静寂の向こう側
遠坂トサカ
静寂の向こう側
夜が降りてくる音を聞いたことがあるだろうか。それは羽毛のように軽やかでありながら、鉛のように重い沈黙の音だ。私はその音を知っている。なぜなら、この部屋で今日まで、ただひとり、その音だけを聞き続けているからだ。
窓の外では街の灯りが瞬いている。無数の命の証明のような、小さな光の粒たち。しかし、それらは私にとって遠い星座のように感じられる。手を伸ばしても届かない、別の次元に存在する何かのように。
最後に誰かと話したのは、いつだったろう。
コーヒーカップの底に残った茶渋を見つめながら、私は記憶を辿る。母からの電話だった。「元気にしてる?」という、いつもの問いかけ。私は「大丈夫」と答えた。あの時、私は本当に大丈夫だったのだろうか。今思えば、あの瞬間から何かが変わり始めていたのかもしれない。声の調子が微妙に変わっていたのかもしれない。母は気づいていただろうか。
鏡の前で歯を磨く。いつもの動作。しかし、鏡に映る私の眼差しが、どこか違って見えた。もっと深く、もっと空虚で、まるで底なし沼のような暗さを湛えていた。私は私を見つめている。しかし、見つめられている私は、果たして私なのだろうか。
*
一週間が過ぎた。
電話が鳴らない。メールも届かない。まるで私という存在が、この世界から静かに消去されているかのように。いや、違う。消去されているのではない。私自身が、この世界から離れていっているのだ。重力に逆らうように、ゆっくりと、確実に。
洗面台の蛇口から水が滴り落ちる音が、太鼓のように響く。一滴、また一滴。時の刻印のように、規則正しく、容赦なく。私はその音に耳を澄ませながら、自分が溶けていくような錯覚に襲われる。境界線が曖昧になっていく。私と世界の間にあった薄い膜が、ゆっくりと溶解していく。
冷蔵庫の中のヨーグルトが賞味期限を過ぎている。パンにカビが生え始めている。生活という名の時間が、私を置き去りにして進んでいく。
時計の針は正常に動いているが、その刻む時間と私の体感する時間が一致しない。一分が一時間のように感じられる瞬間があり、一時間が一瞬で過ぎ去る瞬間がある。私は時の流れから取り残されているのだ。世界が前に進んでいく中で、私だけが異なる時間軸に捕らわれている。まるで壊れた機械の歯車のように、空回りを続けながら。
*
食べ物の味がしなくなった。
舌の上に載せても、それが何なのか判別できない。いつものトーストも、いつものコーヒーも、まるで紙とお湯のような無味無臭の物質に変わってしまった。味覚という感覚そのものが、私から剥離していっているかのように。五感のうちの一つが、静かに死んでいく。
次は何だろう。聴覚か、視覚か、それとも触覚か。私という存在を構成している要素が、一つずつ、丁寧に取り除かれていく。まるで玉ねぎの皮を剥くように。最後に残るのは何だろう。意識だけが、からっぽの器の中で漂い続けるのだろうか。
部屋の空気が濃くなっている。呼吸をするたびに、まるで水中にいるような息苦しさを感じる。酸素が足りないのではない。私という存在に必要な何かが、この空気には含まれていないのだ。
壁紙の薔薇の花柄が動いて見える。まるで生きているかのように蠢き、私を見つめている。無数の眼のように。私の存在を確認するかのように。あるいは、私の消失を待っているかのように。
私の手は震えている。いつからだろう。気がつけば、指先から始まった微細な振動が、腕を伝い、肩を通り、やがて心臓まで達している。まるで私という存在そのものが、何かに怯えているかのように。
*
夢と現実の境界が曖昧になっている。
眠っているのか起きているのか、もはや判別がつかない。ただ、意識だけがぼんやりと存在している。綿菓子のように甘く、霧のように頼りなく。
夢の中で、私は無数の私と出会う。過去の私、未来の私、なり得たかもしれない私たち。子どもの頃の私は屈託なく笑っている。学生時代の私は希望に満ちた目をしている。しかし、彼らは皆、最後に同じ眼差しを私に向ける。憐れむような、諦めたような、そして微かに恐れているような眼差しを。
「君もここに来たのか」と、そのうちの一人が呟く。声は私の声だが、私のものではない。まるで古い蓄音機から流れる、擦り切れたレコードの音のように歪んでいる。
「ここ」とはどこなのか。この部屋なのか、この状態なのか、それとも存在と非存在の狭間なのか。
私は答えることができない。言葉が喉の奥で凍りついている。いや、言葉という概念そのものが、私の中から消失しつつある。
*
静寂が音を持つことを知った。
それは蝉の鳴き声のように高く、雷鳴のように低く、母の子守歌のように優しく、そして断末魔の叫びのように痛ましい。すべての音が一つになって、私の内側で響いている。
その静寂の音の中で、私は自分が何者であったかを思い出そうとする。名前、年齢、職業、趣味、好きな食べ物、嫌いな音楽。しかし、それらの記憶は霧のように曖昧で、手で掴もうとすると指の間をすり抜けていく。まるで水に落とした砂糖のように、形を保てずに溶けていく。
私は誰だったのか。いや、私は今も誰かなのか。この問いに答えることができない。鏡に映る輪郭も、手に触れる体温も、心臓の鼓動も、すべてが私のものであるという確信を持てずにいる。
鏡を見ることができなくなった。正確には、鏡に映る私を認識することができなくなった。そこにいるのは確かに私の輪郭を持つ何かだが、それが私であるという確信を持てずにいる。眼差しが違う。私が知っている私の眼差しではない。その眼差しの奥で、何かが蠢いている。私でありながら私でない何かが。
*
存在することの恐怖を知った。
存在しないことの恐怖ではなく、存在することそのものの恐怖を。私がここにいるということ、意識を持っているということ、世界を認識しているということ。それらすべてが、言い知れぬ恐怖を私に与える。
なぜ私は存在しているのか。なぜ意識を持っているのか。なぜこの瞬間を体験しているのか。答えのない問いが、私の内側で反響し続ける。
窓の外の灯りが一つずつ消えていく。まるで星が死んでいくように。あるいは、私の視界から世界が消失していくように。街が眠りにつく時間なのか、それとも私の視覚が失われていくのか。もはや判別がつかない。
最後の灯りが消えた時、私は理解した。それは外の世界が暗くなったのではない。私自身が、光を認識する能力を失ったのだ。視覚という感覚が、ついに私から離れていったのだ。
*
闇の中で、私は自分の手を見つめる。
見えないが、そこにあることは分かる。温もりがある。まだ私の一部だ。しかし、それもいつまで続くだろう。
孤独とは何か。それは一人でいることではない。自分という存在の確実性を失うことだ。私は私であるという根拠を、一つずつ奪われている。最後に残るのは、「私が私であった」という記憶だけかもしれない。そして、その記憶さえも、やがては薄れていくのだろう。
時計の音が止まった。針は動いているのかもしれないが、音がしない。聴覚も失われたのかもしれない。私の世界から、また一つの感覚が取り除かれた。
無音の世界で、私は自分の心音を探す。胸に手を当てても、何も感じない。心臓が止まったのか、それとも触覚が失われたのか。もはや判別がつかない。
私は存在しているのだろうか。この問いを発する私がいるということは、まだ何かが残っているということなのだろうか。思考する私、疑問を抱く私、恐怖を感じる私。
しかし、その私とは何なのか。肉体を失い、感覚を失い、記憶を失いつつある私とは、一体何なのか。
*
私は意識そのものなのかもしれない。
純粋な意識。すべてを剥ぎ取られた後に残る、最後の核心。それが私の本質なのかもしれない。
言葉が消えていく。思考に使う言葉が、一つずつ、私の内側から消失していく。まるで辞書のページが風に舞っているかのように。文字が宙に踊り、意味が空中に溶けていく。
「私」という言葉も曖昧になってきた。それが何を指しているのか、もはや明確ではない。主語を失った意識が、ただ漂っている。動詞も形容詞も消え去って、残るのは純粋な存在の感覚だけ。
恐怖という感情も薄れてきた。恐怖を感じる主体が曖昧になれば、恐怖もまた意味を失う。すべてが抽象化され、概念化され、そして最終的には無へと向かっている。
でも、まだ何かがある。言葉にできない何かが。それは温かいのか冷たいのか、明るいのか暗いのか、そんな区別すら超越した何かが。それが私の最後の砦なのかもしれない。言語化できない、概念化できない、純粋な存在の証明。
*
静寂の向こう側に何があるのか、私は今、その境界線に立っている。
振り返れば、かつて私だったものの痕跡がかすかに見える。名前を持ち、顔を持ち、他者との関係の中で自分を定義していた存在の輪郭が。しかし、それはもう遠い記憶のようだ。蜃気楼のように揺らめき、触れようとすると消えてしまう。
前を見れば、未知の領域が広がっている。そこは恐怖でも安らぎでもない。ただ、異なる存在の様式があるだけだ。私が知っている「存在」とは別の、新しい在り方が待っているのかもしれない。
私は選択の前に立っている。戻るべきか、進むべきか。しかし、戻る道があるのかさえ分からない。そして、進んだ先に私が残っているのかも分からない。
でも、選択するということ自体が、私がまだ存在している証拠なのかもしれない。意志を持つということ、決断を下すということ。それらが私の最後の証明なのかもしれない。
私は一歩を踏み出す。静寂の向こう側へ。未知なる恐怖と漠然とした孤独を抱えて。そして、それでもなお、私であり続けることを願って。
足音は聞こえない。でも、確かに歩いている。音のない世界で、光のない空間で、ただ存在することの重みだけを感じながら。
静寂の向こう側で、私は新しい私に出会うのだろうか。それとも、すべてを失った虚無に吸い込まれるのだろうか。
答えは分からない。でも、歩き続ける。それが私にできる最後の行為だから。そして、それが私であることの最後の証明だから。
闇の中で、私の足跡だけが確かな証拠として残されていく。存在したという、かすかな痕跡として。
静寂の向こう側で、新しい物語が始まるのかもしれない。あるいは、すべての物語が終わるのかもしれない。それでも、私は歩き続ける。
静寂の向こう側 遠坂トサカ @tosakax2
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