最終話 夕焼けのGペン
秋の穏やかな日差しが、東京の街並みを優しく包み込んでいた。
空はどこまでも高く澄み渡り、暑すぎず、かといって肌寒くもない、心地よい風が街路樹の葉を揺らす。公園では子供たちの明るい声が響き、誰もがこの穏やかな季節を楽しんでいるかのようだった。
そんな秋の午後、都心にある総合病院の一室。窓から差し込む明るい日差しが、白いカーテンを柔らかく揺らしている。そのカーテンの隙間から、穏やかな秋の風がそっと吹き込み、病室に静けさをもたらしていた。
白いベッドの上で、雄馬は横たわっていた。
意識は朦朧としており、点滴のチューブが彼の腕に繋がっている。その傍らには、やつれた顔の美咲が、献身的に彼を見守っていた。彼女は徹夜で看病を続けており、その手は時折、雄馬の額に触れ、熱を確かめる――。
数日が経ち、雄馬の体は少しずつ元気を取り戻し始めた。彼の表情からは、かつての絶望や怒りは消え失せ、代わりに穏やかな笑顔だけが戻っていた。しかし、その瞳の奥には、どこか空虚な色が宿っていた。言葉を発する気力も、何かを求める欲求も、彼からは感じられなかった。
美咲は、彼の心の再生を願って、リハビリとして画用紙と色鉛筆を差し出した。
「雄馬くん、これ、描いてみて。好きなもの、何でもいいから」
彼女は、雄馬が再び「筆」を握ることを願っていた。
だが、雄馬の手は震え、鉛筆を握ることもままならない。美咲は、その震える手にそっと自分の手を重ね、雄馬の指を包み込むようにして、共に鉛筆を握った。
「ほら、こうやって描くのでしょう?」
画用紙の上を滑らせるように、美咲は彼に絵を描かせようとする。しかし、かつて人を魅了した彼の画力は、もうその手には宿っていなかった。懸命に線を描こうとするが、不規則で途切れ途切れの線が描かれるだけだった。
美咲は、その光景に胸を締め付けられた――。
かつては、誰よりも鮮やかで、力強い絵を描いた雄馬だ。漫画家として最も大事な絵を描くという能力を、彼は失っていた。
美咲の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
彼女は切ない表情で雄馬の手を握り、その上で自分の涙を流しながらも、リハビリを続けた。いつか、あの画力が戻ると信じて。それからも、美咲の付き切りのリハビリは続けられた。
その様子を病室の入り口から見ていた香織は、その光景に耐えきれず、顔を覆って泣き崩れた。かつての雄馬の絵を思い出し、その才能が失われた現実に、心が引き裂かれるようだった。
雄馬は、そんな美咲の涙と、香織の悲しみを、穏やかな笑顔で見つめた。そして、掠れた声で、静かに呟いた。
「……ありがとう」
その言葉は、美咲の心をさらに深く抉った。
彼の感謝の言葉が、今の彼の空っぽな心を、より一層強く感じさせたからだ。美咲は、さらに深く涙を流し、雄馬の手を強く握りしめた。
その数日後、香織は東京ドームのステージに立っていた。
色とりどりのスポットライトが降り注ぎ、会場を埋め尽くす何万人ものファンが、彼女の名前を叫び、サイリウムを振る。耳をつんざくような大歓声が、香織のアイドルとしての成功を雄弁に物語っていた。
彼女は、笑顔でマイクを握り、歌い始めた。その歌声は、かつて雄馬の漫画にインスパイアされ、夢を追いかけた自身の姿を重ねるように、力強く、そしてどこか切なく響いた。
「香織ちゃーん!」「最高ー!」
ファンの声援が、波のように押し寄せる。
しかし、香織の心の奥底には、別の光景が焼き付いていた。病室で、言葉も発さず、ただ静かに横たわる雄馬の姿だ。あの時の、彼の虚ろな瞳と、絵を描くことができなくなった震える手。
ステージの華やかさと、病室の静けさ。そのあまりにも大きな隔たりが、香織の胸を締め付けた。
歌いながらも、彼女の脳裏には、初めて雄馬の絵を見た日のこと、三人で漫画の夢を語り合ったあの熱い日々が鮮やかに蘇る。
あの頃の輝きは、今、どこへ行ってしまったのだろう。彼女は、この歌声が、彼に届くことを願い、そして、もう二度と戻らない彼との時間を思って、静かに涙を流した。
ライブは最高潮に達し、香織はスポットライトを浴びながら、ファンの声援に応えて手を振る。しかし、彼女の心は、決して満たされてはいなかった――。
その頃、雄馬の病室に、遠路はるばる福井県から彼の両親が到着した。
憔悴しきった様子の二人だが、病室に入るなり、静かに雄馬の傍らに歩み寄った。
父親は、ベッドに横たわる息子を複雑な面持ちで見つめ、母親はそっと彼の手に触れ、目元を拭った。
父親の固い腕の中には、表紙が擦り切れた一冊の漫画、「夕焼けニャンニャン」が大切そうに握られていた。
母親は、美咲の肩にそっと手を置き、震える声で語りかけた。
「美咲さん、雄馬は…雄馬は、こんなになるまで、ずっと漫画を頑張ってたんですね…」
美咲は、母親の言葉に顔を上げ、涙で濡れた瞳で彼女を見つめた。
「はい…、彼は本当に、誰よりも漫画を愛していました。今も、彼の才能を信じています」
父親は、雄馬の手を握り続けていた美咲に、深く頭を下げた。
「美咲さん、いつも雄馬の看病を、本当にありがとう」
感謝の言葉を受けながらも、雄馬の現状を前に、美咲の心には、どうしようもない悲しみが広がっていた。
都内の閑静な住宅街にある、著名な漫画家、島下先生の仕事場。
ペン先が紙を擦る「カリカリ」という音が静かに響き渡る。島下先生は、集中した面持ちで原稿に向かい、繊細な線を描き続けていた。アシスタントたちが、それぞれの持ち場で背景やトーン作業に没頭している。
「おい、そこのキャラの影はもっと深くしてくれ。心情が出るところだからな」
島下先生の指示が、的確にアシスタントに飛ぶ。彼のデスクの片隅には、何気なく、しかし大切そうに、一冊の漫画が置かれていた。それは、村上雄馬が描いた「夕焼けニャンニャン」だった。
その時、仕事場の電話が静かに鳴った。アシスタントの一人が受話器を取り、そして、その表情が徐々に強張っていく。彼が小声で何かを話し終え、島下先生の方を振り向いた。
「先生…!村上雄馬さんが…!」
その数日後、香織は自身がパーソナリティを務めるラジオ番組のスタジオにいた。ヘッドホンをつけ、目の前のマイクに向かって話す彼女の声は、いつものように明るく、リスナーに語りかける。
「さて、今日の香織のおすすめコーナー!私が最近読んですごく感動した漫画を紹介しちゃいます!」
香織の声は、少し弾んでいた。彼女は、手元にある一冊の漫画を優しく握りしめる。それは、雄馬が描いた「夕焼けニャンニャン」だった。リスナーには、それが元恋人の作品だとは伝えない。ただ、純粋な「おすすめの漫画」として、その魅力を語り始めた。
「その名も、村上雄馬先生が描いた『夕焼けニャンニャン』です!」
「これが本当に面白いのですよ!猫を巡る日常が描かれているんですが、何気ない風景の中に、ハッとさせられるような温かさとか、クスッと笑えるユーモアがたくさん詰まっていて…。特に、キャラクターたちの表情が、本当に生き生きとしていて、心にグッとくるんです」
香織は、言葉を選びながら、情熱的に作品の魅力を語り続ける。彼女の脳裏には、病室で横たわる雄馬の姿と、かつて彼が、目を輝かせた「俺の漫画で世界を変えてやる」と語った姿が重なっていた。
この作品が、彼が生きた証として、もっと多くの人に届いてほしい。その願いが、彼女の言葉に乗せられてリスナーに届けられていく。
「皆さんもぜひ、一度読んでみてください!きっと、心温まる時間が過ごせると思いますよ!」
番組のBGMが流れ始め、香織は静かにマイクから離れた。彼女の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
誰もが、雄馬の目覚めを信じていた。
美咲は毎日、彼の病室に付きっきりで、彼の手を握り、かすれた声で語りかけた。
ホノオも、香織も、そして遠く離れた両親も、それぞれが彼が再び筆を握る日を夢見ていた。
彼の容態は一進一退を繰り返し、回復の兆しは見えなかった。時間の経過とともに、病室に満ちる希望は、少しずつ、しかし確実に、諦めの色へと染まっていった。
だが、美咲だけは違った。彼女は、雄馬が再び目を開き、その筆を握ることを、決して諦めなかった。
そして、ある日のことだった。ホノオと香織が、美咲と共に雄馬の病室に見舞いに来ていた。病室には重い静けさが漂い、三人は交代で雄馬の傍らに座り、彼が目覚めることをただ祈っていた。
その時、美咲が雄馬の手に優しく触れていると、彼の瞼がかすかに震え、ゆっくりと目を開いた。
美咲は、一瞬の驚きに息をのんだ。
「美咲?」
雄馬の掠れた声が、病室に静かに響く。ホノオと香織も、その声にハッとして、雄馬の顔を凝視した。
「気が付いたのね!雄馬!」
美咲は、興奮に震える声で叫んだ。希望の光が、彼女の瞳に宿る。香織は手で口を覆い、ホノオも固唾をのんで雄馬を見守る。
しかし、雄馬の目は、どこか虚ろなままだった。彼は、天井を見つめ、力なく呟いた。
「原稿、書かなきゃ…」
美咲の胸が締め付けられる。意識が戻っても、彼の思考はただ、漫画へと向かっていた。
「美咲、ペンとって…」
雄馬の細い指が、かすかに動く。美咲は、ベッドの傍に置いてあった、かつて彼が愛用したGペンを震える手で取ると、彼の手にそっと手渡した。
そのペンを掴もうとした瞬間、雄馬の身体から、すう、と最後の力が抜けていった。彼の指が、ペンを捉えることなく、カラン、と乾いた音を立てて床に転がった。
彼は、静かに、本当に静かに、再び目を閉じた。
「雄馬っ! 雄馬っ!」
美咲の悲痛な叫びが病室に響き渡る。彼女は、雄馬の名前を何度も、何度も、壊れたように繰り返し、その体を抱きしめた。
突然の事態に、病室は一気に慌ただしくなった。美咲は、急いでベッドの呼び出しボタンを何度も押した。無機質な電子音がけたたましく鳴り響き、看護師と医師がなだれ込むように駆け付けてくる。
「患者さんの意識レベル低下!脈拍も低下しています!」
看護師の緊迫した声が飛ぶ。医師は雄馬の胸元をはだけさせ、心臓マッサージを開始した。
「ドクター、心肺停止です!」
「蘇生!アドレナリン!」
医師の指示が飛び交い、けたたましい機械の音が鳴り響く。医師は、雄馬の胸骨を力強く押し続け、電気ショックの準備をする。
「クリア!」
バタン!と乾いた音が響き、雄馬の体が跳ねる。しかし、モニターの波形は平坦なままだった。
「もう一度!クリア!」
再び電撃が放たれるが、雄馬の体はぴくりともしない。美咲は、その光景を直視できず、顔を覆って泣き崩れる。
香織とホノオも、雄馬のベッドを取り囲む医療スタッフの姿に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできない。
医師は、懸命な処置を続けるも、その表情は険しい。そして、やがて、彼は深々と頭を下げた。
「ご臨終です」
医師の重く、冷静な声が、病室に響き渡った。ホノオは、信じられないというように目を見開き、そして深く、深く息を吐き出した。
「おい…!マジかよ…!」
ホノオの口から、押し殺したような、しかし確かな衝撃の声が漏れた。彼は、悔しさと絶望に顔を歪め、力任せに壁を叩いた。
村上雄馬、享年20歳、死亡――
彼の訃報は、静かに、しかし確実に彼の関係者へと伝えられた。
まず、彼の担当編集者の元に連絡が入った。電話口で、雄馬の死を告げられた彼は、一瞬言葉を失う。
「――まじかよ……」
彼は、受話器を握りしめたまま、信じられないという顔で宙を見つめた。
散々手直しを命じ、最終的に新連載を見送った相手だ。才能は認めていた。しかし、結果を出させられなかった自分の無力さが、鉛のように重くのしかかる。深く、長い溜息が、彼の口から漏れた。彼の表情は、深い疲労と、どうしようもない後悔に満ちていた。
そして、その知らせは、漫画界の巨匠、島下先生の元にも届いた。
雄馬の才能を見抜き、温かい言葉で励ましてきた人物だ。島下先生は、報告を受けた時、表情一つ変えなかったが、その固く握られた拳が、内なる激しい感情を物語っていた。
「……そうか。惜しい男を亡くした」
絞り出すような一言。彼の視線は、遠く、壁に飾られた若き日の自身の作品に向けられていた。
「彼が生きていれば、きっと、この漫画業界も、もっと違う形になっていただろうに……」
才能ある若者の早すぎる死。それは、未来への希望が、突如として摘み取られたような感覚だった。涙は流さない。しかし、その背中は、悔しさと、そして深い悲しみを雄弁に語っていた。
看護師の手が、静かに、そしてゆっくりと、雄馬の顔に白い布をかけた。
彼の生きた証が、その下で永遠に閉ざされる。
美咲は、その光景を直視できず、崩れ落ちたまま肩を震わせる。
香織はすでに声も出せず、ただ涙を流すばかり。
ホノオは、壁に背を預けたまま、固く目を閉じ、その悔しさを押し殺していた。
季節は冬に差し掛かろうとしていた――。
冷たい風が吹き抜ける、隅田川沿いの散歩道。美咲、香織、そしてホノオの三人は、無言で川面を眺めていた。水面に映る、くすんだ冬の空。雄馬が亡くなって、もう数週間が経っていた。
「…雄馬、いい奴だったな」
ホノオが、重い沈黙を破って呟いた。その声は、いつもよりずっと小さく、寂しそうだった。
「うん…本当に」
香織も、潤んだ目で空を見上げた。アイドルとしての輝きは、今はその影を潜めている。
美咲は、何も言わずにただ、川面に目を落としていた。
雄馬との思い出が、走馬灯のように頭を駆け巡る。初めて会った日のこと。夢を語り合った夜。
彼の、まっすぐな瞳。そして、病室で見た、最後の笑顔。
「…彼が、本当に、漫画家になりたがってたの、一番知ってたのは、私たちだったのに」
香織の声が震える。ホノオは、そんな香織の肩に、そっと手を置いた。
三人は、それぞれの胸に雄馬との思い出を抱きしめ、静かに空を見上げていた。
夕焼けに染まり始めた空は、彼らの悲しみを静かに受け止めているようだった。彼の死が、三人の心に深く、重くのしかかっていた――。
ぐっと、雄馬は大きく背伸びをした。
「あー、描いた描いた。やっと終わったー」
唸るような疲労感と、達成感の混じった声が、静かな部屋に響く。机の上には、インクの匂いが漂う、完成したばかりの漫画原稿が積まれている。
彼の傍らに、ふわっと優しい匂いが漂った。振り返ると、そこには美咲が立っている。手には熱いコーヒーが二つ。
「お疲れ様、雄馬くん」
美咲は、原稿の山を覗き込み、くすりと笑った。
「もう、もっと私を可愛く描きなさいよー」
雄馬は、美咲の言葉に頬を掻きながら、いたずらっぽく笑った。彼の瞳は、かつての情熱を取り戻し、未来を見つめるように輝いていた。
「これを見せたら、ホノオも香織も、きっと喜ぶな!」
彼はそう言って、積み上げられた原稿を誇らしげに眺めた。美咲は、そんな彼の横顔をいとおしそうに見つめ、そっとコーヒーを手渡す。
「ええ、きっと。だって、最高の作品だもの」
外では、夕焼けがさらに深く、濃いオレンジ色に変わっていく。「夕焼けニャンニャン」のタイトルそのままに、茜色の光が部屋を満たし、二人の影を長く伸ばす。表紙には、黒猫のノラの絵が描かれていた。
彼のペンは、止まることなく、未来へと続く物語を描き続けていくのであった――。
机の上には彼が愛用したGペンが静かに佇んでいた。
「なあ?香織、美咲。俺たち三人で漫画家にならないか?」
「香織のアイデアも最高だし、美咲の原稿チェックも最高だと思うんだ。」
「俺たち最高のコンビだと思うんだよ」
「いいわねー」
筆跡 完
筆跡 黒瀬智哉(くろせともや) @kurose03
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