第二作

@N-Kei

忘れ名に思うこと

 散歩していた、ずいぶん長く歩いた。ずいぶんと心地いい。ふわふわしている。あの景色は故郷の景色だ。嗚呼、そうだ、あの土地の、あの川の、あの空き地だっ!ってすぐにぴんと来るのも悪くないな。

ちょうど祭りのときだったけど、夕暮れ時のどこか物寂しい土手だった。そんな一時がひどく懐かしいと感じるのはいつしかもうその祭りに行かなくなったからだろうな。


もう、.....よく覚えてない。


彼と歩いていた。誰だろう、そう思いながら隣をただひたすらに無言で歩いている。その横顔は、どこか何かを懐かしむような顔をしていた。その背中を見て、心が絞れるように寂しくなるのはなぜだろう。しばらく彼の背中を追って歩いた後、懐かしいあの空き地についた。夕暮れの茜色の空に、横に並んだカラス達がバランスを取りながら、鳴き声を発しているのがひどく心に残った。空き地の横にある茂みには、ぽつんとぬくもりを待ち続けてすたれた小さな家がまだ残ってる。彼はそのそばのコンクリートの廃材に座った。そしてそれを傍目に見ながら、落ち着いた声で話しはじめた。


 「俺の名を知っているか?」


 「はい?」


突然の声に肩が揺れる。いきなり意味の分からないことを言う。


 「……..知りません。」


応対したものの、少し怖かった。何かすべてを見透かしそうな目でこっちを見つめる顔が、どうしても目をそらしたくなる。

彼がふと笑みをこぼす。


 「そうか、そうだよな」


 「………私たち初めて会いましたよね、あなたこそどなたですか?」


彼はすっと立ち上がる。座っていたコンクリートの廃材に影を残しつつ、私の目の前に来た。


 「覚えているか?」


男はそう言って茂みの近く、私の視界の右端に場所を移す。

あの小さな家は静かに座る男に黙って寄り添っている。


 「……ずっと覚えてもらうって難しいんだ。」


ぽつんと一つ小さくつぶやく。

 「……いきなりなんですか?……何のことです?」


彼は表情を変えず私を見続ける。


 「いや、そうだな…….君のおじいさんのおじいさんを

                  君は覚えているか?」


頭に?が浮かぶ。


 「覚えているわけないでしょう?そもそも知りませんし。」


ただ答える。


 「そうだよな、うん、そうなんだよ。」


彼は静かに頷いたようだった。


 「情景や印は時間の営みの中でともに、

    すっと静かに消えていくものなんだよな。」


 「…..はぁ、…….そういうものなんじゃないですか?」


いきなりどうしたというのだろうか、わからずしどろもどろに相打ちを打った。




 「あの、…….聞いてほしい話ってそれだけですか?」


 「そうだ、ただ声を聴いてほしかったんだ、俺がいたという”声”を。」


 「あなたの、”声”?」

……彼はおもむろに立ち上がると静かに後ろの茂みに向かい会った。


 「君が生きるあの世界でかつてから懸命に生きる者が

    星の数ほどいて、繋いでいるということを

                   どうか忘れないでほしい。」


此方を見ずに話す彼の顔色は、うかがえない。


 「もう俺たちを覚えてくれている人はいない。」


 「唯、生きていただけだった、たったそれだけだけど、気づけば俺たちは溶け込んでいた。何者であったって”これ”は逆らうことができない。」


そういってたった一人、夕日の光を浴びて、立ち続ける名も知らない彼は、唯そこにあった。下に垂れ下がる手は、何かをつかんでいるようなつかんでいないような、曖昧な動きを繰り返していた。


言葉が出ない。彼は私に何を伝えたいのだろうか。

声が詰まる私の視線の先の彼は、陽炎のようにこの世界に溶け込んでいた。うん、そう例えたほうがいいかもしれない。陽炎が見える夕暮れの中、彼はぼんやりとその姿をにじませていったように見えた。その光景に対して、どこか同情心のようなものが次第に心に満ちていく。彼の目は遠い過去を見て、哀愁に浸っている。その目は私を見ていたが、私を視てはいなかった。いつまでこの夕焼けは続くのだろう、そう思いながら滲む汗と一緒に、視線を離すことができなかった。

微かにほほ笑む彼に送った言葉は、沈黙というこの世界の”声”だった。彼は、ゆっくりと空を見上げ始める私に、ただ目線を合わせ続けている。彼がゆっくりと下に沈んでいく。

その顔は微かに笑っていた。


影法師が見えた。

「過去があって君があるということを、ただ知ってほしかった。」


声が響いてくる。……..なんだろう、ひどく懐かしい感覚だ。彼とは一度もあったことなんてない。でも茜色の空からは、ひどく懐かしい匂いや温度が伝わってきた。

揺れる波から差しこんでくる夕焼けが、光芒(こうぼう)のようにみえた。ツンとする鼻の奥に残る匂いは、私を私たらしめる。私という存在なんて考えたことが無かった。ただそこにあるものとして、当然のものとしてあったのだから。過去の流れを感じさせるこの身体に、どこか安堵感と後腐れのない気分をもつ。過去から続く時の流れをただ感じ続ける。


思考の波にのまれる。暑さなど忘れてその感覚が一層押し寄せる。

私は、彼になんて声をかければよかったんだろうか。

彼は彼だけど一人じゃなかった。

人間はこの世界で、すべての人の名を残すことはできない。

骨なんていつかは自然に還る。彼は微かに笑っていたけれど、あの時の哀愁の顔はきっと忘れない、いや、忘れられない。


じっくりと世界が滲んでいく、嗚呼、私も滲んでいく。すべてが溶け合って、あの暑さも輝きも全部が溶け合ってく。こうしてこの世界がゆっくりと私に別れを告げてる。


遠くからベルの音が聞こえる。

いつも通りの朝が来た。遠くから貨物のきしむ音が聞こえる。天井に見える波が、私が私である証に見える。


 窓を開ける。

いつも通りの風が吹いてくる。地平線の向こうにやんわりと陽炎が見えた気がした。風になびく煙と波が、時の流れを感じさせる。

私は、私であるために今日、この時をかみしめていく。


そう決めた。過去を背負い、いつかこの名が消えても

私が私であったと感じれるように。


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