オモイビト

くさかみみ

オモイビト

10年後の今でも、変わらない風景。俺の身長だけが伸びた。


真夏の太陽が容赦なく照りつけるアスファルトの上を、古びたスーツケースを引きずりながら歩く。蝉の声が耳にまとわりつき、遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。ここは、俺が人生で初めて「恋」という感情を知った場所だ。そして、10年前に、もう一度ここで会おうと約束した場所でもある。


「ただいま、かな……」


独りごちた声は、蝉時雨にかき消された。


あの夏、俺は小学五年生だった。都会の喧騒から離れ、祖父母の家で過ごす一週間は、毎年恒例の楽しみだった。しかし、その年はいつもと違った。縁側でスイカを頬張っていた俺の前に、突然現れたのが、あのお姉さんだった。


「あら、坊や。こんにちは」


透き通るような白い肌。長い黒髪が風に揺れ、涼やかな瞳が俺を見つめた。当時16歳だったお姉さんは、俺にとって、まるで絵本の中から飛び出してきたお姫様のように見えた。名前は、夏目 葵。祖父母の家の隣に住む、親戚のおばさんの娘さんだった。


その日から、俺の夏休みは一変した。葵お姉さんは、毎日俺を遊びに連れ出してくれた。裏山で秘密基地を作ったり、川で魚を追いかけたり、夜には縁側で花火をしたり。無邪気に笑うお姉さんの姿は、俺の心に深く刻まれていった。初めての感情だった。胸が締め付けられるような、甘くて、少し苦しい気持ち。それが「好き」という感情だと知ったのは、もっと後のことだ。


一週間はあっという間に過ぎた。最終日の朝、俺はいてもたってもいられず、お姉さんの家の前で立ち尽くしていた。このまま別れるのは嫌だ。もう会えなくなるなんて、考えたくない。


「お姉さん!」


意を決して、俺は叫んだ。葵お姉さんが振り返る。


「どうしたの、健太君?」


俺は震える声で、精一杯の想いを伝えた。


「俺、お姉さんのこと、好きです!結婚してください!」


今思えば、小学生の告白なんて、なんて無謀で、なんて可愛らしいものだっただろう。葵お姉さんは、一瞬目を見開いた後、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、俺の心に焼き付いている。


「ありがとう。でも、キミにはもっとお似合いの子がいるよ。それに、キミはまだ子供でしょう?気持ちは嬉しいけど、私は受け取れないよ。そうだ、10年後……ここでまた会おう。その時まで気持ちが変わらなかったら、私はこの返事を受け取るよ。」


お姉さんが指差したのは、祖父母の家の裏にある、小さな丘のてっぺんに立つ、一本の大きな桜の木だった。


それから10年。俺はあの約束を胸に、ただひたすら前を向いて生きてきた。中学、高校、大学、そして社会人。都会での生活は忙しく、挫折も経験した。それでも、心が折れそうになるたびに、あの夏の記憶と、葵お姉さんの笑顔が俺を支えてくれた。彼女にふさわしい男になりたい。そう強く願った。


そして、今年の夏。奇しくも、10年前と同じように、俺は一週間の休みを取って、この田舎に帰ってきた。


祖父母の家に着くと、懐かしい匂いがした。畳の匂い、土壁の匂い、そして、祖母が淹れてくれた温かいお茶の匂い。祖父母はすっかり年老いたが、元気そうで安心した。


「健太、大きくなったねぇ。もうすっかり立派な社会人だ」


祖母が嬉しそうに俺の頭を撫でた。


「おばあちゃん、葵お姉さんは……?」


俺は単刀直入に尋ねた。祖母は少しだけ目を伏せた後、ゆっくりと答えた。


「葵ちゃんはね、今も隣に住んでるよ。でも、最近はあまり外に出ないからねぇ……」


その言葉に、胸の奥がざわついた。何か、嫌な予感がした。


その日の夕方、俺は意を決して隣の家を訪ねた。10年前と変わらない、古びた木造の家。玄関の引き戸をそっと開ける。


「ごめんください」


声をかけると、奥から足音が聞こえた。そして、ゆっくりと姿を現したのは、紛れもなく、あの葵お姉さんだった。


「……健太、君?」


彼女の声は、10年前と変わらない、涼やかな響きだった。だが、その顔には、どこか疲労の色が浮かんでいるように見えた。


「お姉さん!俺だよ、健太!」


俺は興奮して、思わず大声を出した。彼女は少し驚いたように目を見開いた後、ふわりと微笑んだ。


「本当に、健太君だね。大きくなったねぇ」


その笑顔は、10年前と変わらない、優しい笑顔だった。だが、俺の心には、祖母の言葉と、彼女の顔に浮かんだ影が、小さな棘のように刺さった。


最初は、お互いぎこちなかった。10年という歳月は、俺たちの間に見えない壁を作っていた。何を話せばいいのか、どんな顔をすればいいのか。俺は社会人として、彼女は大人として、互いに探り探りだった。


「お姉さん、元気にしてた?」


「うん。健太君こそ、東京での生活はどう?」


当たり障りのない会話が続く。だが、その言葉の端々から、10年間の空白が感じられた。


それでも、俺は諦めなかった。この一週間が、俺に残された時間だ。10年前の約束を果たすために、俺はここに来たのだから。


次の日、俺は葵お姉さんを誘って、10年前によく遊んだ川へ行った。川岸には、あの頃と同じように、子供たちが水遊びをしていた。


「健太君、覚えてる?ここで魚を捕まえたんだよね」


葵お姉さんが、懐かしそうに目を細めた。その横顔は、あの頃と何も変わらない。俺は、その横顔をじっと見つめた。


「覚えてるよ。お姉さんが、俺が捕まえた魚を逃がしちゃって、俺が泣いたんだ」


「ふふ、そんなこともあったね」


二人の間に、少しずつ笑い声が戻ってきた。ぎこちなさは消え、あの頃のように、自然な会話が弾むようになった。


その日の夕方、俺は葵お姉さんと一緒に、裏山にある秘密基地の跡地へ行った。朽ち果てた木材の残骸が、当時の面影をわずかに残している。


「ここ、俺たちだけの秘密基地だったんだよね」


「うん。誰も知らない、特別な場所」


日が傾き、空が茜色に染まっていく。俺は、葵お姉さんの横顔を盗み見た。夕日に照らされた彼女の肌は、少しだけ透き通って見えた。


「お姉さん……」


俺は、意を決して彼女の手を握った。彼女は少し驚いたように俺を見たが、手を振り払うことはしなかった。その手は、ひんやりとしていた。


「俺、あの時の気持ち、ずっと変わってないよ」


俺の言葉に、彼女は何も言わなかった。ただ、夕日をじっと見つめていた。


三日目。俺は、民宿のおばあちゃんと縁側で世間話をしていた。この民宿は、祖父母の家から歩いてすぐの場所にある、昔ながらの宿だ。おばあちゃんは、この村の生き字引のような人で、何でも知っている。


「健太君、葵ちゃんとは会えたかい?」


おばあちゃんが、茶をすすりながら尋ねた。


「はい。昨日も一緒に川に行ったり、秘密基地の跡地に行ったりしました」


俺が答えると、おばあちゃんは少し寂しそうな顔をした。


「そうかい。葵ちゃんも、健太君と会えて喜んでるだろうねぇ……」


「何か、あったんですか?」


俺は、祖母の言葉と、葵お姉さんの顔に浮かんだ影が気になっていたので、思い切って尋ねた。おばあちゃんは、ためらうように口を開いた。


「実はね、葵ちゃん、少し前から体が悪いんだよ。都会の病院で、検査も受けたらしいんだけど……」


おばあちゃんの言葉に、俺の心臓が凍り付いた。


「病気……って、どんな?」


「それがねぇ……詳しいことは、私には分からないんだけど。でも、あまり良くないって、お母さんが言ってたよ。最近は、外に出るのも辛そうにしててねぇ……」


おばあちゃんの言葉は、俺の耳に、遠くの雷鳴のように響いた。頭の中が真っ白になった。病気。葵お姉さんが?そんなはずはない。あの頃の笑顔は、いつも元気で、太陽みたいだったのに。


その日の午後、俺は葵お姉さんの家を訪ねた。彼女は、庭で花に水をやっていた。


「お姉さん!」


俺は、少し荒い声で呼びかけた。彼女が振り返る。


「どうしたの、健太君?そんなに慌てて」


「お姉さん、病気なの?おばあちゃんが言ってた……」


俺の言葉に、葵お姉さんの顔から、さっと血の気が引いた。彼女は、水やりをしていたジョウロをそっと地面に置いた。


「……何のこと?私は別に、どこも悪くないわよ」


彼女は、無理に笑顔を作って言った。だが、その目は泳いでいた。


「嘘だ!おばあちゃんが言ってたんだ!都会の病院で検査も受けたって!」


俺は、感情的になって声を荒げた。どうして隠すんだ。俺は、お姉さんのことが心配でたまらないのに。


「健太君、そんなこと、どうでもいいじゃない。せっかく会えたんだから、楽しい話をしましょう?」


彼女は、俺の質問をはぐらかそうとした。その態度に、俺の心は深く傷ついた。


「どうでもいいわけないだろ!俺は、お姉さんのこと……!」


そこまで言って、俺は言葉を詰まらせた。これ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


「……ごめんなさい。私、ちょっと疲れたから」


葵お姉さんは、そう言って、俺に背を向け、家の中に入ってしまった。俺は、その場に立ち尽くすしかなかった。


その日から、俺と葵お姉さんの間には、大きな溝ができてしまった。俺は彼女のことが心配で、何度も話そうとしたが、彼女はいつも俺の目を避け、病気のことには触れようとしなかった。


「大丈夫だから。心配しないで」


それが、彼女の口癖になった。その言葉は、俺の心を安心させるどころか、かえって不安を募らせた。俺は、彼女に拒絶されているような気がして、胸が苦しかった。


四日目。俺は、祖父母の家で一人、ぼんやりと過ごしていた。葵お姉さんとは、ほとんど会話がなかった。このままでは、一週間が終わってしまう。そう思うと、焦りと絶望が入り混じった感情に襲われた。


「どうすればいいんだ……」


俺は、自分の無力さに打ちひしがれた。


五日目。朝から、雨が降っていた。俺は、まだ葵お姉さんとは話せていなかった。時間だけが、無情にも過ぎていく。


「お姉さん……」


俺は、意を決して葵お姉さんの家を訪ねた。だが、何度呼びかけても、返事はない。玄関の引き戸は、鍵がかかっていた。誰もいない。


俺は、焦りを感じた。どこに行ったんだ。こんな雨の日に。


心当たりのある場所を、片っ端から探した。川、秘密基地の跡地、村の小さな神社。どこにも、彼女の姿はなかった。雨に濡れながら、ひたすら探し続けた。


「どこなんだよ、お姉さん……!」


俺は、半ばパニックになりながら、雨の中を走り回った。その時、ふと、ある考えが頭をよぎった。


10年前の約束の場所。


あの丘のてっぺんに立つ、一本の大きな桜の木。あそこなら、いるかもしれない。


俺は、息を切らしながら、丘を駆け上がった。雨でぬかるんだ坂道は、足を取られそうになる。それでも、俺は必死に足を動かした。


丘のてっぺんに着くと、雨に濡れた桜の木が、静かに佇んでいた。その木の根元に、小さな人影が見えた。


「お姉さん……!」


俺は、その人影に向かって駆け寄った。


葵お姉さんは、桜の木の幹に背を預け、膝を抱えて座っていた。雨に濡れた髪が、顔に張り付いている。俺の姿を見ると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、少しだけ赤くなっていた。


「健太君……どうしてここに……」


彼女の声は、震えていた。


「お姉さんこそ、どうしてこんなところにいるんだよ!心配したんだぞ!」


俺は、怒りと安堵が入り混じった声で言った。彼女は、俯いたまま、何も言わなかった。


「……ごめんなさい」


やがて、彼女は蚊の鳴くような声で謝った。


「俺も、ごめん。感情的になって……」


俺も、素直に謝った。雨音だけが、二人の間に響いていた。


しばらくの沈黙の後、葵お姉さんはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、決意に満ちていた。


「健太君……話すわ。全部」


俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。


彼女は、静かに語り始めた。数ヶ月前、体調を崩し、都会の病院で検査を受けたこと。そこで、余命半年と宣告されたこと。病名は、進行性の難病で、今のところ明確な治療法がなく、ただ死を待つだけだということ。


俺の頭の中は、真っ白になった。余命半年。たった半年。俺が、10年間想い続けた人が、あと半年しか生きられないなんて。


「……ごめんなさい。隠していて。健太君に、悲しい思いをさせたくなかったから……」


葵お姉さんの目から、大粒の涙が溢れ落ちた。俺は、何も言えずに、ただ彼女の涙を見つめていた。


「私ね、健太君が来てくれて、本当に嬉しかった。でも、同時に、怖かったの。こんな体で、健太君の気持ちを受け止める資格なんてないって。また、健太君を傷つけてしまうんじゃないかって……」


彼女の言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。彼女は、俺を傷つけないために、一人で苦しんでいたのだ。


俺は、震える手で、彼女の頬に触れた。冷たい。


「お姉さん……」


俺の目からも、涙が溢れ落ちた。


「それでも……それでも俺は、お姉さんのことが好きだ。病気だって、余命が短いだって、そんなこと、どうでもいい。俺は、お姉さんと一緒にいたい。残りの時間を、お姉さんと共に生きたい」


俺は、絞り出すような声で言った。彼女は、驚いたように俺の顔を見上げた。


「俺は、10年前、あのときから気持ちは変わりません。あの桜の木の下で、お姉さんが言ってくれた言葉を、ずっと信じて生きてきた。だから、今、改めて言います。お姉さん、ずっと好きです」


俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめ、告白した。雨音だけが、俺たちの言葉を聞いていた。


葵お姉さんの瞳から、再び涙が溢れ落ちた。だが、今度は、悲しみだけの涙ではなかった。


「……はい。私も、好きです」


彼女の声は、か細かったが、確かに俺の心に届いた。


俺は、彼女をそっと抱きしめた。雨に濡れた彼女の体は、小さくて、か弱かった。だが、俺の腕の中にいる彼女は、確かに存在していた。温かかった。


夕日が、雨雲の切れ間から顔を出し、俺たちを照らした。茜色の光が、桜の木と、抱き合う俺たちを包み込む。まるで、祝福されているかのように。


次の日、雨は上がっていた。空には、夏の高い雲が浮かんでいる。


俺と葵お姉さんは、二人で村を歩いた。10年前の思い出の場所を、一つ一つ巡っていく。


初めて会った祖父母の家の縁側。

一緒に魚を捕まえた川。

秘密基地を作った裏山。

そして、告白した、あの桜の木の下。


それぞれの場所で、俺たちは笑い、語り合った。あの頃の無邪気な笑顔も、今の大人になった笑顔も、どちらも愛おしかった。


「健太君、ありがとう」


葵お姉さんが、俺の手を握りながら言った。


「何が?」


「全部。私を見つけてくれて、そして、私を好きでいてくれて。こんな私を、受け入れてくれて」


彼女の言葉に、俺は何も言えなかった。ただ、彼女の手を強く握り返した。


残された時間は、短いかもしれない。それでも、俺は後悔しない。この一週間、彼女と再会し、そして、彼女の全てを受け入れることができた。それだけで、俺の10年間は、意味があった。


俺は、この残りの時間を、葵お姉さんと共に生きることを決めた。

彼女の笑顔を、一つでも多く見たい。

彼女の温もりを、少しでも長く感じていたい。

そして、彼女が、この世界に生きていた証を、俺の心に刻みつけたい。


「オモイビト」――。


俺にとって、葵お姉さんは、永遠の「想い人」であり、同時に、俺の人生に「重い」意味を与えてくれた、大切な人なのだから。


(完)

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