていた。最初はなかったはずだ。だが、ある日目が覚めると、畳の上に並んでいた。
それはつまり――次の誰かが来る、ということだ。
俺の代わりに、“誰か”を迎えなければならない。
そうしなければ、この部屋から“出られない”。
……いや、正確には、“出たことにされない”。
部屋は、そういう仕組みなのだ。
「来る者」は常に一人。「出ていく者」も、常に一人。“間戸”は、交換の空間。
一方通行ではなく、双方向でもない。あくまで「入れ替え」でしか成立しない。
だから俺は考えた。どうすれば――“誰か”をこの部屋に招き入れられるか。
最初は、下田に電話をかけようとした。でも通じなかった。彼はもう、外側の“俺”と完全に馴染んでいる。
家族も同様だ。母も父も、あちらの“俺”の存在を、自然に受け入れている。
だから、見ず知らずの誰か。興味本位で、この部屋を“借りて”くれる誰か。
ネット掲示板に、それとなく書き込む。「格安物件、事故物件だけど立地良し」「写真あり、即入居可、鍵つき」「ちょっと変わった間取りです」
誰かが食いつくまで、繰り返す。夜な夜な、布団の隣に「誰か」が座るのを、待ちながら。
そして、ある日。部屋のドアが、開く音がした。
ギィ……と軋んだ音。玄関の“白い壁”が、わずかに揺れる。
新しい誰かが入ってくる。それが、何も知らない若者か、部屋探しの夫婦かは分からない。
けれど、それはもう重要ではない。
この部屋が“認めた”時点で、その人間は「もう戻れない」。
代わりに、俺はようやく“出ていける”。どこへかは分からない。でも、ここでないどこかへ。
今、これを読んでいるあなた。「変な間取りの部屋」に心当たりはないだろうか。
最近、玄関の位置が変わっていたとか、鏡に映らない時間があったとか、寝ている間に家具の配置が変わっていたとか。
――もしかすると、もう始まっているかもしれない。
そろそろ、入れ替わりの“番”が。
──おまえの番が。
間戸(まど) 洒落にならないほど恐怖する話 @sharekyou-story
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