第5話



 ドンドン、と扉が叩かれる。


 五月蝿いなぁ……とぼんやり思っていたら人が話す気配がした。

 扉が閉まる音。

 ベッドの方へ戻って来た同居人が着替えている音がして、イズレン・ウィルナートはベッドを仕切っていたカーテンを開く。

「メリク……? ……どうした……何かあったのか……?」

「イズレン。ごめん、起こして」

 イズレンは眼を擦っている。

「いや、いいけど……どうした?」

「僕にもよく分からないんだけど……今、応接室の方にオズワルト様が来てるらしいんだ」

「オズ……軍部大臣か? ……こんな時間に何だろう?」

「分からないけど……。とにかく行って来るよ」

「……俺も行こうか?」

 メリクは眠そうなのにそう言ってくれた友の一言に、目を瞬かせて小さく笑った。

 その背を優しく叩く。

「ありがとう。でも大丈夫だよ。あの人は僕の後見人だから」

「そっか。分かった」

「鍵かけて行くから。寝てていいからね」

「おう」



 魔術学院の応接室に向かうと扉の前で見知った男が立っていた。

 オズワルトの侍従だ。

 一礼すると彼は固い表情で「中でお待ちです」と言っただけだった。

 扉を開く。



「メリク殿」



 入るなり、立って部屋の中をウロウロしていたらしいオズワルトが足早に近づいて来る。

 いきなり手を取られメリクは戸惑った。

 冷静沈着なオズワルト・オーシェが、これほど感情を露にしている所をメリクは初めて見た。

「よろしいですか。誰にも聞かれる心配は無いため、全てを包み隠さず答えて下さい。それが貴方のためなのですから」

「は、はい……」

 立ったまま、オズワルトはメリクに詰め寄った。



「――リュティス殿下にお会いして参りました」



 その言葉とオズワルトの態度を照らし合わせ、メリクの表情に表われた感情にオズワルトは思わず安堵する。

 それは予期したものだったからだ。

 これで予想を外されたら、メリクにもすでにあの第二王子の毒が回っていると判断する所だった。


 サダルメリク・オーシェの驚異的な所は、あの第二王子と一対一の時間をこのサンゴールで最も多く過ごしているのに、彼に毒されることも無く、あの絶対零度の氷の気性に飲まれることも無く、今もそのままに存在することだった。


 精神修行を積む魔術師でありますから、などという理由では説明出来ない頑強さが、この少年の中にはあるのかもしれない。


「私は、殿下と貴方は固い師弟の絆で結ばれていると思っていたのです。いえ、サンゴールの人間全てがそう考えているでしょう。

 第二王子の唯一の愛弟子サダルメリク・オーシェ」


「……。」


「……だがあれは。リュティス殿下のあのご様子は……、弟子どころかむしろ」


 メリクの存在を憎んでいる、と表現しても過言ではなかった。


 そう言おうとしたオズワルトの目にメリクの水気を帯びた瞳が入って来て、彼はハッとした。


「………………いや……、申し訳ない。突然不躾だった」


 メリクの手を放して、オズワルトはそこへあった椅子に腰掛ける。

 心を鎮めるように彼は額を押さえて深く息をつく。




「メリク殿。……第二王子と貴方は不仲なのですね。いつからです」




 答えが無い。

 十年前のあの神儀から、リュティスの方は心を決めていたとしたら。

 メリクはいつからリュティスの敵意を感じ始めたのか。

 見上げたメリクの何とも言葉が出て来ないような表情は、その時間が短くは無いことを物語っていた。


「随分前からなのですね」


「……。」

 最初からだとメリクは言えなかった。

 最初から僕は、あの人に一度も好かれたことは無いのだと。

 はっきり言ってしまいたかったがメリクは沈黙した。

 本当に説明の言葉が見つからないのもある。


 自分のリュティスへの執着が愛にあることなども、話せるものではない。


「……私でさえあれほど殿下の怒りを感じたのです。弟子として直に師事を受けた貴方は、さぞかし生きた心地がしなかったのでは」


「オズワルト様をお怒りになられたのですか?」


 不意に、メリクは驚いた表情をした。

「……申し訳ありません! 僕がきちんと、オズワルト様にお伝えしなかったばかりに」

 自分の前に深く頭を垂れたメリクに、オズワルトは少し波立っていた自分の心を省みる。


 リュティスがあの様子なのに、無力な子供だったメリクに一体何が出来ただろう。


 オズワルトは後見人として見て来た、これまでのメリクの人生を振り返って思った。

 実際分からないと思うことはあっても、オズワルトも周囲もメリクがリュティスに憎まれているなどと思った事は一度も無い。

 もとよりあの第二王子は誰に対しても冷酷な態度はとったからだ。

 だから遠ざけられるメリクを見かけた所で、特別妙だとは思わなかった。


 だが今日リュティスから感じたのは、妙だと思うほどのメリク個人に対する嫌悪感だった。

 

 リングレーの平民を相手にさせられることが、それほど第二王子の挟持を傷つけていたのかと驚くほどだ。そもそも幼い頃に【魔眼まがん】に関わる因縁で彼個人の矜持など、とっくの昔に砕かれていたと思っていた。

 母親である王妃は第二王子を一度として、自分の子として認めずないがしろにしたからだ。

 だがあれほどの敵意を向けられる関係性が今日まで暴かれなかった理由はただ一つである。


 ――メリクがそれを周囲に悟らせなかったのだ。


 相手は自国の軍部大臣に謁見中傷を負わせた所で平然としているような神経の持ち主である。

 弟子との不仲を隠す努力など死んでもしないだろう。


 対するメリクは女王と第二王子との関係もある。

 後見人である自分への義理もあるだろう。

 その他にもあからさまに第二王子と対立をすれば、瞬く間に火の粉を振りかけてしまう相手が彼は多すぎた。


 立場としても考えても、メリクにはリュティスに対して全て膝を折ることしか選べないだろう。

 理不尽な怒りを与えられ、罵られてもひたすら耐えるだけ。


 魔術学院入学、宮廷魔術師団入団、折りあるごとに彼は「我が師」とリュティスを立てて来た。

 師への感謝、女王への恩義、後見人たる自分への礼。

 感情を一切隠さない師と違い、メリクは徹底して一貫している。


 恐らく耐え忍ぶ、という表現が相応しかったはずの第二王子との師弟関係をひた隠し、それでいて、心が折れることなく勉学に励みここまで魔術師としての自力を身につけた。


 メリクという少年にオズワルトは初めて大した人間なのかもしれない、という感情を抱いていた。



(サダルメリク・オーシェ……)



 あれほどの憎しみを向けられ尚、師であると腰を折る姿勢は、国に忠義を尽くす騎士道精神とも通じる所がある。メリクの人間性は、信じるに値するものだ。

 人格を問わずメリクは礼を尽くすつもりなのだ。

 名ばかりの師であるあの第二王子に。



(確かに彼は、リングレーの辺境に生まれた平民に過ぎない)



 だが人格は清廉で、きちんとした我を貫く、強さも持っている。

 これは玉座の守護者としての、確かな素質の一つだった。

 女王アミアカルバはメリクを寵愛している。彼女はメリクの出自など拘らず、その才を評価していた。

 だが第二王子リュティスは今日話した中でも、何度か女王アミアカルバを軽んじるような発言をしていた。

 国務に関わることも許さぬ下賤、とメリクのことを躊躇いなく言ってのけたあの第二王子といた所で、メリクにサンゴールにおいての輝く未来はないに決まっている。


 リュティスははっきりと言ったのだ。


 今後メリクの存在が自分の目障りになれば、消すことに躊躇いは無いと。

 そんなことを、メリクを寵愛する女王アミアカルバは決して許さないだろう。


 第二王子リュティスと、女王アミアカルバ……。


 サンゴールの未来はやはり二分されるのか?


 オズワルトは自分の中の秤でその価値を測った。




「……。……メリク殿。……顔をお上げなさい」



 メリクは恐る恐ると頭を上げる。

「……いや、貴方が謝るべきことではない。正直私も貴方の出自に対して今も尚、殿下がそれほどのわだかまりを持っておられるとは、想像していなかったのです」



『魂の下賤』



 リュティスから浴びせられた一言を思い出しメリクは思わず目を閉じた。


 やはり、そういう話になったのだ。


 メリクの努力も、成長も、忠誠も、そんなことはリュティスにとっては何の意味も無い。

 彼はただ血一つでメリクの全てを否定して来た。

 卑しい血が流れるメリクが王家に関わるというその事実一つで、メリクの存在を憎んだのだ。

 

「されど、女王陛下は貴方を本当に愛されているのです。その間に挟まれれば、貴方は無言を貫こうと考えられるのは当然のこと。貴方は間違っていません。いいえ。サンゴール王家に争いを生まぬようにこれまでよく辛抱された」

「……。」


「……残念です。殿下もせめて……貴方だけは信じる強さがおありならば」


 ぽつり、と零したオズワルトの一言にメリクは彼の顔をじっと見ていた。

 しかしオズワルトは一つ息をついて立ち上がると、立ったままだったメリクの正面にやって来て、彼の方からもメリクの方を見下ろして来た。


「……つよさ……?」


「……そう、強さです。私は以前貴方に言いましたねメリク。第二王子が冷たいのは竜の血の業がそうさせることであって、仕方のないことなのだと」

 こくりとメリクは頷く。


「殿下がお持ちになる力を思えばあの方が人を遠ざけるのも仕方のないこと。わたしはそれを冷酷だとは思いません。私とて、目を合わせただけで周囲の人間に傷を刻むなら、瞳を上げるのを避けるようになるでしょう。当然です。

 そして父君も兄君も早くに失われた殿下のお心が、唯一人その血の中に身を置く辛さ、理解者を得られぬその状況が、尚更孤独に駆り立てるのも理解出来ることです」


「……はい」


「――――ですが、そうならばなおのこと……貴方のことだけは信じるべきだった」


「オズワルト様……」

「貴方という誠実な人間が国という枠を越えて、ご自身の前に現われたことを幸福だと思うべきだった」

「……僕は……、僕などは」

 首を振ろうとしたメリクの片手を、もう一度オズワルトはとった。


 こうしてメリクが必要以上に自分を卑下する癖もリュティスの厳しい視線に晒される中、自然と身に付けてしまった処世術なのだろう。

 あの王子に対しては、ひたすら敵意が無いことを示すことしか出来ないのだから。

 本来その価値も無いものに深く頭を下げ続けながらも、後見人であるオズワルトの期待を裏切らず、宮廷魔術師にまで成長したメリクに対して、オズワルトの心境は急速に傾いていた。


「私は、才能ある人間が、

 出自を問わず才能があると尊ばれることを、

 決して間違いだとは思いませんよ」


 オズワルトの大きな手の平がメリクの栗色の髪に触れて、まるで父が息子にするように優しく撫でた。

 オズワルトは昔から後見人として、いつも子供であるメリクにも敬語を使い、一人の人間として尊重してくれる人だった。

 彼がこれほど自分の心を表に出して、メリクに接してきたことはない。


「貴方はそう、こんな言葉すら拒まれるのでしょうが……。ですがこの際はっきりと申しましょう。――――リュティス殿下は間違っておいでです」


「オズワルト様」


 怯えを滲ませて首を振るメリクに、オズワルトは優しく笑いかけた。


「間違っておいでなのです」


 その瞳にはきちんと心を見つけられた。

 メリクがいくらリュティスの目を心を込めて見つめても、微塵も見つけられない、こちらへの想いを。



「貴方という人間を信じられないようでは、あの殿下も終わりだ」



 ただの人の遣り取りではない。

 軍部大臣だ。

 彼が第二王子を公に批判すれば、それは政治的な意味を含むことになる。

 それが分からぬ人ではないのに、オズワルトははっきりと言葉を重ねた。

「私は、メルドラン王にお仕えしたことを今でも誇りに思っていますよ。メリク」

 メリクは目を微かに見開いた。


「あの方も内外に色々と言われる王ではあった。

 しかし私は共に戦場に立ち、前線で自ら剣を振るわれる王の姿を見て、

 王の自覚のある方なのだということを知りました。

 ……その王の、唯一の願いであった王妃への愛情が他の誰でもない、

 王妃ご自身の手によって無惨に拒まれたことが、

 私は臣下として無念でなりません」


 オズワルトの言葉はメリクの胸を抉った。


 メルドラン王と王妃の悲恋は知っている。

 冷酷な王が唯一深い愛を捧げた女性。

 だが彼女は異形の王を嫌い拒んだ。

 彼に酷似して生まれついた第二王子も拒んだ。

 ……妾妃の一人すら作らなかったメルドラン王を拒んで、

 彼女は一体何を守りたかったのだろう?


 同じ血を引く兄王子のことは溺愛したというのに、ただ姿形だけでリュティスを遠ざけ、彼の心に一生消えない傷を刻んだ。


 血はあるのに拒まれたリュティスが……何故、血を口実に自分を否定するのか理解出来なくて、苦悩した時期もあった。


「王が王妃の愛を受けていたら、どれほどその魂が救われていたかと。……絶望と戦いばかりのメルドラン王の一生がそれだけで報われていたはずなのにと。今でも思います」

「……。」

「だからこそリュティス殿下は間違っておられると感じる。貴方のような人間が師と慕っているのならば、貴方のことだけはその心で報いるべきだった。

 どれほど想ってもそれに報いられなかった方がいるのですから。救われぬまま亡くなった方が」


 メリクはオズワルトの言葉に心を陰らせる。


 脳裏に思い浮かんだのは兄グインエルの肖像画を一人見上げるリュティスの姿だった。

 ミルグレンの側にいる時、リュティスが纏う空気だ。



(それは違う)



 リュティスという人間が持つ真実は、そんな簡単なことではない。

 幾重にも幾重にも分からないように閉じられていて、長い時間をかけて共にいなければ見えて来ない真実を幾つも持っている人なのだ。

 確かにそうかもしれない。

 どれだけ愛に飢えたとしても、ただ一人に愛を受けてもらい、向けることが出来れば救われることがある。

 でも。


(リュティス様はすでにそのお一人を持ってらっしゃるんだ)


 兄王子への思慕と敬意が、そのままリュティスの国に対する犠牲と献身に結びついている。

 それを知る者はごく少ないが。


 だがそれが真実なのだから、……もういいのだ。

 大丈夫なのだリュティスは。


 女王アミアカルバがグインエルの志に反した行いをしない限り、彼女のことはリュティスがきっと支えていく。

 そして王女ミルグレンがこの先サンゴールでどんな意味を持ち、どんな立場になろうと彼女のことはリュティスが見守って行くのだ。


 リュティス自身の憂いと自分の憂いが遠く離れていることを、メリクはあの日、人を初めてこの手で殺めた日に……その後礼拝堂でリュティスと言葉を交わした時に痛いほど、明確に理解したのだった。


 リュティスはとっくの昔に救われ満たされている。


 リュティスが満たされているのに、メリクが満たされていない矛盾が、

 リュティス様が幸せなら僕も幸せだ程度に想っていた、

 純粋だった頃の自分の願いとあまりにかけ離れていて――、


 メリクが何より苦しんでいるのはつまりそういう、

 ままならない自分に対してなのだった。


 第二王子に歪んだ想いを募らせる自分が嫌で、彼から遠ざかることで何とか自分の心の平穏を保とうとしている。

 そんな日常にも嫌気が指してすでに短くはないが、それについても、もう半ば諦めていた。


(ただ僕は)


 愛されたいんじゃなくて、敵になりたくないだけだ。


 今となっては。


 だからどうすればリュティスが自分を敵だとは思わないのかは知りたい。

 それだけだ。

 玉座もミルグレンも望んだことは一度も無い。

 それを得てリュティスに信頼されると言うなら死に物狂いでも取りにいくが、それは決して無い。



「……私は今宵リュティス殿下にお会いして心を決めました。」



 オズワルトは真っすぐにメリクを見る。


「殿下か、貴方か」

「……」

「私は貴方に決めた」


「……決める……とは」


「サンゴールの、未来を託す方をです」


 メリクは息を飲んだ。


「オズワルト様」


 現実を重んじる、サンゴール王国の重鎮の一人と言っていい軍部大臣である。


 その人が自分を信じる?

 ……未来を託す?

 ……この国の?


「メリク殿。ご自分を、サンゴールの血脈に無い、迷い子などと思ってはなりません」


 しっかりと握られた手が熱い。


「貴方は血はなくとも立派にこの国で生きて来られた。この国の王家や未来を慮って生きて来られた。ご自分は無力だと思われていたとしてもです。

 周囲の人間は貴方をそうは見ていない。見えていないのはあの殿下だけなのです。

【金の指輪】は貴方の生きて来た道が確かなものである証になる。

 第二王子も授与を許可された。……だがそれは関係がない。

 貴方は貴方の為に、何も迷わず、憂うこと無く、これをお受けなさい。

 貴方にはこれを受けるだけの価値がある。だから受けていいのです」


「……。」


「ご自分のこれからの新しい道の一歩だと思って」

「……。」


「第二王子殿下と貴方の道が重なることは…………恐らくもう無いでしょう」


 オズワルトは今日感じたことを、はっきりと口にした。

 メリクの瞳が揺れる。


「何も無いか……あるとすれば、それは必ず争いの道になるでしょう」



 絶望の未来が近づいて来る。

 その気配が、日ごとに強くなる。



「……ですが私はその時が来れば貴方に助力しましょう。

 私が貴方につくということは、サンゴール騎士団が貴方を守るということです。

 お分かりか」


 オズワルト・オーシェはサンゴール騎士団に対して、今でも絶対的な影響力を持つ。

 彼がそう言うなら確かに騎士団はそう動くだろう。


「そして女王陛下は聡明な方。必ずサンゴールを正しく導く選択をなさるはず。

 何故ならあの方は、貴方がこのサンゴールに来てどのように生きて来られたかを誰よりもよくご存知なのですから。

 固く結びつく縁を姿形、血一つのことで冷血に切って捨てる方に玉座を委ねるような方ではない。それは、先だっての騒動でも態度でお示しになられた」


「……」

「宮廷魔術師団は、確かに今は第二王子殿下の支配下にありますが、彼らとて真理を追究する使徒としての誇りがある。説得を試みれば、決して貴方の敵にはなりますまい」

「……。」

「私は貴方に野心を持てと言っているのではないのです。メリク。玉座に座れとも、権力を得る為に王女ミルグレンと結べとも言ってはいない」

「……」




「貴方は貴方であるだけで、貴方を守りたいと思う人間はいるということなのです」




 その言葉は、ぐっと、胸に込み上げて来るものがあった。



 ――貴方が貴方であるだけで。



 オズワルトほどの人物が自分に対してそう言ってくれている。

 この自分――、幼い頃から何一つ変わらない、身の程知らずな想いに囚われているような人間に対して。


 同じ言葉をリュティスに言ってほしかった。


 そうしたらメリクはもう、この世の何も必要だとは思わなかっただろう。

 それこそ疲れ果てた魂が一瞬にして報われたに違いない。


 だがそれは夢だ。


 決してこの世では叶わない夢なのだった。


 メリクも、何も自分を意味なく卑下するだけではない。

 このオズワルトやエンドレク・ハーレイ、

 イズレンやミルグレンから向けられる瞳に時々、

 自分という存在も絶望するばかりのものではないと。


 こんなに素晴らしい彼らから、優しい瞳を向けてもらえる自分ではないかと、言い聞かせてやりたくなる気持ちになることだってある。

 彼らの存在はこの世界で確かにメリクが思い悩みながらも、闇に飲まれ尽くして来なかったという証だ。


 だがいくら慰められた所で、いずれ自分の存在がサンゴールにおいてリュティスの存在を脅かし、敵となり、彼を失うようなことになったら、必ず自分は後悔するだろう。


 エンドレクをもう一人の師のように思ったこと、

 イズレンからの友情、

 ミルグレンの笑みに心を溶かされたことも。


 リュティスの敵となる道を選んだ自分を決して許さないだろう。


 憎み続けるだろう。

 闇に堕ちるだろう。


 自分だけは、不仲だと思われているサンゴール王家の兄弟が、

 兄が弟を想い弟が兄を慕ってたことを知っていた。

 あの第二王子が誰も知られない所で、自分の力を以て国の敵を葬っていること、人をきちんと愛せる人なのだということを知ってる。

 知っているのに彼と袂を分かち合ったことを決して許さないだろう。


 胸を刺すほどに惹かれながら、裏切ったことを。


 メリクは込み上げて来た涙を隠すように顔を伏せた。


 ……それでも、オズワルトの言葉は、それでも心に残った。


 自分もサンゴールで生きて来た証が、

 第二王子には決して評価されないそれが、初めて誰かに認めてもらえた気がした。


 リュティスの側にいた所で彼はメリクの存在を決して認めないため、メリクは自分がいてもいなくても変わらない、そういう人間なのではないかという想いに囚われることがある。


 自分という自我。

 それをいつだって従属させて来た、狂おしいまでの想い。


「…………オズワルト様は…………どうして僕をそんなに評価して下さるんですか……?」


 オズワルトは目を瞬かせた。そしてすぐに笑う。

 両手でとったメリクの片手に力を込める。


「私は貴方がどのように誠実に生きて来たか、それを近くで見て来たからです」


 この人の手を今取れば……いつかこの手を携えて、自分はこの人とリュティスを討つことになるんだと思った。


「貴方の心が真っすぐであることを私は知っています」



 真っすぐなんかじゃない。


 心を一つ開けばきっと幸せになれた。


 アミアカルバにもミルグレンにも、もっと何かしてやれたとも思う。

 王都で苦しむくらいなら、共に王都を出ようと言ってくれたイズレンに対しても、ありがとうと心から笑んで、身体を抱き寄せることが出来ただろう。


 リュティスへの敬愛を何か、免罪符のようにして……。


 彼への愛があるのだから、他の人間からの想いは後回しにしても、犠牲にしても、仕方がないというように思って来た。それをメリク自身は知っている。


 確かに自分は、唯一の人をずっと思って来た。

 だがその反面、誰のことも想えない冷酷な一面も兼ね備えているのだ。


 心一つ開けば幸せに出来た人間は沢山いたのに、

 結局誰にも心を開いてやることは出来なかった。


 だからオズワルトの言う『メリク』も本当のメリクではない。

 この人は本当の自分に賭けているわけではない。

 メリクが、自分は第二王子に死ねと言われれば死んでもいいのだ、

 それを幸せだと本当に思えるのだ、あの人が自分に望むことなら他の何を投げ捨ててもそれを叶えたいからと言えば、オズワルトもメリクに瞬く間に失望するに決まっている。



 自分にとって大切なのはサンゴールという国ではないのだ。

 この国を一番に想う人間とは、メリクは決して心が重ならない。

 結局リュティスが一番、確かにメリクの本性を言い当てている。




 そういう人だから、冷酷ささえ信じて、愛した。


 自分がこの世で選び取るのはいつだってたった一人しかいない。




 メリクはオズワルトの手を取った。


「ありがとうございます、オズワルト様。心から感謝します」


 オズワルトはメリクの同意を得たと考え、優しい表情で大きく頷いた。

 重なる手に、熱と力が返って来る。

 それは心が返って来ることと同じなのだ。



 オズワルト・オーシェ。



 良き後見人だった。

 難しい立場だった自分を幼い頃から後見して、煩わしい言葉を他から浴びせられたことだってあっただろうに、オズワルトは決してそんな素振りをメリクに対して見せなかった。

 いつだって頑張りなさい、見守っていますよと力強く肩を叩いてくれた存在だった。


 メリクはそのことだけは、決して忘れないようにしようと心に思った。


 感謝も真実だ。


 サンゴールでの見果てぬ未来に、もはや自分自身すら見通せないが、それでもオズワルトに貴方は貴方でいいのだと言ってもらった一面も、自分の中に確かにあったのだと忘れないようにしよう。


 闇に包まれそうになったら、思い出そう。

 光を見出す力にしよう。


「ありがとうございます」


 心を込めてもう一度オズワルト・オーシェの手を握り返す。




 ――そしてメリクはこの時、オズワルトと心の中で永遠に決別したのだった。




【終】

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その翡翠き彷徨い【第41話 軍部大臣、動く】 七海ポルカ @reeeeeen13

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