江戸側区境の惣助
風見 悠馬
江戸側区境の惣助
暁闇を破るように、一番鶏の声が響き渡る。
夜露に濡れた石畳を、豆腐屋の駆ける足音が遠ざかっていく。やがて聞こえ始めるのは、規則正しい大工の槌音、立ち上る味噌汁の香り、そして子供たちの甲高い笑い声。格子戸の向こうから、おはようさん、と交わされる挨拶は、どこか跳ねるような江戸言葉だ。
長屋の軒下で、惣助は朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。馴染みの小間物屋の店先で熱い番茶を一杯ご馳走になると、仕事の算段をしながらゆっくりと歩き出した。大通りの先にある橋を渡れば、今日の依頼人が待っているはずだ。
その橋の上からは、いつもの眺めが広がっている。黒い瓦屋根の海。その向こう、遥か遠くに聳えるのは、奇妙な形の山々だった。木々の一本も見当たらず、陽の光を浴びると山肌が白銀にきらめく、不思議な山だ。その麓を、音もなく滑っていく銀色の長い虫のようなものが見えるのも、惣助にとっては日常の景色だった。
橋の袂には、関所のように大きな建物が鎮座している。「仕度処」と墨痕鮮やかに書かれたそこは、この町と外とを行き来する者たちが、必ず立ち寄る場所だ。中からは、様々な音が漏れ聞こえてくる。
「いけねえ、会議に遅れちまう!」
丁髷を結った男が、慌ただしく駆け込んでくる。慣れた手つきで月代の剃り跡も生々しい鬘を外し、ロッカーと呼ばれる箱から窮屈そうな洋装を取り出して袖を通す。懐紙入れを革の鞄に持ち替え、草履を脱ぎ捨てて、磨かれた革靴に足を入れた。最後に、懐から板状の薄い絡繰を取り出して指でなぞると、男の顔から江戸っ子の威勢の良さは消え、時間に追われる者のそれへと変わっていた。
隣では、桃色の振袖を着た娘が、手早くそれを脱いで簡素なワンピースに着替えている。化粧ポーチから紅を取り出して唇に引き、日本髪を解いて茶色の髪を無造作に束ね直す。
誰もが当たり前のように、もう一つの顔に着替えていく。今日一日を戦うための、もう一つの鎧だ。惣助は、そんな彼らの背中を眺めながら、事務所へと向かう。
ここが、現代(いま)の東京に浮かぶ、陸の孤島。「江戸側区」と呼ばれる奇妙な特区なのだから。そして彼の仕事は、その二つの顔の間に生まれる歪みや摩擦を、いくばくかの銭で滑らかにしてやることだった。
事務所の土間は、ひやりとしていて黴と古い紙の匂いがした。区境専門の便利屋を自称する彼の元には、今日も厄介事が舞い込んでくる。つい先刻も、長屋の隠居が飼い始めた柴犬のことで相談があったばかりだ。
「いいかい、お爺さん。犬の登録はどっちかって? この土地の『地付き』を調べりゃあ、答えは一つしかねえ」
惣助は埃をかぶった羊皮紙の地図を広げてみせた。そこに引かれた妙に歪な朱線が、区境だ。犬小屋は見事に朱線の内側、つまり江戸側にある。
「あんたんとこの土地は、根っこから江戸側だ。保健所じゃねえ、お奉行様んとこに届けな」
そう言ってやると、隠居は深く頷き、礼だと言ってふかし芋を置いて帰っていった。惣助の武器は、口八丁手八丁と、そしてこの埃くさい古文書の山なのだ。
そんな彼の元に、涙で化粧を滲ませた女が駆け込んできたのは、昼下がりのことだった。江戸側区でも指折りの老舗和菓子屋『梅花堂』の若女将、お美代だ。店の建物は区境をまたいでおり、商品をこしらえる工房は江戸側区、客を迎える瀟洒な店構えは現代東京側にある、典型的な「区境店」だった。
「惣助さん、もう駄目かもしれません」
お美代は、畳に手をついて嗚咽した。聞けば、現代東京の条例が変わり、洋菓子店向けの新しい衛生基準を満たさなければ、店舗の営業許可が下りないという。伝統の製法を守る工房に、ステンレスの調理台や大型の冷蔵設備を導入するような大がかりな改築は不可能に近い。
「なんとかなりませんでしょうか。店を、丸ごと江戸側区の管轄にすることは…」
お美代はすがるように言った。
「うちの店は、ただ古いだけの店じゃないんです。曾祖母から、そのまた昔、ご先祖様はこの土地のお殿様にだって菓子を献上していたと、そう聞いて育ちました…。でも、そんな『古い誇り』なんて、今の法律の前では何の役にも立たないんですね…」
惣助は腕を組み、しばらく唸っていた。役所の決定を覆すのは至難の業だ。だが、彼の口の端には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
「お美代さん。その『古い誇り』とやら、もう少し詳しく聞かせちゃくれねえか」
その日から、惣助は梅花堂の蔵に籠りきりになった。
かび臭く、光の届かない土蔵の奥。そこには、店の歴史を物語る長持が、いくつも積み上げられていた。惣助はマスクで鼻と口を覆い、一つ、また一つと蓋を開けていく。中から現れるのは、帳面、書状、仕入の覚え書き。どれもこれも、虫に食われ、湿気で張り付いてしまっている。
「こいつは骨が折れるな…」
独りごちながら、彼は和紙の束を一枚一枚、息を止めるように慎重に剥がしていく。お美代が差し入れてくれた握り飯も、埃っぽい空気の中では喉を通らなかった。三日が過ぎた頃には、惣助の顔も着物も、黒い煤と埃で見る影もなかった。諦めにも似た空気が、重くのしかかる。だが、最後の長持の底、他の文書の下敷きになっていた一枚の和紙を見つけた瞬間、惣助の目が鋭く光った。
数日後。惣助はお美代を伴い、現代東京側の区役所の窓口に立っていた。ガラスのカウンターの向こうで、若い担当者はマニュアルを読み上げるように、冷たい口調で同じ説明を繰り返す。
「ですから、店舗の正面玄関がこちら側にある以上、当区の条例に従っていただくしかありません。これは決定事項です」
その言葉を、惣助は待っていたかのように遮った。
「お待ちを。店の『正面』が、本当にそちら側とは限りませんぜ」
惣助が懐から取り出したのは、黄ばんで端の欠けた一枚の和紙だった。梅花堂の蔵の奥から、彼が見つけ出したものだ。
「これは、梅花堂が寛永年間に、当時の藩主、有馬様へ菓子を献上した際の納品覚えです」
担当者は怪訝な顔で目を落とす。そこには、確かに梅花堂の名と菓子の名が、流麗な筆で記されていた。周囲のカウンターで作業をしていた他の職員たちも、何事かとこちらに視線を向け始めている。
「そして、ここにこうあります。『御用改めの上、裏手の御用口より納入のこと』と」
惣助はもう一枚、古い絵図を広げた。梅花堂の工房側、今は通用口として使われている質素な戸口を指し示す。
「殿様への献上品を運び入れた、この『御用口』こそが、店の格式と歴史を象徴する、本来の『正面』だ。違うかい?」
畳みかける惣助の言葉に、担当者は返す言葉を失う。法律は、「正面玄関」の位置を基準とする。だが、その「正面」がどちらかなんて、法律のどこにも定義されてはいない。惣助は、その一点を突いたのだ。
「客を迎える表の顔と、伝統を守る裏の顔。この店には、二つの正面がある。そして、より重いのは、三百年の歴史が宿るこちらの『御用口』のほうだ。古い掟と新しい法、どちらがこの店の魂に近いか。あんたにそれが決められるのかい?」
担当者は額に汗を浮かべ、立ち往生している。惣助の言葉は、単なる屁理屈ではなかった。それは、法律の条文には書かれていない、店の歴史と誇りに裏打ちされた、確かな「理」だった。
結局、役所はこの理屈を認めざるを得なかった。店の籍は、晴れて江戸側区へと一本化され、梅花堂は存続が決まった。
後日、惣助は梅花堂の工房にいた。頑固一徹で知られるお美代の父親が、深々と頭を下げてきた。
「惣助殿、このご恩は一生忘れ申さん」
「いいってことよ。俺はただ、古文書に書いてあることを教えてやっただけだ」
惣助はそう言って、お美代が淹れてくれた熱い茶をすする。店自慢の練り切りは、勝利の味がした。
事務所に戻る道すがら、惣助は再びあの橋の上から、二つの世界を見下ろした。江戸側区の瓦屋根の向こうには、現代東京のガラス張りのビルが聳え立つ。法は冷たい。だが、人の営みが法を作る。ならば、人の想いで法の隙間を温めるのが俺の仕事だ。
惣助は懐から、隠居にもらったふかし芋を取り出し、一口かじった。まだほんのりと温かかった。
江戸側区境の惣助 風見 悠馬 @kazami_yuuma
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