第3話 沈黙の食堂
朝が来たはずだったが、空は白みもせず、薄い灰色が空間を塗りつぶしていた。
船室には朝のざわめきがない。誰もが同じ時刻に目を覚ましているはずなのに、それぞれが目を逸らし、音を立てることを避けているようだった。
理由は誰も言わない。けれど分かっていた。
あの音――船底から這い出すような、濁った「何か」の存在に、皆が気づいている。
前夜、船室の隅にある仕切りの下で、血が広がっていた。誰が倒れたのかは分からなかった。名を名乗る者も、死体を確認する者もいない。ただ、床板に染み込んだ赤黒い痕が、あの夜が現実だったと告げていた。
船室の端、かつて食堂だったらしい空間には、今も長机と椅子がいくつか残っている。
窓は塞がれており、灯りは薄暗い魔石の光だけだ。リタと俺はそこに移動し、割れた食器をどかして床に座った。
赤子はリタの胸元で静かに眠っていた。生後間もないとは思えないほど、よく眠る。
「……昨日の、あの黒い影のこと」
リタが切り出す。
「思い出したの。あれを見た時……私、どこかで見た気がしたのよ。もっと前に。船じゃなくて、あの前――出港前の集積地で」
「覚えてるのか?」
「断片だけ。煙の向こうにいた誰か。袋を担いでて、手に瓶を持ってた。すごく静かで……ああ、あのときも、何も言わなかった」
彼女の声は少し震えていた。
「同じ男かは分からない。でも……そのときも、誰かが消えたの。名もわからない少女で、気づいたときには毛布だけが残されてた」
記憶の影が濃くなっていくのを感じた。
俺はポケットから、以前拾った欠片を取り出した。表には小さな渦巻きのような模様があり、裏には微かに焦げ跡のような痕がある。
リタが昨日、同じ模様の木片を見つけたと言っていた。今も彼女はそれを布に包んで持っていた。
「それ……“印”じゃないかしら」
「印?」
「誰かが、誰かを記録した印。あるいは、何かを“確定”させるための……合図みたいな」
言葉にした瞬間、俺は背筋がぞっとした。
もし、あの夜現れた黒い影が、何かを“選別”していたとしたら。
その“記録”に、既に自分も組み込まれているとしたら。
その日の夕方、食堂の壁に一枚の紙が貼られていた。
誰が貼ったのか分からない。そこには、こう書かれていた。
「持ち物の確認を。未登録の品は回収対象となります」
「未登録って……何を基準に?」
リタが呟いた。
「俺たちの持ち物なんて、船に乗る時にろくに検査もされなかったくせに」
「記録されてない物が、船の“異物”になるんじゃない? 拾い物とか、交換で得たものとか」
まるで、「この場にふさわしくない記憶や物」を消しにかかっているように思えた。
そのとき、食堂の奥で、誰かが椅子を倒した音がした。
俺たちが顔を向けると、椅子の下にうずくまる人影が見えた。
若い女だった。船に乗った頃から見かけていたが、名前も話したこともない。
彼女の足元に、小さな布袋が転がっていた。布がほどけ、中から銀色の薄い板が何枚も散らばった。
魔石でも食器でもない。それは――記録媒体。文字が刻まれている。
「……日記?」
リタが近づこうとしたとき、その女は急に叫んだ。
「さわらないで! これ、私の記憶だから! あれに、渡さない……!」
“あれ”。また、その言葉だ。
皆、言葉にしないまま「何か」を指すとき、それを使う。
影。気配。足音。そして、記録。
返して……返してよ。誰にも見せてないのに、なんで知ってるの。なんで……」
彼女は震えていた。
まるで、何かに「触れられた者」の共通反応のようだった。
その夜、俺たちは交代で見張ることにした。
リタが眠っている間、俺は食堂の隅に座っていた。
外は静かだったが、たまに船体が小さく鳴った。木が軋む音ではない。もっと、内側から響くような音。
ふと、壁の板の間に挟まれた紙片に気づいた。それは誰かの手紙の切れ端のようだった。
「見つかったら、名前が消える。名を呼ばれる前に、隠せ」
名前が、消える?
それは“死ぬ”という意味なのか。それとも、もっと根本的な――存在の記録ごと“抹消”されるということなのか。
気づけば、背中に汗をかいていた。
翌朝。
女の姿はなかった。
彼女が寝ていたはずの場所には、焦げたような跡と、砕けた銀板が残っていた。
誰も名前を呼ばなかった。誰も探さなかった。まるで、最初からいなかったかのように。
だが、確かにあった。あの叫びも、日記も。
リタが静かに言った。
「記録がないってことは、“この船にいた”証拠がもう、どこにもないってこと」
「……誰が、消してるんだ?」
「分からない。でも、“あれ”は記憶を集めてる。記録されてない記憶は、異物になる。だから消される」
その理屈に、俺は無理やり納得するしかなかった。
考えるほどに、わからなくなる。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
――この船は、運ぶためのものじゃない。
――これは、何かを“選別し、記録する”ための船だ。
そして俺たちは、今その過程に巻き込まれている。
その夜、赤子が初めて泣いた。
それは、どこか遠くで響くような、聞き慣れない声だった。
だが、俺とリタは顔を見合わせて、どこかで安心していた。
この子は、まだ“ここにいる”。
それだけで、十分だった。
余白の都市 犬童ひいらぎ @hiragi0111
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