2 秘密の時間
月曜日の朝、教室の窓から強い日差しが差し込んでいた。
蝉の声はまだ元気で、夏の終わりはすぐそこにあるはずなのに、その気配はどこにもなかった。
けれど、教室の一角__僕の隣の席は、ぽっかりと空いていた。
「
朝のHRで先生がそう言うと、何人かが小声で反応した。
「やっぱ体調悪いんじゃない?」
「なんか、無理して学校来てた感じだったもんね」
僕は無言で、窓の外を見た。
昨日の夕焼けはきれいだった。だけど、それを誰かと共有することはなかった。
(大丈夫かな)
自然と、そんな気持ちが浮かんだ。
ただのクラスメイト。話したのは数回だけ。
だけど、その声や、目線や、背中の静けさが、頭から離れなかった。
__まるで、夢みたいだった。
そう思いながら、僕はいつものように一日を過ごした。
水曜日になっても、
授業の合間、ノートを取りながら、ふと隣の机を見る。
教科書のない空間が、やけに静かに見えた。
「…気になってんだろ?」
「何が」
「とぼけんなって。綾瀬さんのこと」
「…」
否定できなかった。
ただ、気になる、っていうより、引っかかっていた。
あの夕方、一緒に見た空の色。あの一枚の写真。
それが、僕の中でゆっくりと時間を止めていた。
だから、次の金曜日の放課後。僕は自然とカメラをもって、学校を出た。
当てもなく歩く町は、光と影のバランスがちょうどいい時間帯だった。
商店街の角を曲がると、古いレンガ造りの建物が見えてきた。
町の図書館だ。人通りも少なくて、僕のお気に入りの場所の一つ。
その前のベンチに__彼女はいた。
「…綾瀬さん?」
僕の声に、澪がゆっくり顔を上げた。
マスクをしていたけど、その目元はやわらかかった。
「…
「…びっくりした。学校、来てなかったから。」
「うん。ちょっとだけ、体調崩してて…でも、今日は外に出てみたくなって」
そう言って、澪はちいさく笑った。
風が吹いて、低い位置でまとめられた彼女の長い髪が揺れる。
「偶然、だね」
「うん。偶然」
そうおもったけど、なぜかそれがとても自然なことのように思えた。
「図書館、よく来るの?」
僕がそう聞くと、澪は「うん」とうなずいた。
「転校してきてから、ずっと…放課後とか、時間あるときに来てる。静かで、安心するから」
「なんかわかる気がする。僕も、たまに写真撮りながらここまでくる」
そんな会話をしていると、不思議と間にあった距離が、少しづつ近づいていく気がした。
彼女が座っているベンチの隣に、僕も腰掛ける。風がさっと吹き抜けた。
「…学校、ちょっとしんどくて」
ぽつりと、澪が言った。
「別に、別にね。誰かに何かされたとかじゃないんだけど、いろんなことが、急に押し寄せてくる感じで…目が回る、みたいな」
僕は何も言わずに、ただ耳を傾けた
「自分の存在が、どこにもちゃんと収まってない気がして。息してるのに、空気が吸えてないような…そんな感じ」
その言葉は、どこか詩みたいだった。
だけど、胸が少しだけ痛くなるような真実味を帯びていた。
「__この町に来ても、変わらないのかもって思ってた
そう言いながら、彼女は空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い夕日が差していた。
「でも、この前…校舎裏で、春川くんと話したとき、すごく落ち着いたの」
「話したっていうか…あれ、ほとんど沈黙だったけどね」
「うん、だからいいのかも。沈黙って、苦しいときと、安心できるときの両方があるから」
その言葉を聞いたとき、僕の中で何かが静かにほどけた。
同じ空間を、同じ温度で感じている人がいる__ただそれだけで、心は救われるのかもしれない。
「…今日、来てよかった」
澪がぽつりとそう言ったとき、僕は言葉を選ばず、自然に答えていた。
「僕も、来てよかった」
そのあと、ふたりで少し笑った。
図書館の前の通りは、ゆっくりと夕闇に染まり始めていた。
時間が止まったような感覚。二人の間に、風だけが通り抜けていく。
ふと、彼女が何かを言いかけた。
けれど、その言葉は、喉の奥で止まった。
代わりに出たのは__
「ねえ、ちょっとだけ、寄り道しない?」
彼女の眼が、淡く笑っていた。
「いいところ、あるんだ」
「…うん。いいよ」
それが、ふたりの「秘密の時間」の始まりだった。
澪に案内されたのは、図書館の建物の裏手だった。
人気のない小道を通って、古びた非常階段をゆっくりと登っていく。
ギシギシと金属がきしむ音が響くたびに、彼女の後ろ姿がすこしだけ不安定に揺れた。
「本当は入っちゃダメなんだけど…この扉、鍵壊れてるの」
そう言って、澪は屋上へと続くドアを押し開けた。
きしんだ音とともに、光と風が一気に吹き込んでくる。
そこは、僕が思っていたよりもずっと広くて、静かだった。
柵の向こうには、夕暮れの町が広がっている。
校舎よりも少し高い位置から見える景色。誰もいない特別な場所。
「ここ、私のお気に入りの場所」
澪がそう言って、風に髪をなびかせながら笑った。
その笑顔は、教室で見るどの表情よりも自然で、どこか透き通っていた。
「たまに、ひとりでここに来て、ぼーっとしてる。時間が止まってるみたいで…」
「なんかわかる気がする。僕も、よくそんな場所探してるから。」
カメラを首から外して、僕はファインダーをのぞいた。
西の空に、淡い雲がたなびいている。空の端が、金色から薄紅へと変わっていた。
「__撮っても、いい?」
思わずそう尋ねると、澪は驚いたようにこちらを見た。
そして、小さく笑って、うなずいた。
「…ただし、顔はダメ。背中だけとかなら、いいよ」
「わかった」
僕はしゃがみこみ、光の角度を確認しながら構図を整える。
彼女の髪が風に舞い上がった瞬間、シャッターを切った。
__カシャ。
その音がやけに大きく感じたのは、きっと風のせいだ。
「…ありがとう」
彼女の背中越しに、小さな声が聞こえた。
「写真って…いいね。なんか、自分が生きてた証みたいで」
その言葉に、僕の手が止まった。
生きてた証__。
それは彼女の中に、ずっと抱えている何かの欠片のようだった。
きっとこの静けさの奥に、まだ僕の知らない「秘密」がある。
だけど今は、ずっとそばにいるだけでいい。
そう思った。
「ねえ、春川__
夕暮れに染まりながら、澪がゆっくりこちらを向いた。
「いつか、ちゃんと元気な時に__私のこと、全部撮ってくれる?」
その目はまっすぐで、でもどこか儚げだった。
まるで、心の奥から絞り出された願いのように。
僕は、静かにうなずいた。
「うん…絶対、撮るよ。」
その約束は、空に溶けるようにして消えていった。
屋上の空は、もうすっかり夜の色を帯び始めていた。
けれど、町の灯りがにじむように瞬いていて、まるで星みたいだった。
「私ね」
ふいに、澪がつぶやいた。
「私ね、誰かにお願いするの、すごく苦手だったの。」
その声は、風の中に紛れて消えてしまいそうなほど、小さくて、脆かった。
「ずっと、頼るのは迷惑だって思ってた。自分のことは、自分で何とかしなきゃって」
僕は無言のまま、隣に座って彼女の話を聞いていた。
「でも…透くんに会って、なんか、少しだけ変わったかも」
「変わった?」
「うん。多分、少しだけ__甘えてもいいって思えた。今日も…会えたの、すごくうれしかった」
彼女の横顔が、照明のない暗がりの中でも、やけに鮮明に見えた。
「だから、さっき言ったこと…覚えててね」
その言葉に、僕はうなずいた。
「ちゃんと、覚えてるよ。”元気な時に、全部を撮る”__でしょ?」
澪はうれしそうに、でもどこか切なげに笑った。
「私、逃げてたの。いろんなことから。病院からも、家族からも、未来からも…」
そこで彼女は、少しだけ言葉を止めた。
「でも、透くんの写真を見てたら、ちょっとだけ思ったの。『この瞬間を残したい』って。…自分のためにも、誰かのためにも」
彼女の目に浮かんだ小さな涙の粒を、僕は見逃さなかった。
「それって、すごく大事なことだよ。」
「うん。だから、ちゃんとお願いしたかったの。”いつか”って言ったけど、本当は、ちゃんと叶えたい夢として、お願いしたかった」
僕は、カメラをそっと彼女に差し出した。
「…一緒に、残していこう。そういう瞬間」
「…触っても、いいの?」
「もちろん。壊さなければ、だけど」
「ひど」
ふたりで笑った。
その空間が、どんな教室よりも、図書館よりも温かく感じられた。
それは、ただの会話じゃない。
名前を呼び合うだけじゃない。
もっと奥に触れようとする行為。
”つながる”ということの、本当の意味に少しだけ触れた気がした。
そのあと、しばらく何も話さずに、静かに夜の景色を見ていた。
言葉がなくても、すべてが伝わるような、そんな不思議な時間だった。
帰り道。
図書館の前で別れ際、澪がそっとつぶやいた。
「ねえ、今日はありがとう。…ほんとうに、ありがとう」
「こちらこそ」
「…じゃあ、またね。今度は、学校で」
歩き出す彼女の背中に、声をかけた
「おかえりって、言うよ」
振り向いた彼女の顔が、夕闇に溶けるように笑った。
夜。ベッドに横たわったまま、私は天井を見つめていた。
今日のことが、まだ夢みたいだった。
偶然の再会も、あの屋上の風も、夕暮れの写真も。
全部が、優しくて、温かくて、少しだけくすぐったい。
(私、ちゃんと笑ってた。あのとき)
透くんの前では、無理に明るくしなくてもよかった。
黙ってても、ちゃんと伝わるって思えた。
それが、どれほど救いになるか…私はようやく知ったのかもしれない。
(あのひとは、何も聞いてこない)
病気のことも、過去のことも。
私が黙っている限り、無理に踏み込んだりしない。
でもその代わりに__カメラを向けてくれた。
まるで、存在そのものを「ここにいていいよ」って肯定するように。
ファインダー越しに、私を”風景”の一部としてちゃんと受け止めてくれる。
それが、どれだけうれしかったか。
たぶん、本人は気づいていない。
(”全部を撮って”って、言っちゃった)
その時の自分の声が、まだ耳に残っている。
あんなに素直に、誰かに何かをお願いできたのは、いつぶりだっただろう。
(いつか、全部を話せる日がきたらいいな)
そう思えたのも、多分彼のおかげだ。
ほんの少しづつでいいから、ちゃんと向き合ってみたい。
自分のことも、これからのことも。
(そして__撮ってもらいたい。)
泣いてる顔も、笑ってる顔も、怒ってる顔も、全部。
”今”しかないこの瞬間を、透君のカメラに焼き付けてもらいたい。
だってそれが、私の「生きてた証」になる気がするから。
携帯の画面には、保存されたばかりの写真が並んでいた。
風に舞う髪。
夕焼けに染まる背中。
町の灯りに照らされて、どこか浮かんで見える自分。
(きれい、だな)
自分のことを、そう思えたのは、いつぶりだっただろう。
私は、目を閉じた。
夢の中でも、あの風が吹きますように。
あの空の下で、もう一度__彼と、透くんと、話せますように。
そう願いながら、静かに眠りについた。
あの日、シャッターを切った理由を君はまだ知らない 黒宮 @KuroMiya_238
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