ピノ・ノワールの幻影
Liberoの店内は、夏の始まりを思わせる乾いた夜風と、かすかなジャズの残響に満たされていた。
詩乃が扉をくぐったのは、そんな土曜の夜、少し遅めの時間帯だった。
「こんばんは。一人、です」
はじめての店にしては、やけに落ち着いた足取りだった。
けれどカウンターに腰を下ろしたあと、少しだけ迷うようにメニューを眺め、そして言った。
「……あの、ピノ・ノワールなんて、グラス売りしてませんよね?」
マスターが顔を上げて、柔らかな笑みを浮かべる。
「ん? 産地がどこでもよければありますよ。お客様、ピノ・ノワールお好きなんですか?」
「はい。……特別、思い入れがあるというか」
詩乃は照れ隠しのように笑った。
その仕草にマスターは、少しだけ目を細めてうなずく。
「じゃあ、ブルゴーニュのいいのを開けましょう。少し、お待ちを」
詩乃が慌てたように手を振る
「そんな、お気遣いなく。チリ産とかで全然、大丈夫ですから」
「いえいえ」
ボトル棚に向かいながら、マスターが静かに笑う。
「うちのご常連様が、素敵な女性と“同じピノ・ノワール”を楽しめる機会を与えてくださって……本当にありがたいことです」
カウンターの端でくつろいでいたスーツ姿の男が、少しだけ顔をしかめる。
「……ちょっとマスター、俺まだ飲むって言ってないんだけど」
「でも、飲みますよね?」
「まぁ、飲むんだけどさ」
静かな笑いが交差し、ゆったりした間口のグラスがカウンターに並ぶ
そして、グラスに注がれる、淡く澄んだ紅のしずく。
──詩乃は、その色を見つめていた。
それはもう、何年も前に見た、ある記憶の色と、まったく同じだった。
詩乃は、グラスに注がれたピノ・ノワールを両手で包み込むようにして、ぽつりと話し始めた。
「わたし、新卒で入社した商社にも慣れてきた頃……“仕事帰りにワインバーにふらっと寄る、できる女”みたいなのに憧れて、ワインを勉強し始めたんです」
苦笑するような、でもどこか懐かしそうな声だった。
「……笑っちゃいますよね」
マスターはグラスを拭く手を止めずに、穏やかな口調で応じた。
「いや、いいと思いますよ。初心者が“形から入る”のは大事なことです。特にワインみたいに、入り口が難しいものは」
その言葉に、常連が思わず反応する。
「ちょっとマスター。それ、俺が初心者だったときには、グラス回しすぎだの、産地の話が浅いだの、めっちゃ手厳しかったじゃん」
「愛だよ。愛」
マスターはしれっと返す。
詩乃がふふっと笑い、続けた。
「それで、ある日……初めて入ったバーで、カウンターに座ってた男性がいて。”ブルゴーニュのピノ・ノワール?せっかくだから、それにしようかな”って言ってて」
そのときの空気を、思い出すように瞳をいっとき閉じる。
「なんか……お得っぽい気がして、“私もそれください”って。ワインのこと、よくわかってなかったのに」
マスターは、静かにうなずいた。
「いいチョイスですね。便乗してオーダー、店としてもありがたいし。初心者こそ、それでいいんです」
「今日の主審、判定甘いんですけど?」
常連が突っ込むと、マスターはさらりと返す。
「うちVARじゃなくて、BARなんですよ」
「ぐぬぬ……」
その言葉に、詩乃はふっと目を細めた。
グラスの向こうの揺れる液面が、何かを語りかけるように静かに揺れている。
ほんのわずかに透けるルビー色。
それは、初めてこのワインを口にした、あの夜の記憶とまったく同じだった。
──────────
あの日はたしか、雨が降っていた。
傘を持たずに会社を出て、濡れたまま駅まで走って偶然見つけた、名前も知らないワインバー。
そのカウンターに、彼は座っていた。
お洒落すぎて落ち着かない初めての空間。
落ち着いたトーンの、彼の何気ないひとことが空気を柔らげた
「ブルゴーニュのピノ・ノワールあるの?
せっかくだから、それにしようかな」
詩乃はなぜか、その言葉に救われた気がして、反射的に言った。
「わたしも、それください」
彼の端正な横顔、静かで落ち着いた語り口、ワインの知識も豊富で、どこか遠い世界の人のようだった。
その晩は他愛ない話をした。
好きな本のこととか、社会人になってからの失敗談とか。
それがなぜか、とても楽しかった。
そして、別れ際のこと──
「また会えたら、いいですね」
ただ、それだけ。
それだけだったのに、なぜかずっと心に残っていた。
────────
「…… あれから、何度か同じ店に足を運んだんですけど、彼の姿を見ることはなくて。
しばらくして、転勤になったらしいと、他の常連さんから聞きました」
マスターと常連客は黙って聞いている。
「今日いただいたピノ、とても美味しいです。香りも味も複雑で…たぶんあの時初めて飲んだピノ・ノワールより数段上なんだと思います。でも、どうしても比べてしまうんです」
マスターが神妙な顔で頭を下げる
「カウンターに座っている男のビジュアルまで気が回らなくて申し訳ありません」
「審議!写真判定!」
詩乃は愉快そうに軽く笑いながら語りかける
「ふふ、ほんとに仲良しなんですね。お二人を見ているだけでとっても良いお店だってわかります」
マスターが考え込むように語り始める
「ピノって、難しいワインですからね。
今日のが“上”だったかどうかも、実のところ怪しいんです」
「でも、複雑で……余韻も長くて」
「そう。けれどピノって、足りない部分すら魅力にしてしまうんです。一枚の絵の“余白”みたいにね」
「……じゃあ私は、最初に“最高”に出会ってしまった、ってことなんでしょうか」
「そうかもしれないし……その夜の記憶ごと、ピノと共に閉じ込めてしまったのかも。
深く知らないままの誰かを、いつの間にか特別な存在にしてしまう──
ピノ・ノワールという器のなせる業ですが」
詩乃は、少しはにかんで笑った。
「……お洒落なバーで、物腰の柔らかい横顔のきれいな人がワインを語っていて。
“ああ、なんだかいいな”って、あの時、思ったんです」
わずかに間をおいて、詩乃がふっと笑う
「……あの頃の私には、ピノ・ノワールは、ちょっと早すぎたのかもしれません」
マスターはグラスを軽く回しながら、しみじみとつぶやいた。
「ピノっていうのは、そういうワインかもしれませんね。
最初に出会った一本が、ずっと“基準”になってしまう。
本当は、何度も超えるものに出会ってきたのに」
「……それでも、記憶の中では、なぜかいちばん美味しかったような気がする」
「ええ。まさに、そんな感じです」
詩乃がそっとグラスを持ち上げた。
グラスの縁に唇を寄せると、淡い果実の香りがまた少しだけ、あの日の記憶を呼び起こした。
そして、ほんの少しだけ微笑んで、口を開いた。
「……でも今日、このピノを美味しいって思えたことで、ようやく、あの夜を越えられた気がします」
皆、静かにグラスを傾けた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【ピノ・ノワールの幻影】
はじめてきみと出会ったとき
天から鈴の音が聞こえた
ああ この人だったんだって
きみの名はピノ・ノワール
気品のある澄んだまなざし
どこか儚げなほほえみ
ひさしぶりにあうきみは
どこかよそよそしかった
遠くにいるような
もしかして 他に誰かいるのかな
きみの名はピノ・ノワール
遠くを見るまなざし
どこか冷たいほほえみ
ああ だから好きなんだね
きみの名はピノ・ノワール
気品のある澄んだまなざし
どこか儚げなほほえみ
〜〜〜〜〜〜〜
https://kakuyomu.jp/users/sabamisony/news/16818622177712801632
※この作品に登場する楽曲
「ピノ・ノワールの幻影」は
実際に音源化されています。
作詞は作者、作曲・演奏はAI音楽ツール「Suno」によって生成。
小説とともに、“唄”としても味わっていただけたら幸いです。
https://suno.com/s/f9jhb0YHBkyt866y
BAR「Libero 」 🎼歌と酒の短編集🍷 sabamisony @sabamisony
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