第5話 誰にも届かない言葉、それは万葉町で生まれた

 秋の京都。

 朱塗りの鳥居が連なる小道の先、木漏れ日の差す静かな社の一角に、それは開かれていた。


 ──全国高校生連歌大会。


 境内の一隅に設けられた特設舞台。そこには、晴れやかな表情を浮かべる高校生たちが並び、歌を詠み合う様子があった。


 ただの言葉遊びではない。

 そこには、百人一首をくぐり抜けた者たちの覚悟と、自らの感性をぶつけ合う“真剣”があった。


「……すごいね、なんだか、別の世界みたい」


 出番を待つ控室。

 少し緊張した面持ちでそう呟いた私に、春樹くんは、手にしたノートを閉じて振り返った。


「うん……。でも、言葉って、いつも“別の世界”に行くためにあるのかも。そう思うと、ちょっと、楽になる」


 その言葉に、私は思わず笑ってしまった。

 まったく、天然なのか、詩人なのか。

 でもきっと、そのどちらでもあって、どちらでもないのだろう。


 私たちの番が近づいてくる。

 心臓が高鳴る。春樹くんの手が、ほんの少し震えていた。


「春樹くん」


「うん?」


「大丈夫。……あなたの“ことば”、私は好きだから」


 その瞬間、彼の目がわずかに見開かれた気がした。

 それから彼は、ほんの少しだけ、笑った。


「ありがとう。──じゃあ、“風”に、乗せてこようか」


 私たちは舞台の上に立った。

 まばゆい照明に目がくらみそうになる。観客の顔は見えない。でも、ざわめきは確かに感じる。数百年の歴史を背負った言葉たちが、今この場所に、静かに集まっていた。


 春樹くんが先に一首、詠んだ。


 ──「白露の ひとしずくこそ まどろみの 君をおもえば 夜もふけにけれ」


 客席が静まりかえる。

 その一首は、技巧に頼らぬ素朴な調べで、どこか幼さを残しながらも、なぜか胸を打った。


 私の番だ。


 舞台の上で、言葉を探す。

 けれど、それはもう、ずっと前から私の中にあった気がした。


   ***


 ──中学三年の春。

 あの教室で、私が書いた詩を、真っ直ぐに読んだのは彼だった。

 誰も分かってくれなかったあの詩の奥に、ひとりだけ、目を止めてくれた人がいた。


 気づいてほしくて書いたわけじゃない。

 でも、気づいてくれた彼に、私は、きっとあの時から──


 忘れたふりをしていた。

 過去にしたと思っていた。


 なのに、こうしてまた、私の前で歌を詠んでいる彼の姿に、

 心のどこかが、ほどけてゆく。


 ──もう、逃げない。

 私は一歩踏み出し、深く息を吸い込んだ。


 「暁の 夢にて逢わば 告げなんや 心に咲きし りんどうの花」


 マイクも照明も、視線も──すべてが遠くなる。

 残るのは、ただ、彼に返すこの一首だけだった。


 沈黙。


 会場は、水を打ったように静かだった。


 やがて、どこか遠くの席から、微かにため息が洩れる。

 ひとりの審査員が、そっと目頭を押さえていた。


 他の審査員たちは顔を見合わせ、首を傾げ、何かを言いかけて──

 それでも言葉にはしなかった。


 「……終演です。ありがとうございました」


 アナウンスの声が、現実に引き戻す。

 私たちは一礼して、舞台袖へと下がった。


 彼は、何も言わなかった。

 でも、ほんの少しだけ、私のほうを見て──微笑んだような、気がした。


 私の中に、ひとしずくの白玉が落ちた。

 それは言葉ではないけれど、きっと彼にだけ、届いた気がしていた。


   ***


 結果発表の場に、私たちは肩を並べて立っていた。


 春樹くんの顔は、相変わらずぼんやりしていて、緊張の様子はあまり見えない。

 むしろ、すでに頭の中では別のことを考えているような、そんな表情だった。


 ──あの一首を、どう受け取ったのだろう。


 私は心の奥で、そっと問いを置いたまま、壇上の司会の声を聞いていた。


 「……なお、今回の大会では、審査員の皆様による票が大きく割れ、最優秀賞の選出は非常に困難な判断となりました。結果として──」


 場内がざわめく。

 司会者の声は続ける。


 「……特別賞として、“創造性において顕著な表現力を示した作品”が一組、選出されました。鷹崎高校──上村春樹うえむら はるきさん、詩村萌夢うたむら もゆむさん」


 思わず息を呑む。


 最優秀賞ではなかった。

 けれど、きっと私たちの歌は、誰か一人にだけ、確かに届いていた。


 賞状を受け取るとき、私はふと壇の脇に座っていた年配の女性審査員と目が合った。その人は静かに微笑み、ただ一言だけ、こう言った。


 「──あれは、平安の香りがしていましてよ」


 それだけで、胸が熱くなった。

 誰にも届かないと思っていた言葉が、ちゃんと風に乗っていたのだと知った。


   ***


 その夜、帰り道の駅前で、春樹くんと別れる前に、少しだけ話した。


 「なあ、俺、あんな風に歌ったの、よく覚えてないんだよね。気づいたら出てきてたというか……」


 「……うん、でも、それでいいと思う」


 「そうかな」


 「春樹くんの歌、ちゃんと届いてた。少なくとも、私は……」


 途中で言葉が途切れた。

 でも、彼はそれ以上は何も聞かず、ただ頷いた。


 「じゃあ、また、学校で」


 そう言って、彼は改札に消えていった。

 私はその背中を見送りながら、心の奥で、ある確信をひとつだけ抱いていた。


 ──たとえ、誰にも理解されなくても。

 たとえ、言葉が風に消えてしまっても。

 それでも、書くことを、歌うことを、私はやめないだろう。


 なぜなら、あの日の白玉の一滴は、

 確かに、私の中に、ずっと残っているから。


   ***


 季節は静かに過ぎていった。


 連歌大会のあの日を境に、私たちの日常は少しだけ変わった。けれど、それは目に見える変化ではない。ただ、心のどこかに、ひとつ小さな“ことば”が灯り続けているような、そんな日々だった。


 三年になっても、春樹くんとは同じクラスだった。でももう、あの頃みたいにドキドキしたり、無理に話しかけようとしたり、そんなことはしなくなった。何もなかったように日々は流れて、受験とか進路とか、そういう“現実”が毎日の中心になっていった。


 ──そして、あの春の日。


 卒業式が終わり、教室で最後のホームルームがあって、それぞれが制服の第二ボタンや寄せ書きを交換して、私は帰り道をひとりで歩いていた。


 坂の途中にある、小さな公園。ベンチの上に座って、私はスマホを見ていた。SNSでもなく、メッセージでもなく、ただノートアプリの中に残っていたあの歌──


 「白玉の ひとしずくこそ まどろみの 君をおもえば 夜もふけにけれ」


 今でも、読むたびに胸が痛くなる。たぶんあれは、春樹くんが無意識に詠んだ、最初で最後の恋の歌だったのだと思う。


 ──それに、私は。


 「暁の 夢にて逢わば 告げなんや 心に咲きし りんどうの花」


 返した、この歌を。


 結局、あれから私たちは「付き合う」とか、そういう関係にはならなかった。私も彼も、自分の気持ちをはっきりとは言葉にしなかったし、それでよかったのかもしれない。


 たぶん──それが、私たちにとっての“ことば”だったのだから。


 春が過ぎて、私は遠くの大学に進学した。古典文学を専攻した。きっとそれは、あの頃の記憶が、まだ私の中で灯り続けていたからだ。


 そして──ある日、東京の小さな古本屋で偶然出会った一冊の詩集。


 ページをめくると、そこに収録されていたのは、かつて高校生たちが詠んだという連歌だった。末尾に、こう添えられていた。


 「これは、万葉町の生徒が出場した、全国高校生連歌大会の記録である。評価は分かれ、審査では入賞とならなかったが、ある審査員はこう語った。“この歌には、今の私たちには見えないものが、確かに存在している”と──」


 私はそっとページを閉じた。


 ──ああ、届いていたんだ。


 たとえ誰にも理解されなかったとしても、たった一人の心に届けば、それは“言葉”として存在した証なのだ。


 駅までの帰り道、私はふと信号待ちの向こうに、見覚えのある後ろ姿を見た。


 風に髪が揺れている。その横顔は、まだ、思い出の中のままだった。


 ──あれ? 春樹くん?


 声は出なかった。ただ、その背中が人波に紛れて消えていくのを、私は少しだけ見送った。


 たぶん、もう二度と会わないかもしれない。でも、あの歌だけは──今も私の中で、生きている。


 「誰にも届かない言葉、それは──万葉町で、生まれたのだから。」


   了




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

好きな人に愛されたい詩は、ノスタルジーになった 夏目 吉春 @44haru72me

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ