第48章 誓いの名残、ふたりで繋ぐ記憶

 静かだった。

 祭殿の奥、かつて契約の儀が交わされた空間には、もう香の煙も、祝詞の声も、鈴の音すらない。ただ、白木の床を軋ませる向葵の足音が、ゆっくりと静寂に沈んでいく。

 向葵は歩みを止め、中央に据えられた契約盤を見下ろした。それは、あの夜、健太と交わした“嘘の契り”の象徴だったはずなのに、今となっては懐かしい。

 「健太……ほんとに、ここで私たち、始まったんだよね」

 誰に言うでもない呟きが、天井の梁へと吸い込まれていった。

 後ろから、柔らかく戸の開く音がする。

 振り向かなくても分かる。あの足音。あの呼吸。あの気配。

 「向葵」

 健太の声は、少しだけ揺れていた。

 「ごめん、待たせた。……遅くなったけど、俺にも……ちゃんと伝えたいことがあるんだ」

 向葵は振り向いた。静かに、けれど真正面から、健太を見据えた。

 彼の髪には道中の風がいたずらしていて、額には少し汗がにじんでいる。けれど、その眼差しは濁りなく、まっすぐだった。

 「……言って」

 促すと、健太は一歩、また一歩と彼女に近づいた。

 二人の距離は、あの最初の契約のときよりもずっと近く、そして温かい。

 「向葵。……俺は、おまえの行動力が、感情のまま突き進むところが、ずっと怖かった。でも、同時に羨ましかった。自分にはない強さだったから」

 「……」

 「でも、気づいたんだ。俺がずっと“正しさ”で守ってきたものは、誰かを本当に救う力にはならなかった。おまえが、目の前の人を見て、迷いなく動くその姿こそが、ほんとの意味での“守る”ってことなんだって」

 向葵の表情が少し揺れる。

 でも、それを悟られないように、言葉を遮らず、ただ待った。

 「だから、今度こそ本物の“契り”を交わしたいと思った。形じゃなくて、言葉じゃなくて、気持ちで繋がる契約を……。この先の道を、おまえと一緒に歩きたいって、心から、そう思ってる」

 そう言って、健太は懐から小さな、丸い包みを取り出した。

 それは香の包みでもなければ、宝玉でもない。ただの、草で編まれた指輪。二つ。

 「誓約の印に、これを。……不格好だけど、自分で編んだ」

 向葵はそれを受け取り、指先でくるりと回した。

 その手のひらに、健太が重ねる。

 「これからの未来、おまえがまた誰かのために走り出そうとするなら、俺も一緒に走る。今度は、隣で。反対もしないし、止めもしない。……一緒に、やりたいんだ」

 向葵の瞳に、光が滲んだ。

 「……馬鹿」

 その声は震えていたけど、優しかった。

 「もっと早く言いなさいよ。そうじゃなきゃ、私……ずっと自分が、間違ってたのかって……っ」

 言葉の最後は、涙に飲まれた。

 健太は静かに向葵の肩を抱いた。

 そして、ふたりはゆっくりと額を合わせ、もう一度、契約盤の前に並んだ。

 「形は要らない。記憶があれば、それでいい」

 「うん、ふたりで進めば、それでいい」

 契約の終わりは、始まりの音と同じく静かだった。

 けれどそこには、たしかな温もりと、未来の光が満ちていた。




 草で編まれた指輪は、儀式用の玉飾りよりも温かく、向葵の指にそっと馴染んだ。形も不揃い、色もまちまち――けれどそれが、かえって二人らしい。

 「なぁ……向葵」

 肩を並べて祭殿の縁に腰かけながら、健太がぽつりと漏らす。

 「俺たち、最初は“利用し合う契約”って言ってたよな。お互いの立場を守るための、表向きの関係でいいって……」

 向葵はそれを聞いて、少し眉をひそめた。

 「……うん、そうだったね」

 「けど、本音を言えば――おまえの隣に立っていたいって、最初から思ってた気がするんだ。惹かれてたんだよ、たぶん、ずっと」

 「そうやって後出しで言われるとさ、私、恥ずかしいんだけど」

 「俺も恥ずかしい」

 互いに照れ笑いを浮かべるその姿に、もはや駆け引きも策もない。

 ただ、本音と本音が交差して、やっと同じ温度に至っただけ。

 「でもさ、私、あのとき言ったよ。『契約でいいから一緒にいて』って」

 「うん、覚えてる」

 「なら今度は、ちゃんと言うよ。契約じゃなくて、本気で一緒にいたいって、私も思ってる」

 「……」

 「ねえ、健太。あなたの未来に、私を入れて」

 それは、どんな誓約の言葉よりも真っ直ぐで、

 どんな祝詞よりも、胸の奥に響いた。

 健太は静かに頷き、向葵の手を取った。

 「ありがとう。……じゃあ、これからはふたりで」

 そのとき、外の庭の方からぱらぱらと拍手が起きた。

 驚いて縁から顔を出すと、そこには――

 友希、理子、康平、まどか、優一、碧、友也、智恵、誠、実咲。

 それぞれの立場で、それぞれの想いで関わってくれた仲間たちが、見守っていた。

 「……なんでみんな、ここに」

 向葵が目を丸くするのに、理子が小さく鼻を鳴らした。

 「見届けに決まってるじゃない。あなたたちがどう終わるか、それ次第で“負け”になるかもしれなかったんだから」

 「……負けって何!?」

 「勝負事は最後までよ、向葵」

 思わず笑いが漏れる。

 康平が言葉を補うように、穏やかに頷いた。

 「誰かの未来を背負うなら、最後まで見届けるのが礼儀だからな。……それが、あなたたちの選んだ道なら、俺たちは応援するよ」

 「……うん、ありがとう」

 そして、実咲がそっと前に出て言った。

 「契約は終わったかもしれません。でも、絆は続きますよ。教えることは、終わりじゃなくて、始まりですから」

 その言葉に、向葵の心はじんわりと温かくなった。

 ふと見上げた空に、淡い春霞が広がっていた。

 過去のしがらみも、嘘の仮面も、今はもう何ひとつ要らない。

 ふたりが選んだ道を、誰もが笑顔で見送っている。

 「ねえ、健太。次は、誰かのためじゃなくて――自分たちのために何か始めようよ」

 「うん。たとえば、ここから出て、新しい場所で暮らすとか」

 「海の見える町、なんてどう?」

 「いいね。……じゃあ、次の契約はそれにしよう」

 ふたりは顔を見合わせ、笑い合った。

 新たな契約のかたちは、もう“誓い”ではなく、“願い”になっていた。

 それは、終わりではない。

 本当のふたりが始まる、第一歩だった。

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