夜霧の街

驢垂 葉榕

夜の限り世界へ

 世界が、燃えている。私はそれを遠く荒野から見ている。何でもない日だった。読みかけの本があった。行きたい場所があった。かなえたい夢があった。そんな個人の事情など関係なく、世界は終わるのだと思った。読みかけの本を閉じるみたいに、終わりは唐突にやってきた。やがて巨大な爆発が起きて、爆風と粉塵が荒野の私を飲み込んだ。


 レイは息を切らして目を覚ました。暑いわけでもないのにひどく寝汗をかいていた。時計は深夜0時を指していた。4~5日前から同じような夢ばかりを見る。あっけなく世界が終わる夢。田舎から出てきてもうだいぶたったがこんなに眠れなかったのは初めてだった。

 外を見ると夜霧が街を覆っていくさまが見えた。窓を開け、少しだけ部屋に招き入れる。紫色の不思議な霧は彼女の前で少しだけ旋回して、やがて静止した。手を浸すと誰かの記憶が見えた。他愛ない昼食の記憶だった。

 深夜0時になると決まって街を覆う夜霧は自然のものではない。厳密には霧ですらない。”装置”で記憶を燃やした煙である。そうして現れた煙は街へと流れ、触れた者に記憶を共有する。最初は少数の若者が仲間内で共有するだけのものだったが、今では毎日行われる街の文化となっていた。

 少しだけ気が晴れたので眠ろうとする。目を閉じるとあの悪夢が思い出された。今夜はまだ眠れそうになかった。どうしたものかと少し考えて、幼いころ怖い夢を見て泣きついた祖母の言葉を思い出した。

「怖い夢を見たならね、おばあちゃんでも誰でも話すといいよ。一人で黙っていると特別重くて怖い夢でも、だれでもいいから話すと特別じゃない軽いものになるもんだよ」

 いま彼女の周りにはこういうどうでもいい話を打ち明けられる人がいなかった。

 少し悩んで、彼女は悪夢を燃やすことにした。

 ”装置”の見た目は片手サイズの箱といった感じだ。まず電源を入れ、燃やしたい記憶を思い浮かべながら、しばらく額に当てる。すると箱の色が変わる。記憶が充填された目安だ。スイッチを入れるとほのかな熱と光とともに記憶は燃え、紫煙が生成され始める。換気扇を回し、近くに”装置”を置いた。

 まだきっと誰にも見られてはいないのに心が軽くなったような気がした。また眠ろうとする。今度は何も思い出すことなく、眠りへと落ちていった。


 翌朝、街を覆わんばかりだった夜霧は、朝日を浴びてすっかり消えていた。

 レイは久しぶりによく眠れたせいで危うく遅刻しそうになったので、準備もそこそこにあわただしく家を出ることになった。

 いつもより少しだけ大股で歩きながら通いなれた道を急ぐ。会社までもう少しのところで信号に引っかかったが、急いだかいあって問題なく間に合いそうだった。

 同じく信号待ちをしていた学生の会話が聞こえてきた。

「昨日の霧、見た? あの、世界が終わるやつ」

「見た見た。誰が流したんだろうな。好みは分かれそうだけど俺は好きだったよ」

「わかる。見たことないタイプだったから新しい人だとは思うけど」

 レイは一歩、足を止めて問いただしたい誘惑にかられ、気のせいだと自分に言い聞かせた。

 あの夢は、ただの悪夢だったはずだ。何の価値もない、重くて怖いだけの記憶。それが今、誰かに肯定されている可能性がある。奇妙な感覚だった。

 2日後、レイはまた世界が終わる夢を見た。

 夢の怖さはだいぶ薄れたような気がしていた。今度は迷うことなく、燃やして街に流した。装置をセットし終わった後、部屋の姿見に移った自分の顔が少しだけ笑っていることに気づいた。少し不気味だった。


 会社の帰り、レイは遠回りをした。特に理由はなかったが、何となくまっすぐ帰る気にはなれなかった。曲がり角の度、進んだことのない方向を選んで進んでいった。

 人通りの少ない並木道を抜けると、小さな公園に出た。夜闇が迫る公園はがらんとしていて、いたのは若い割生気のない男がひとりだけだった。

 男は公園の隅で、ブルーシートを広げて夜霧を売っていた。瓶はすべて褐色だったがよく見れば中で紫煙が渦巻き、きつく締められた蓋には手書きの紙のラベルで中身が張り付けてあった。

 喜劇、出立、幸運。それぞれの中身の瓶は数本ずつあったが、目を滑らせるうちあるラベルの瓶に目が留まった。売れ筋なのか、最後の一つとなっていたその瓶のラベルには「崩壊」の文字があった。

「あの、これ。人気、あるんですか?」

「あ、何?お姉さん興味あんの?もう畳むから安くしとくよ。それ、昨日からの新作。夜霧ジャンキーなんて日に当たったら消えるような日陰者ばっかりだからね。そういう鬱っぽいのがウケんの」

 レイは興味に勝てなかった。

「買います」

「オッケー。持ち帰る場合は瓶の値段もかかってくるから3倍ぐらいになっちゃうけど、この場で見るなら―――」

 初めて買った夜霧は、普段買っている本と比べれば拍子抜けするほど安かった。その場で見てみるとやはり、中身は昨日燃やしたあの記憶だった。

「やっぱりこれ、私の……」

 声が漏れていた。

「え、今。何それお姉さんのなの?じゃあ今日また流してよ、よく売れるからさ」

 男はわずかに露店を畳む手だけ止めて、振り向きもせず話しかけてきた。

「次いつ流せるかはわからないです。あれは夢だから」

「まぁ仕方ないか。じゃあ別のなんか、流しなよ。多分お姉さん向いてるよ」

 レイはその言葉をどう受け止めればいいかしばらく迷っていた。

「流すのって昔の記憶でもいいんですか?」

「うん? あんまり古すぎると薄くなっちゃってるから良くないけど、ちゃんとしっかりしてる奴なら」

「……じゃあ、今夜、ひとつ流してみます」

 ―――ある本の記憶。ママが嫌いの作家の、初めて隠れて買った本の記憶。

「いいんじゃないか。楽しみにしとくよ」

 男はいつの間にか帰り支度を終えていた。気づけば日の光は西の空を少し赤く染めるだけになるまで弱くなっていた。

 その晩、レイは中学生の頃、隠れてこっそり読んでいた長編小説の記憶を燃やした。その行為で失うものは何一つないはずなのにその本そのものを燃やしたような気がした。疲れてるだけだと言い聞かせ、その晩は早く寝た。


 翌日、レイはまた同じ遠回りをした。あの公園に近づくと、ブルーシートの上には昨日よりも多くの空瓶が並んでいた。

「こんにちは。売れ行きはどうです?」

「あーぼちぼち。お姉さんの昨日の小説のやつは割といいね」

「わかるんです?」

「夜霧自体は匿名なんだけどね。お姉さんの、癖が強いんだよ。見る人が見れば同じ人の奴だってわかるよ。それに秘密とか失敗は需要のわりに流されない。ジャンキーなんて皆どっか欠けてるから、せめてまともなふりをしたいのかもな」

「そんなものですかね」

「そんなもんだよ。俺だってまともならこんなことやってない」

 吐き捨てた男の目は相変わらず萎びていたが、少なくとも自分よりは楽しそうに見えた。

「ところで今日も何か買ってくかい?」

「じゃあ、一つだけ。今日は持ち帰りで」

 レイは代金を払い、瓶をバッグにしまった。そうして帰ってその記憶を見たとき、ようやく彼女は自分がジャンキーの側へと踏み入り始めていることを自覚した。


 以降、レイは毎晩記憶を燃やすようになった。昼はネタを探し、特によさそうなものを選んで夜に燃やした。食べ物ひとつ買うにも、ネタになるかという基準が入り込むようになった。

 流行のスイーツ、話題のカフェ、流行作家の本。祖母が毎年送ってくれるたんぽぽのお酒やたまの帰省もネタにした。そのたび思い出が軽くなっていく気がして、時々感傷的な気分になったが、夜霧の時間が近づくとどこかへ消えていった。

 変わっていく自分を肯定するために入れ墨も入れた。興味はあっても何となく怖く思っている人が多くいたらしく、その記憶はよくウケた。

 それでも癖が強いレイの記憶は流すたび少しずつ飽きられて、有象無象の夜霧に隠れる、普通の記憶へと近づいて行ってしまった。


 夜の帳が降りても、街はまだ眠らない。時間をかけて、一つずつ窓から明かりが消えていく。そうして消えた明かりの数がにわかに支配的になり始める深夜0時、この街は夜霧に飲み込まれる。

 初めて記憶を燃やして夜霧を流したあの日から数年が過ぎていた。レイはずいぶん変わってしまっていた。彼女の体には多くの刺青が入っていた。背中の右側だけが生まれたままの形をしていた。大切な記憶は思いつく限り燃やしてしまっていた。それらは全部ちゃんと覚えているのにどこかうつろに感じられた。帰省も一年以上していなかった。きっと帰れば温かく迎えてくれるのだろうが、合わせる顔がなかった。今の生活が望んで得たものなのか、彼女にはわからなくなっていた。

 それでも昨日買った本は、久しぶりに純粋に楽しめた。ずっと前に好きだった作家が、長い沈黙を破って出した一冊。毎日が楽しみだと思ったのはずいぶん久しぶりだった。

 夢中で読み進めていたレイだったが、アラームの音で顔を上げた。本を閉じ、立ち上がって窓を開ける。時計は深夜0時を指していた。今日も夜霧が街を覆い始めていた。

 記憶を燃やして流すのにもずいぶん慣れた。足早に今日の分の夜霧を流すと、窓の外に広がる紫煙を少し小瓶に掬った。胸の前まで引き寄せて触れてみる。

 それはとても明確な、空を飛ぶ記憶だった。

 実在しない夢や思考の記憶を夜霧として流すのはとても難しい。レイは長く夜霧に触れて痛感していた。それこそ取りつかれたような、悪夢のような記憶でなければ輪郭がぼやけて形にならない。それなのにこの記憶は体験したことのないはずの飛行を明確に形作っていた。

 掬った分が終わって現実に引き戻される。さっきまであんなに楽しかったのに目の前にある現実は狭い、深夜のアパートで夜霧に溺れるみじめな自分だけだった。忘れたくて窓の外の夜霧に手を伸ばす。街を覆う夜霧は次々に対流して位置を変える。さっきの記憶はどんどん下へと沈んでいった。追いかけて身を乗り出す。小瓶に掬うのはあきらめた。最後にもう一度だけ飛びたかった。離した小瓶が割れる音が数秒遅れて聞こえた。なおも手をのばす。

 指先がかすかに夜霧に触れた。目当ての飛行の記憶。自由と開放がレイの全身を弛緩させた。

 手足が浮いた。

 夜霧の向こうにかすんだ月が見えた。

 レイは離れていく自室を見ながら、やっぱり終わりなんて唐突なものだったな、と思った。

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