島野咲羽の孤独な世界と聞かれた音

 生徒会の書類を職員室に出した帰り、ふと耳に残った音に、私は足を止めた。

 音楽室のほうから──ピアノの音が聞こえていた。

 夕方の校舎は、いつも少し切ない匂いがする。日が落ちかけて、廊下が黄金色に染まって、みんなが帰ったあとの空気は、どこかぽつんとしている。

 そんな中で、その音は独りぼっちで震えるように響いていた。

『……誰?』

 思わず、音楽室の扉の前まで歩いていた。

 中をそっと覗くと、ピアノの前に座っていたのは──白雪彩音だった。

 同じ学年。違うクラス。

 真っ直ぐな黒髪と、いつも静かな瞳。整った顔立ちに、滲み出る気品。

 遠くから見ていて、ずっと気になっていた子だった。

 でも、怖かった。

 近寄ってはいけない気がした。

 彼女は完璧で、私なんかとは違う世界にいる人だと、そう思っていた。

 でも、今聞こえるこの音は──全然違った。

『こんな……優しい音……』

 指先が奏でる旋律は、どこまでも澄んでいて、どこか痛々しくて、でも誰かの心にそっと寄り添うような温かさがあった。

 まるで、寂しさが音に溶けていた。

 孤独を抱えた誰かが、言葉にできない感情を一音ずつ積み重ねていくように。

 きっとこれは、彼女の“本当の声”なんだ。

 私はただ、立ち尽くしていた。

 最後の音が、優しく響いて、静かに空気に溶けた。

 その瞬間、何かが胸の奥でほどけた気がして──気づけば、拍手をしていた。

「……えっ?」

 彼女が、こちらを振り返る。

 ぱちんと、大きく瞳が揺れた。

「……し、島野さん……」

「ごめん……つい、聴き惚れて……入っていい?」

 そう尋ねると、彼女は一瞬、戸惑ったように目を伏せてから、こくんと小さく頷いた。

 私はそっと扉を閉め、中へ入った。

 まだ空気に、彼女の旋律が残っている気がして、胸が少し震える。

「……こんなに優しい音、はじめて聞いた」

 言葉が自然と口をついて出た。

 心の奥に触れてしまったからこそ、言わずにいられなかった。

 彩音は驚いたように、ほんの少しだけ眉を下げた。

「……私の音が、優しかった……?」

「うん。なんか……抱きしめられたみたいだった」

 口にしてから恥ずかしくなって、私は目を逸らす。

 でも、嘘じゃない。あの旋律は、たしかに私の中の寂しさを包んでくれた。

「……そんなふうに、言われたの、はじめて……」

 小さな声。

 さっきまでピアノを弾いていた彼女が、今はまるで迷子みたいに見えた。

 その表情に、胸がぎゅっとなる。

「……よかった。ちゃんと、伝わって」

 ぽつりと零れたその声に、気づけば、彩音の瞳に涙が浮かんでいた。

「……どうしよう。変なとこ、見せちゃった……」

「変じゃないよ。すごく……すごく、綺麗だった」

 私はそっと、彼女の隣に腰を下ろした。

 震える彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。

 少し冷たくて、でも優しい指だった。

「私もね、ずっと一人だった気がしてた。でも……彩音ちゃんの音を聴いて、一人じゃなかったって思えたの。だから……ありがとう」

 その言葉に、彼女は静かに目を伏せ、また涙をこぼした。

 でもそれは、悲しみの涙じゃなかった。

 静かに、温かく、彼女の頬を伝う雫だった。

 その横顔は、まるで夕陽を受けて輝く桜の花びらみたいだった。

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ピアノの旋律に恋を紡いで~SideStorys~ 天音おとは @otonohanenoshizuku

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