白紙の短冊に書くこと ~黒猫と忘れた夢の話~

英国紳士@見習い

白紙の短冊に書くあの夏

 セミの声が、遠慮なく夏の空気をかき乱している。

 風鈴の先には、何も書かれていない白紙の短冊がぶら下がり、自分を魅せる冷涼な風を今か今かと待ちわびていた。


 俺は、コンビニで買ったアイスをくわえたまま、扇風機の前でだらしなく寝そべっていた。テレビでは、夏の甲子園・準決勝。画面の端には「名切高校 初出場」の文字。


 ——俺の母校だ。そして、俺の夢の墓場でもある。


 応援する気がないわけじゃない。だけど、この胸のざわつきは、きっと懐かしさでも誇らしさでもない。


 今、打席には四番・山田。俺の自慢の後輩だ。


『二死満塁、逆転サヨナラのチャンス! 夢の続きを託された名切高校、ここで打席に立つのは……山田!』


 アナウンサーの声が熱を帯びる。扇風機の生ぬるい風が、日焼けした肌を撫でた。

 ——まるで甲子園の熱気が、ここまで届いてきたみたいだ。


『……かつて、このチームを率いていたのは、悲運のエース・名切。二年前、才能を絶たれた男の存在が、いま再び注目されています』


 思わずテレビの画面から目をそらした。


 実況が言っているのは、俺のことだ。


 二年前、最後の地方大会の帰り道。

 道路に飛び出した一匹の猫を庇って、俺は事故に遭った。右肩と背骨の複雑骨折。医者に「二度と投げられない」と言われたあの日から、俺の野球は終り一度きりの青春も過ぎ去っていった。


 でも——


 あのとき、助けた猫が、今の後悔を癒してくれると思ったことは、一度もない。


 ましてや——


「にゃ」


 ふと、視界の端に、黒い影。

 テーブルの上に、猫が座っていた。あのとき助けた、あの黒猫にそっくりで……いや、違う。全くの——“”だ。


「……お前、なんで……」


「お前らしくないにゃ」


 口が動いた。幻覚か? 幻聴か?


 俺は一歩、後ずさった。額から汗が流れる。アイスの棒がぽとりと落ちる。


 でも、思い返してみれば、あの日も、そうだった。この猫は、振り返って、俺を見た。そして、何かを言うかのように口を動かしていた。


「にゃ?」


「まさか、お前……」



「——後ろを向くのは、お前らしくないにゃ」



 確信が、体を突き抜けた。


 あの日救った命が、今日このとき、何かを伝えに来た。


『彼らが背負うのは、かつて夢を託した先輩たちの想い。そして、自らの青春そのものです!』


 実況が最高潮に達した瞬間——


 猫がぽつりと、言った。


「——忘れ物の、お届けにゃ」


 そのとき、カキィィィィン! という打球音が、テレビから鳴り響いた。


 ——山田だ。


 打球は、センターの遥か上、神戸の空に吸い込まれていく。打った瞬間に分かる、完璧な彗星の如き一打。

 球場全体が静まり返り、そして耐えかねたように静寂が爆ぜる。


『入ったぁぁぁぁぁッ! サヨナラ満塁ホームランッ!! 名切高校、奇跡の逆転劇!!』


 歓喜の声。マウンドで泣き崩れる相手校。

 ベース上に群がる名切のナインたち。


 山田は、観客席に向かって手を振りながら、笑っていた。


 その姿に、胸の奥が疼いた。

 あの日からずっと胸に突っかかっていた何かが、取れた気がした。


「……はっ!」


 俺は、猫の方へ視線を戻した。


 ——もう、いない。


 代わりに、埃まみれの、小さな箱が残されていた。


 土を払うと、かすかに文字が浮かぶ。


 「……タイム、カプセル」


 間違いない。高校を卒業した日、自分のふがいなさに嫌気がさして、校庭の片隅に埋めたものだ。


 ——忘れようとした夢、置き去りにした自分。


 蓋を開けると、中には色あせた短冊が一枚。


 『世界一の野球選手になる!』


 ――俺の文字だ。まだ幼い、白昼夢に浸かりながら鉛筆で適当に書き殴ったかのような、そんな俺の文字。

 今では、絶対に叶うことも、叶えることもできない、阿保みたいな子供の空夢。


 なんで今更こんなものを……と、そう思いながら短冊を持ち上げる。



 するとそこには、もう一枚――俺のと同じ紙でできた短冊が入っていた。

 そこに書かれていた文字は、少しだけ俺の筆跡に似ていて、でも、明らかに違っていた。

 適当に書いた俺の文字とは違う、本気で己の夢を想って丁寧に綴ったであろう綺麗な文字の羅列。


 そこには――


 「世界一のピッチャーになりたい。名切先輩みたいに」


 息が止まった。


 それは、山田が中学の頃、俺のロッカーにこっそり差し入れてきた短冊だ。忘れ物じゃない。——これは、山田の夢だった。


 でも、なぜ、俺のタイムカプセルに。


 「にゃ」


 その瞬間、風が吹いた気がした。


 窓がかすかに揺れ、白紙の短冊がひらりと翻る。

 見上げた空には、黒猫の尻尾が一瞬だけ、陽に透けて揺れていた。


 テレビからは、山田のインタビューが流れる。


『……先輩、見てますか? これ、先輩の夢を背負ったわけじゃないっすよ』


『この夏は、俺たちのものっす。だけど……この一打は、ずっと、俺の原点だった人に捧げます』


 俺は、短冊を胸に抱えた。


 夢は、忘れたふりをするものじゃない。誰かの夢を奪ってまで、閉じこめるものじゃない。


「……思い出させてくれて、ありがとな。山田」


 俺は立ち上がり、埃を払いながらつぶやいた。


「——久しぶりにやるか、野球」


 風が吹いた。風鈴が鳴った。

 白紙の短冊が、ようやくその意味を、空に掲げた気がした。


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