第3話 深まる謎


 「ごめん視侑、5038号室の内藤さんが……」


 「……また文句ですか。懲りないですねあの人も」


 「新人の倉野くらのさんじゃ手に負えないみたいで……申し訳ないんだけど手助けに行ってもらってもいい?私も別の階の指導に呼ばれてるし、なにより視侑の方が扱い慣れてると思って」

 

 気付けの一服から戻り、少し経った業務の最中、先輩看護師の瑞山みずやま 莉奈りなからのご指名に、視侑は大きなため息で応えた。互いに信頼を置く、視侑のチーム長である先輩看護師の頼み。断る気もなかったが面倒であることに変わりはない。パソコンで患者ごとの電子カルテをまとめていた手を止め、今度は一つ伸びをする。喫煙でリフレッシュしたとはいえ、寝不足の脳と身体は入念に準備しエンジンを温めてやらないとなかなか動かない。

 倉野とは今年採用されたばかりの女性の新米看護師だ。真面目な働きぶりと、「異性に興味がない」と公言するほどの男っ気のなさからおつぼね看護師達からの評判も悪くない。が、彼女の性分と経験の少なさから来る杓子定規しゃくしじょうぎな受け答えのせいで、高齢のひと癖もふた癖もある患者相手となると絶望的な噛み合いの悪さを見せる。新人故に仕事が迅速なわけもないのだが、原因はそこではなく、大部分は内藤という男性の患者がとかく曲者くせものなことにある。看護師、特に女性に対する横柄おうへいな物言いが多いのだ。病人でありながらプライドだけは元気に振り回す、居丈高いたけだかが辞書からそのまま飛び出したような高齢男性だ。事勿ことなかれ至上主義の視侑はそういった気難しい患者の話の返しが上手く、他の看護師からよく面倒な患者のいなし役としてお呼びがかかるのであった。


 「……行ける人間が私しかいないってことですもんね、分かりました」


 「話が早くて助かるわ。フォローは倉野さんが帰ってきたら私からもするから、ごめんけどよろしくね」


 眠気ももう少し覚ましたかったところなので丁度いいだろう、そんな事を考えながら廊下を進み、内藤のいる部屋へおもむく。

開けられた扉の前まで近づくと、老爺ろうやの張り上げる声が響く。ほぼ全て白髪になったあの老爺の鬼面が目に浮かぶようだ。ここ数週間にわたり慢性的な寝不足の視侑には耳に刺さる声量をこらえながら一つ、肩で息をして部屋に入る。内藤が再び声を上げるタイミングを見計らい、返事しながら部屋に入る。


 「だ、か、ら!新人だから何でも分かりませんって答えりゃいいって思ってんだろ!」

 「はいは〜い、私も今でもそう思ってますよ〜。倉野さん、どこまで測った?」

 「あ、あとサチュレーション※1だけです……」

 「お、やるじゃん。入ってきて数ヶ月で内藤さん相手にここまで出来るのは中々だよ。SAT※2だけ測ったら後は任せて」

(※1、※2 共に“経皮的動脈血酸素飽和度”の略称。血液内の酸素濃度の割合を示すもの。)

 「笹栗先輩……いつもありがとうございます」

 

 礼儀正しく、本当に申し訳なさそうな表情で頭を下げてくるのでこちらも助け甲斐があるというものだ。まあ現に助けているのだが。果たしていつ、側に来るのかが楽しみなところではあるが、淡い期待を決して顔に出すことなく、視侑は内藤と対話しながら、患者別にベッド横に備えられたチェック表を見ていく。食事も普段通り、薬剤規定量投与済、採血完了———お世辞抜きに新人にしては上出来だ。


 「視侑ちゃん、最近の新人はなんでこうもわからないばかり言うんだ。調べますだとか、聞いておきますとかいくらでも返事のしようはあるだろう」

 「何聞いたのか知らないですけど、みんな内藤さんのためだけに働いてるんじゃないんですよ。分からないことを分からないって言ってるだけだし、知ったかぶりするより余程マシだと思いますけどね。そんなことより、内藤さん声大きすぎて他の患者さんに話の中身筒抜けだと思いますよ」

 「わしは聞かれても構わん話しかしとらんわい。そうじゃなくて———」

 「それに、そんだけ元気なら今すぐにでも担当医と娘さんにお話して退院の手続き取りましょうかね~」


 こういうといつも内藤はばつの悪そうな顔をする。70代後半だっただろうか、この老人の頑固さ、偏屈さは家庭内でも変わらないらしく、親族も手を焼いており中々見舞いに来ることもない。年を取ると男性は説教臭くなる、とどこかで聞いたことがあるが、内藤はあまりにも典型的で、視侑は身をもって知ることができている、とむしろ面白く感じている面もある。そう遠くない将来、自分の父親もこうなるのであろうか。そう考えると気分が沈むので父親については今は考えないことにした。


 「でもその説教臭さよりも、大声張り上げるの辞めて、先にとっとと身体治さないと。お孫さんにも中々会えてないんでしょ?新人だとしても看護師と、医者のいうこと聞いて、治療に専念しましょうよ」


 次々に正論の槍を突き刺す視侑に、内藤もすっかり押し黙ってしまった。その間も視侑は黙々と残った作業を進め、SATも測り終えた。後は医者の検診を待つだけの状態である。


 「もう終わったのか?」

 「言ったでしょ?暇じゃないんですよこっちは」

 「褒めたのにその言い草はないだろう———なあ視侑ちゃん」

 「何ですか」


 内藤は視侑に対し手招きをすると、普段の怒鳴り方からは想像もつかない、ヒソヒソとした話し始めた。先ほどとは180度テンションが違う。内藤の手招き自体も初めて見たので恐怖心を覚えながらも耳を近づける。内緒の話が好きなのは老人ならではであろうが、いつものそれとは少し雰囲気が違う。


 「お前さんになら話してもいいかもしれん。というか既に知っとるかもしれんな」

 「……どういうことです?」

 「そこのテレビからニュースで1度しか見とらんが。海外で新種の感染症が発見されたらしくての」


 全くの初耳な話に、視侑は目を丸くした。自分の担当する患者や院内の業務に追われ、ニュースどころかテレビもろくに見ていなかったのだ、感染症のことなど知るよしもなかった。


 「日本には上陸しとらんとキャスターは話しとったからまだ安心じゃの。わしが死ぬのと上陸するの、どっちが早いかのう」

 「そんな……縁起でもない。でも内藤さんみたいな短気でやかましい人は感染症とか関係なく急に亡くなるもんですけどね」

 「なんだと」

 「そっちが言い出したんでしょうが」


 内藤が再び声を張り上げたので、視侑は思わず顔をしかめる。至近距離の大声が脳を揺さぶる。大変不快だ。とはいえ冗談の応酬ができるのだから、内藤もまだまだ問題ないだろう。大声を出した内藤をたしなめて、大きく息を吐く。少し気持ちが落ち着いたところで、話の中に大きな疑問がいくつか浮かんできた。ふと我に返ったように思い悩む視侑の表情を察してか、内藤は意味深で得意げな顔をして話を続ける。


 「さてはお前さんも気になっただろう。日本未上陸の感染症のニュースなんぞなぜ報道しとるのだ?わしがなぜそんなことを話したがったのか?と。」


 視侑はもう一つの疑問も頭に入れつつわずかにうなずく。さっきの大声が嘘のように、一層声を潜めて内藤は話し始めた。


 「これはあくまで噂なんじゃが。日本の研究チーム、しかもこの大学の研究チームが治療薬の開発を先導してやっとるらしいんじゃ」

 「……そんな情報どこから手に入れるんです?」


 情報の真偽よりも先に、病室からほぼ出ることもなければ、中々家族が見舞いにくることもない内藤がどうしてそんな話をできるのか、という疑心が湧いた。内藤の創作した与太話だったとしても妙にリアルで質が悪いし、そもそも内藤はあたりかまわず怒鳴り散らしているだけで、性格からかんがみるに、こんな壮大な作り話を周囲にひけらかすような弁の立つ人間でもない。内藤は不敵な笑みでなおも続けた。


 「わしをただのやかましい頑固じじいと思うとると大間違いじゃぞ」

 「そうみたいですね」


 視侑は感情を一切乗せずに上辺の同意で応じた。急展開にすっかり頭が冴え、逡巡しゅんじゅんを繰り返している。この際、内藤が情報屋という意味でも曲者かどうかはどうでもいい。むしろ嘘である可能性の方が圧倒的に高いと視侑は断定に近い心持ちであった。理由はいくつかあるが第一に、今この時が初耳であり、内藤以外からその感染症の話を聞いたことがなかったこと。いくら多忙な視侑だとしても、医療関係の報道であれば、同僚や別課の看護師らが雑談しているのを耳にしないはずがないからである。次にその研究をしている様子がまるでないこと。他の病院のことは分からないが、少なくともこの病院においてそんな動きはどこにも感じられない。にも関わらず内藤は“この病院が先陣を切っている”という主旨の発言をした。万が一それが真実だとすると、そんな大功績を挙げられそうな一大プロジェクトを公表ないしは院内全体で共有しないわけがない。ますますおかしいのだ。視侑を騙そうとしたとしても、あまりに嘘が下手すぎる。というより騙すメリットがない。今持ちうる情報で判断するにはあまりに不確定なものが多すぎる。不信感のあまり、視侑は思ってもいない言い回しを内藤にぶつけていた。


 「……内藤さん。あなた、何がしたいんです?」

 「何がとは何だ。わしは見聞きしたニュースをただ暇つぶしで看護師に話しとるだけじゃ」


 いや、そんなわけはない。普段の内藤ならこんなはぐらかし方は絶対にしない。何かを隠している———そう思った時、ふと頭の中で何かが繋がる音がした。


 「……そういうことなのか?」


 思わず口に出ていた。それを内藤は聞いていたかどうか定かではない。欠伸をしていたからだ。


 「ふああ~。今日も大声を張り上げてしまってわしは疲れた。昼食まで寝る」

 「え、ちょっ、内藤さん?」

 「なんじゃ。今から寝ると言うたろうが。邪魔せんでくれ」

 

 そういうと内藤は不貞寝ふてねいとまがあったかも分からぬほどの早さで寝息を立て始めた。それは視侑にとってはあまりにも羨ましい睡眠であった。まだ情報を引き出したいもどかしさと、刹那沸き上がった羨望の感情を即座に踏みつぶし、内藤の病室を後にする。


 考え詰めて廊下を歩いていた結果、ナースステーションに戻るまでの記憶がない。気が付くと自分の席の目の前にいて、先に戻っていた瑞山と倉野が談笑していた。


 「……戻りました~」

 「あ、視侑!ありがとね。お礼になるかわからないけど私が今対応した患者さんのご家族が、お見舞いついでに差し入れ下さったから視侑もぜひ食べて。めっちゃおいしかったから」


 そういって瑞山は冷蔵庫を指差した。声の抑揚はありながら表情の変化に乏しい瑞山だが、今回ばかりはやや瞳に輝きが増している。どうやら結構気に入った食べ物らしい。言われるがまま扉を開けると、いかにもそれらしい白い箱が鎮座している。取り出して開けてみると、橙色の実とジャムの乗ったタルトがいくつか入っていた。


 「ね?おいしそうでしょ?今が旬の枇杷を使ったタルトなんだって。ここからそう遠くないカフェの期間限定商品らしいから気が向けば自分で買いに行くのも良いかもね」


 ということは優李の働くカフェか?だとすると近いうちに行ってみるか、そんなことを考えながら相槌を打つ。瑞山の表情はいつになく満足げだ。スイーツ好きな部分も拍車をかけていることだろう。そんな瑞山と違い特段甘いものが好きというわけでもない視侑だが、上司の好意的進言と、わざわざ買ってきてくれたであろうくだんのご家族の厚意を無碍むげにするわけにもいかない。一つ取り出すと、二人に一言告げて、休憩室で食べることにした。戸棚から使い捨ての紙皿とフォークを取り出し、軽く手を合わせる。


 「ん……うまい」


 フォークで裂きながら一口。枇杷のほのかな甘味とトゲのない柔らかな酸味。甘酸っぱいまさに大人の味。悪くない。視侑としてもおいしく食べられる代物であった。合わせようと買ってきた缶コーヒーとの相性も良好だ。枇杷の主張しすぎない薫り、ブラックコーヒーのキレのあるコクと豆特有の味わい、タルト生地のバターとアーモンドプードルの香ばしい風味が手を取り合っている。寝不足の気怠い身体を動かすのに糖分補給は有効で、先ほどの煙草の吸い終わりよりも更に頭が冴える感覚がする。休憩も長くとっていられないので、味わいながらも黙々と食べ進める。舌鼓を打ち終わり、使い捨ての道具たちをゴミ箱に入れる。一つ大きく息を吐くと、心の声を思わず口にしてしまった。


 「土円先生は……何を隠しているんだろう」


 視侑からすればそうとしか考えられなかった。直接聞いてもはぐらかされるだろうが、あえて言わなかったに違いない。今視侑が手伝わされている新薬の研究とは、内藤が言っていた感染症の研究なのだろう。研究の動機や進捗など、調べたいことや尋ねたいことは山ほど出てくる。しかしどれもまだ確たる証拠があるわけではない。内藤の話が全くの出鱈目の可能性だってある。慎重に判断しなければならない。

 視侑の目の前に現れた大きな疑問。今まではなんとなく仕事をしていただけだが、今日を機に心境も、やりたいこともやるべきことも変わるだろう。午後のルーティーンが終わったらマウスのいる研究室の隅々を探索し、時間があれば行ったことのない鉄平の個室も覗いてみよう、そう思った。真相を突き止めてみせる。自分のためにも、優李のためにも。もう一度大きく息を吐き、両の掌で顔を軽くたたいて気合を入れる。静かな戦いは、まだ始まったばかりだ。

 

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