終夜のタクト
nemofila
終夜のタクト
夜が、しん、と鳴っていた。
街の灯はとっくに落ち、誰もいない大通りを、一人の男が歩いていく。手に持つのは、黒いケース。中には一本のタクトが眠っている。
目的地は、誰も訪れない古いコンサートホール。
廃墟のようなその建物の扉に、男は慣れた手つきで鍵を差し込む。
軋む音と共に開いたホールの中は、かつて無数の音を抱えていたとは思えないほど、静かだった。
「……久しぶりだな」
男——指揮者は、誰に向けるでもなく呟いた。
ステージに歩み寄る。譜面台のない、空っぽの壇上。しかし、彼は迷わず指揮台に立ち、深く息を吐いた。
その瞬間——。
音もなく、座席に人影が現れはじめた。
フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ……それぞれに楽器を手にした、ぼんやりとした霧のような存在。
幽霊たちだ。
全員が生前このホールに集っていた音楽家たち。生涯を音に捧げ、音に未練を残してこの世を去った者たち。
そして——指揮者の視線が、とある第一ヴァイオリンの席で止まる。
そこには、彼の妻がいた。
幽かな光を纏いながら、彼女は微笑んだ。
いつかと同じように、ヴァイオリンを構え、静かに弓を浮かせる。
「……指揮、します」
声が震える。だけど、タクトは迷わず空を切った。
最初の一音が、ホールの底から溢れ出す。
生者の耳には届かないその旋律は、しかし確かにそこにあった。
重ねられる弦、息遣いと共に鳴る管、打ち鳴らされる鼓動。
それは、生と死の境を越えた音楽だった。
指揮者の手が動くたび、幽霊たちは生前の輝きを取り戻していく。輪郭がはっきりし、動きが滑らかになり、音がますます鮮明になっていく。
演奏の中で、指揮者の視線は何度も妻を追った。
彼女もまた、彼のタクトを追い、音を紡いでいた。
ふたりの呼吸が、音を通してひとつになる。
——これは、最後の共演。
——そして、最後の別れ。
終曲が近づく。音が消える直前、妻が彼を見て、唇を動かした。
「ありがとう。愛してる。」
最後の音が、天井の高みへ消えていく。
幽霊たちは一人、また一人と、霧のようにその場を離れていく。微笑みながら、どこか満たされたように。
まるで、ようやく長い夜が明けたかのように。
そして——
妻もまた、タクトに合わせてヴァイオリンを置き、静かに彼の方へと微笑んだ。
「また、会えたね」
その声が聞こえたような気がして、指揮者は目を閉じた。
次に目を開けたとき、彼女はもう、いなかった。
だが、指揮台の足元に、ひとつだけ残されたリボンがあった。
彼女が、生前いつも髪につけていたものだ。
彼はそれを手に取り、そっと胸ポケットにしまった。
音のないホールに、再び静寂が戻る。
けれど、彼の心は不思議と温かかった。
「……また、いつか」
誰もいないホールに背を向け、男は歩き出した。
夜はまだ続く。けれどその中には、
確かに、音が残っていた。
終夜のタクト nemofila @poteymo1024
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