第一楽章 音が途切れた

あたしは弓を構えた。

でも手に汗が滲み、鼓動は少し早く、息も少し浅い。舞台に立つのは初めてでは無いのに、なぜか緊張してしまう。


それはあたしが小学生の頃、グループレッスンで練習したことを市民ホールで発表する場のことだった。

あたしは他の子達とは何かが違うらしくラストに順番を回された。当時は幼心で疑いもしなくて最後の番になることを快諾したことは覚えてる。

あたしの番のとき、照明は意外にも眩しかった。

観客席で見ているパパやママ、他の子達の親御さんの視線がなぜかプレッシャーに感じてなかなか音を出せなかった。

深呼吸をしてから一音を出したらそのまま流れるように演奏をして終えたのは覚えるものの、演奏中のことは全然記憶になかった。


幼い頃の、小学生の初めての発表会も乗り越えれたあたしは大丈夫。だから、今も大丈夫だけど、あいつの視線が気になって集中できない。やめて欲しい、そんな期待をするような目であたしを見ないで、あたしはあんたみたいに綺麗な音は出せないんだから。だからそんな目であたしを見ないで。


「…!」


一呼吸置いて、一音を鳴らした。あとはあいつの視線にあたしの問いを乗せるだけ。




パガニーニ カプリース第24番


なんであんたはいつもいつもそうやって優しい眼差しを向けるのよ、意味わかんない!

だいたい、あたしの音が好きだって言ってきて高校卒業する前にいきなり告白してきて、あたしは勢いに押されて答えちゃったけど…あんたのことは認めてないんだからね?!

高校のとき文化祭で初めてデュオを組んだけど、あんたは納得したと言ったけどあたしはまだ納得してないんだから、まだ上を目指せると思ったんだから!




もっと繊細に、もっと情熱的に。

あたしはあたしだけの音を追い求め、奏でる。

弓が弦を擦る度にそれはあたしの叫びに、それはあたしの祈りに、それはあたしの願いに、あたしはあたしの命を音に乗せて奏でる。




…まさか同じ演奏グループに所属するとはつゆとも思わなかったし、大学卒業したら音楽教室開いてるし、あたしが1番疑問に思ってるのはなんで地元の音大に進んだのよ?あんたの技術ならもっと上を目指せられるのになんでここにいるのよ。意味わかんない。

あんたはあたしの何が好きなのよ、意味わかんないわよ。

あたしはあんたこと、嫌いなんだからね。なんでここまで好いてくれるのよ。本当に意味わかんない。




微かな不協和音。

音にほんの少しだけ濁りがある。音ではなく、悲鳴をあげている。やっぱりだ、弦が切れようとしている。

でも、それでも構わない。切れたら切れた、アドリブでどうにかする。あたしは天才では無いけれど努力でいつもどうにかしてきた。




音瀬陽翔

彼を知ったのは何かの集会の時に高校の校歌の演奏の時だった。そのとき設備がちょうど修理中だったかで校歌を再生出来なかった。

そこで体育館にあるピアノで校歌を歌おうということになった。演奏の白羽の矢が立ったのは音瀬陽翔だった。

彼の演奏は音楽の先生よりとても聴きやすくて繊細でスッと入ってくる感じだった。教科書や音楽関係の雑誌に取り上げられているような天才が身近にいると実感させられた瞬間だった。

あの日はなぜか悔しいと思って空き教室を借りてヴァイオリンの練習をしたんだっけ。




また音に違和感を感じた。確実に弦が切れそうになる。でもあたしは手を止めることは無かった。あたしはあいつに問いを投げかけなくちゃいけない。

ここで手を止めたら、あいつに音楽で問うことも言葉で問うことも出来ない。




ふと、音楽教室に通っていたこと時期のことを思い出す。

美月先生。年齢は恐らく70歳くらいの女性であたしのヴァイオリンの恩師だ。先生はとある楽団の第一ヴァイオリニストだったというのを聞いたことがある、いまは完全に現役を引退して音楽教室を開いているけど、音楽を本気でやらない人には絶対に教えないというポリシーがある。

それでもあたしにはすごく優しかった。


「大丈夫よ、失敗しても音が答えてくれる」


あたしが難しい楽曲に挑戦して失敗する度に言ってくれた魔法の言葉。だからあたしはヴァイオリンをひたすらに弾けるんだ。




でも、あたしはなんであいつのことをこんなにも意識してしまうのだろう。

いや、あいつにあたしが演奏しているところを見てほしいって思っているのか。分からない。

あたしは自分のことを優等生だの天才だのとは思っていない、みんなそうは言うけど、あたしはあたし自身のために努力しているから、みんながそう言うだけ。

もちろん、パパやママ、美月先生にあたしの演奏は見てもらいたい。だけど、あいつ、音瀬陽翔には見られたくない。あいつの音には到底届いていないから。



そっか、あたし、まだ分かっていないんだ



演奏が終わると同時に弦はプツンと切れた。

拍手が聞こえ始め、それは少雨から段々と大きくなり土砂降りの雨のような万雷とでも言うような拍手の塊。

有難いけど、でも、いまのあたしにはそんなものは水底にいる魚のような、遠くにいるような感覚で耳には全然入ってこなかった。

照明はただひとりのあたしを未だに照らしていた。あの頃のように眩しかった。やりきったより届かなかったという思いが込み上げてきて、喉の奥に何かが引っかかるような感覚がした。怖かったのか怯えているのか膝が震えていた。



あたしが欲しかったのは万雷の拍手なんかより、音瀬陽翔に届いたかという思いだけ。



ふと、観客席にいるあいつと目が合う。

何であんたはいつもそうやって微笑んでいるの?あんたはあたしの音が届いているの?なんで、そうやっていつも優しくしてくれるの?

あたしは一礼をしてそそくさと舞台袖に逃げる、喉に引っかかった何かを早く取りたい。


「あんたなんか、もう知らない…」





あたしは舞台袖に引っ込んだ。大雨のような拍手は徐々に消え去り聞こえなくなった。次の演者の人には目もくれず、あたしは控え室の方へ向かった。


カツカツカツと自分の足音が余計に大きく感じる。体も冷えてきた、冷房はこんな効いてたっけ。分からない。

あたしは喉に引っかかった何かを早く取り出したい。弓を持っていた右手は微かに震える。

控え室の扉を開けると、仕立て上げられた衣服の気配と、きちんと椅子の角度が正しく直された後はついさっきまで人がいたような気配を感じた。

そういえばさっき次の演者の人とすれ違ったような気がするけどあまり覚えていない。


誰も使っていない適当な椅子に座った。

どっと疲れたような気がする。ため息をつくにしても喉の引っ掛かりが邪魔をして出来ない、そのかわり目から涙が出た。


「…なんでよ」


成功失敗なんていまさらどうでも良かった。音質が良かった悪かったなんてどうでも良かった。

あいつに届いたのか、分からない。それだけが知りたかった。でもあたしはあの場から逃げた。更に涙が出る。


「あたしだって…っ!あたしだって頑張ったんだっ!……なのに…うっぐ…っ!ひっぐ…っ!なんでよっ!なんなのよっ!」


何かに八つ当たりしたいくらい感情が溢れた。最後の理性が破壊衝動を無理矢理止めていた。声にならない嗚咽と何か腹の底から吐きそうな気持ち悪い気分になった。手で拭っても拭っても、もう涙は止まることは無かった。


「うぅ…うっぐ…誰か助けてよ…」


訳の分からない、よく分からない感情に支配されてしまった。悲しみなのか悔しさなのか、虚しさなのかよく分からないし、もしくはその全部かもしれないし、そうじゃないかもしれない。

あたしの嗚咽のような慟哭のような泣き声は誰もいない控え室で虚しく響き、あたしは惨めに感じた。




散々泣き散らかした惨めな体を無理やり引きずるようにホールから出た。

ホールの名前は星の響きシンフォニーホール。名前が長いからみんなは星響(せいきょう)ホールと呼び親しんでいる。

小高い丘の上にあるのかちょっとした坂を登り降りする必要はあるけど、そこまで大変な思いはしない。桜並木になっていて等間隔で桜の木が植えられている。


坂を下りきったら自然と商店街に入る。時間は夕方5時過ぎぐらい。そろそろ閉店の準備をしている店やすでにシャッターを下ろしている店がチラホラとある。遠いところから風に乗ってきて「夕焼け小焼け」が聞こえてくる、少しだけ寂しい時間帯。


「んぁ?かなでっち?かなでっちじゃーん!何してんの〜?」


元気よく手を振ってこっち来るのは高校生の時の同級生、日野夏樹(ひのなつき)さんだ。派手な金髪のウェーブに丈が短いシャツにホットパンツ、ロングブーツを履いてる。つけ爪も長くキラキラしてメイクもキラキラして、正しく自分の世界で生きている子。


日野さんはいつもとても元気で事ある毎にあたしに凄く絡んで来ては騒いでいて、一緒にいても退屈はしなかった子だ。


「…うわ、かなでっち、目ぇパンパンの真っ赤っかじゃーん、どちたの?お姉ちゃんに言ってみ?」


「…日野さん」


あたしはまた泣き出しそうになった。どこにも出せない感情を少しだけ彼女に預けたかったから。


「まあ、難しいことはなしなし、考えな〜い。コンビニでアイスしばく?それともファミレスでパフェしばく?どっちでも最強っしょ?どっちがいい?」


「…ファミレスで、パフェ、しばこうか?」


「よっしゃ決まり〜、善は急がば回れ〜」


日野さんはヴァイオリンケースを持っていない方のあたしの片手を握って引っ張ってくれた。強く握ってくれた手のつけ爪は少し痛かったけど、それでもいまは心地よかった。



星響ホールを少し戻ったところ、古い文房具屋さんの向かい側に例のファミレスがある。日野さんはよく通っているのか、私は何も言わずに入った。


「じゃあ、スペシャルサンデーを2つお願いしまーす」


日野さんは高校生のときはずっとルンルンと楽しそうにしていた、今日も楽しそうにルンルンとしている。


「…日野さんはさ、届かない思いってしたことある?」


「届かない思い?どんな重さやーつ?」


日野さんはおどけた様子で肩をすくめた、それでも真剣に話は聞いているようで


「かなり重いやつ、かな。あたしの音は彼には届かなかったんだ、彼は拍手をしていたと思うけど、ずっと微笑んでいたんだ」


「んぅー?別に拍手されたり微笑まれたりするのは良くね?かなでっちは何が気に入らなかったのー?」


「なに、が…?」


言葉に詰まってしまう。あたしは何が気に入らなかったのだろうか、何を気にしていたのだろうか、いまになって分からなくなった。頭が痛い。


スペシャルサンデーが運ばれてきた。日野さんはスマホでサンデーを撮っていた。

日野さんの行動1つ1つがキラキラしていてあたしには少し羨ましかった。


一通りのことが済んだのかスマホを置いて改めて真剣な眼差しであたしの方に向いた。こんな日野さんは初めて見る。


「…かなでちゃん」


いつもはかなでっちと呼んでくれるのにいまは違った。


「かなでちゃんは、本当はどうして欲しかったの陽翔くんに。別に拍手だけでも良かったんじゃないのかな」


「それは…」


あたしは言いかけたが日野さんはぴしゃりと遮った。


「…届かないって勝手に思い込んで、自分の世界に引き篭るのやめた方がいいよ。いや、やめなくてもいいんだけど、それは時と場合によるよ」


日野さんは細いスプーンをクルクルし始めた。


「かなでちゃん、音は届かないって言ってたけど、届いているかもしれない相手がいるってこと、忘れちゃダメだよ?」


そう言ってサンデーを一口すくって放り込んだ。


「んーま、やっぱこれだよねぇ〜」


あたしは何も言い返すことは出来なかった。その代わり、涙が少しだけ頬を伝った。

確かに日野さんの言う通りかもしれない。自分の世界に引きこもって、相手をないがしろにしていたのかもしれない。でもあいつの優しさは本当に分からない。いや、分かりたくない、分かってしまったときが怖いだけなのかもしれない。


「…おいしいね、これ」


「でっしょ〜、あーんっ」


日野さんは無邪気にまたサンデーを放り込んでいた。あたしにとってこれはまだ酸っぱかった。



その後日野さんとは他愛のない会話をして自然とそのまま解散となった。

別れ際での日野さんの言葉がやけに頭の中で響く。


自分の世界に引き篭もるのはやめた方がいい


音楽は、自分の世界だ。それは間違いないはず。

そこにいることが悪いことでは無いというのは分かっている、自分の世界だからこそ鋭敏になってしまう、大切にしていたから。

だから壊れてしまうのが怖かった、音として言葉として届かないのが怖い。あたしはまだこの世界をまだ愛したいし、でもまだ本当に愛せてないと思う。

日野さんと別れてから、時間は夜の7時すぎ。

すっかり空からは日が落ちて星が彩っている。

星たちはまるで自分が1番だと思って輝き続けている。

2時間ほどの前に通った帰り道に差し掛かった。その後に馴染み深い、あたしの中では渦中の人の声が聞こえた。


「…あれ?かなでちゃん?」


「……なによ、あんた」


「何って、この時間まで歩いてのは珍しいなって思って。演奏会が終わったあとどこかに行っていたの?」


「別にどこでもいいでしょ。あたしはもう家に帰りたいの」


陽翔の声を振り払い、あたしは歩みを進めた。もうたくさんだ、あまり関わりたくない、あたしの世界を壊そうとしないで。


「待って、かなでちゃん。話があるんだ」


陽翔は少し戸惑ったように言った、しかも着いてきている。

なんなら着いてこないで欲しい、いまは陽翔に構える余裕もないし気持ちはない。

商店街を抜けて、特有の喧騒はなくなり住宅街に出た。

ここから約20分ほどであたしの家だ。この状況が続くと思うならとても気は重い。


しばらく2人で歩いた。

陽翔はあたしの手を握った。

ピアニスト特有の長い指、ちょっと女性的なのに男の子らしく力はある、なんかずるい。

あたしは握り返してしまった。助けを求めるように。


「…さっきの演奏良かったよ。パガニーニのカプリース第24は難しいでしょ?いや、パガニーニの楽譜はどれも難しいんだけどさ」


うるさい。


「かなでちゃんの感情がよく出ていたと思うよ」


つい、はっとしてしまった。でもそれは何か違うような気がした。

よく出ていたと思うなら、なんで届いていないフリをしているの。


「…そう、それなら良かった」


陽翔は違和感を感じたのか立ち止まった。

でもあたしはそれでも、足を止めることはなかった。止まったら二度と動けなくなるからと思ったから。つないだ手が自然と解けた。


「ごめんね、陽翔。あたし、もっとあんたの隣に立ちたかった」


あたしは陽翔の方に振り返った。あたしの顔がどうなっていたのかわからない、たぶん泣いていたと思う。辺りはやけに静かだった。


「だから、だからね。この関係はもう終わり」


あたしは駆け出した。全てを振り払うように。


「かなでちゃん…」


陽翔の小さな、呼び止める声が聞こえたような気がした。

でも、あたしは振り返らなかった。振り返りたくなかった。


ごめんね、陽翔。あなたの隣で演奏をする資格はあたしには持ち合わせてないんだ




無我夢中で走って、玄関を開けた。暗いアパートの一室。

あたしは靴を脱いで、その場でへたれ込み声にならない声でまた泣いた。

今日は一日中泣きっぱなしだ。いつからあたしはこんなにも泣き虫になったのだろうか。

悔しくて、悲しくて、苦しくて、寂しくて、ひたすらすすり泣く。



どれくらい経ったのかよく分かっていない。ひとしきり泣いたあとふと、スマホの時計を見た。


21:06


明日なんて来なければいいのに。ただ苦しいだけなら今日で時間が止まれば良いのと思いながら、荷解きをする。


切れた弦を直さなきゃ、別に明日でもいいか。

またふとスマホを見る。


21:16


楽団のグループチャットが数件溜まっている通知と、その中に音瀬陽翔の個人メッセージの通知があった。


『かなでちゃん、何があったか僕には本当に分からないんだ。力になれることがあったら連絡をしてほしい』


「…なによ、バカ」


陽翔の優しさは時には眩しく映る、時には本当に優しくて、心地いい。

でもあたしは、それを受け取らなかった。


あたしは、弦を切ってしまい、陽翔との縁も自ら切った愚か者だ。


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弦が切れました 恋も切りました ついでにあなたとの縁は私が切りました 赤毛のフクロウ @g36hk

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