第49章「春風の道、ふたりの契約(完)」
朝靄が晴れてゆくように、空がほんのりと紅く染まり始めていた。
山の端から覗いた陽光が、長い冬の眠りを解くように、村を包む木々の梢を照らしていく。
春――それは再生と旅立ちの季節。
境界の社の前に立つ向葵と健太の姿は、どこか儀式めいて見えた。
しかし今日ばかりは、形式でも、契約でもない。ただふたりが“自らの意思で”選んだ未来のための、一歩だった。
「もう、“役目”じゃない。私がここにいるのは、私が決めたから」
向葵は、真っ直ぐに健太を見て言った。
その声に、迷いは一切なかった。
かつて、王家の血を引く巫女として「契約」によってこの地にやってきた彼女。
民のため、神のため、役目に縛られた日々。
だが今の向葵は、誰かのために選ばされたのではない。自分の足で立ち、想いを告げようとしていた。
「俺も…俺も、ずっと“村のため”“家のため”って言い訳にしてたのかもしれない」
健太は苦笑しながらも、少し俯いて言った。
「だけど向葵、今は違う。俺はおまえと、生きていきたい」
まるで契約の誓文を交わすかのように、彼は静かにそう告げる。
向葵は笑った。
どこか照れたような、だけど嬉しさが零れ落ちそうな、春の光のような笑顔で。
「そうだね、じゃあ…もう一度、“契約”しよっか」
「え?」
「今度は、“神”じゃなくて、“ふたり”で交わす契約。期限なし、更新もなし。破棄も禁止」
健太は吹き出しそうになりながらも、「それは厳しいな」と小さく呟いて、手を差し出した。
向葵はその手をしっかりと取った。
ふたりの指が触れ合うと、不思議と微かな風が吹いた。
春風――冬の名残を攫い、やさしく土地を撫でていく風だ。
*
――その日、村の集会所では祝宴が開かれた。
主賓はもちろん、健太と向葵。そして彼らのもとに集った仲間たち。
「誓約書、ちゃんと焼いたよ。あれが残ってたら、また神さまに文句言われるかもだし」
まどかがにこやかに笑いながら、焼いた和紙の灰を小瓶に詰めていた。
「書き直しする気ゼロってことだな」
友希が呆れたように言うと、碧が「いい契約だったと思うけどね」と笑う。
「おかげで、私も少しだけ人を信じる方法を思い出せた」
理子は杯を手にしてそう言った。
誠はそんな理子に「少しずつ、変わっていけばいい」と応じた。
その輪の外から、友也が静かにメモを取り続けていた。
「“春風の中、契約は契りとなり…”…うーん、なんか詩的にしすぎたかも」
「でも素敵だよ。友也くんの言葉って、ちゃんと“見えてる”感じがするから」
実咲が隣でそう言うと、友也は少し赤面して「そ、そうかな…」と視線を逸らした。
一方、やや離れた縁側で、優一が独りでお茶を啜っていた。
「……距離っていうのは、大事なんだ。でも、たまには近づいてもいいかもしれない」
ぼそりと独り言のように呟いたその声に、智恵が「風の向きが変わる時って、なんか怖くて、でもちょっとワクワクする」と同意した。
康平はそんな彼らの様子を見ながら、帳簿を片手にこっそり酒の残量を確認していた。
「宴の終わりと始まりの計画は、どちらも重要だ。……ま、今夜は“予定外”が多くてもいいか」
*
夜も更け、皆がそれぞれの場所で静かに語り合う中――
向葵と健太は、社の裏手の小道にふたりきりでいた。
「ねえ、これからどこへ行こうか?」
「行く、って?」
「この村で一緒に生きていくって決めたけど、でも旅にも出たいなって。見たことのない景色をふたりで見たいの」
「……ああ。行こう。俺たちの、春風の道を」
ふたりの手が、再び結ばれる。
それはかつての“契約の手”ではない。
名前もない、けれど確かな想いを込めた“手”。
約束も、儀式も、神託も、もういらない。
ただ信じて、ただ歩いていく。
――この世界のどこかに、きっとまた春が巡る。
ふたりでその風を迎えに行くために。
(第49章 完)
(End)
契りの花、朧に咲く mynameis愛 @mynameisai
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